いつもの帰り道が涙でぼやける。輪郭が曖昧になった点字ブロックの上を意味もなしに歩く。
A社に送るはずの書類を誤ってB社に送ってしまった僕は社員全員の前で怒鳴られた。公開処刑された僕は居心地が悪くトイレで一度落ち着くことにした。
自責の念に押しつぶされそうな自分を便器に支えてもらいながら自分を励ます。これが僕なりの応急処置だ。少しずつ、少しずつズタボロにされた心を縫合していく。
大丈夫だ、やってしまったことはしょうがない。反省して、切り替えていこう。そう言い聞かせながら針を縫う。遠くから二つの足音が近づいてくるけど、気にしない。個室だから僕の存在は隠されている。いま、この空間は誰にも罵倒されない僕だけの空間だ。誰も介入させない。呼吸と卑下しがちな思考を落ち着かせる。一定のリズムで刻む足音は僕の扉を通り過ぎて、やがて止まった。
「なんでこんな簡単なこともできないんだ。ふつーできるだろ、あいつ今まで何やってきたんだ」
一瞬の沈黙のあと、聞こえてきたその声は聞き覚えがあった。きっと、上司だ。いや、絶対上司の声だ。
血の気が引いて、世界が遠のく。ほんとそうですよね、と嘲笑を含んだ相槌が鼓膜にねっとりこびりつく。この声は普段仲のいい同僚の声だ。
2人は間違いなく僕の話をしていた。心臓が早鐘を打ち、その鼓動に合わせて心を縫った自己肯定感が引きちぎられていく。
「あいつまじ馬鹿ですよね、知能が低い」
「人事部はなんであんな出来損ないを採用したんだろうな」
あぁ、耳が言葉を拾ってしまう。
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
「バレてないだけで絶対やらかしたの今回だけじゃないですよ」
「ほんとお荷物でしかないんだよな」
やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
「もうあいつが視界に入るだけでイライラするんですよね」
「いない方がこっちは助かるんだけどな」
2人は「あいつ」に対して尊厳破壊してトイレから出て行った。「あいつ」がすぐそばにいることに気付かずに。
その後のことはよく覚えていない。間抜けの殻で、いつの間にか終業の時間だった。何も考えず、何も感じずオフィスを出た。電車の音も街の喧騒も全てがどうでもよくて、自分の体を家へと運んでいた。
どこで間違えたんだろう。ぐちゃぐちゃにされて荒野と化した心で考える。今回のミスで僕の評価が露呈されただけで、元々職場の人からよく思われていなかったのかもしれない。多分、今回のが引き金になっただけで少しずつ印象を下げていたんだろう。じゃあどうすれば良かった。別に今回だけで他にミスはしていない。それにも関わらず表でも裏でも最低な評価だ。
最悪だ。
戻りたい。トイレに入る前に。
戻りたい。メールを送る前に。
戻りたい。この会社に入社する前に。
戻りたい。楽しかったあの頃に。
戻りたい。ストレスなんて言葉を知る前の僕に。
戻りたい。無邪気に笑える僕に。
でも、時計は無常にも右にしか回らない。
タイムマシーンは、存在しない。
その事実がただ、夜に浮かぶ信号機を涙目で見つめる僕に降り注いでいた。
好きです、付き合って下さい。
緊張で震える心臓を必死に隠しながら気持ちを伝えた僕に高校卒業間近にやっと春が訪れた。ベタな告白だったけど、それが功を奏したのかもしれない。
可愛いと思う女の子の話題になった時にすぐ名前がでてくることはなかったけど、僕にとっては彼女がダントツで可愛いと思ってたし、みんなも口にしないだけで内心では彼女のことを狙っているのではないかと疑念していた。それくらい彼女に惚れていた。
そんな彼女に二つ返事でいいよ、と言われた時の喜びは筆舌しがたいほどだった。告白が成功した後に何を発言したのか全く覚えていないけど、それくらいあの時の多幸感に包まれて頭が真っ白になる感覚は、今後の人生においてもそう何度も経験できないだろう。
しかし、彼女と解散した後に冷静になって考えると、初めてできた恋人という関係性にどうすればいいのかさっぱり分からなかった。他の男と比べられて捨てられるのではないだろうか、知らぬ間に蛙化現場を引き起こしてフラれるのではないか。そういった類の恐れや不安と闘いながら彼女との関係を深めていった。会う度に彼女の知らない一面に出会えたし、会う度にその可愛さに度肝を抜かれた。普段は軽口を叩いたりツボが浅くてすぐ笑ったりするんだけど、たまにフッと見せるわがままで甘えてくるところや真剣に悩んでる様子は男心をぐっと捕まえられた。我ながら単純だと思うけど、彼女に触れる度にそんな思考は霧散していった。それでもよかった。もう制服は着れなくなるから、と制服デートを時間が許す限り行った。大学に入っても変わらず会えたらいいなと淡い希望を抱いて入学したけど、それぞれ別のコミュニティが出来ていくことで徐々に会う頻度はどうしても減っていった。だけど、いや、だからこそ会うことに希少性を感じたし、彼女もそう思って欲しいから彼女が欲しがっていたものをプレゼントしたりイメチェンしてみたりした。でも、何かと理由をつけて会えなかったり、LINEの返信速度が遅くなってきた。やっとデートできると思ったら早めに解散を強いられたりして、徐々に距離ができてきた。認めたくないけど、彼女にもう気持ちが無いように感じた。それでも彼女から別れを切りだされることは無くて、それが返って不気味だった。会う度に、返信がある度に喜びと共にやってくる虚しさ。それに耐えられるほど大人じゃない。好きだからこそずっと一緒にいたい。でも、このままだと気持ちだけが先行してきっと上手くいかない。だから今日、僕はこの言葉を伝えるつもりだ。
わかれよ
年末の大掃除って概念を生み出した人って誰だよ、クソ面倒な慣習を植えつけやがって。1人でそんなことを言いながらも、世間体を気にして渋々大掃除を始めた。億劫だなと思っていた掃除も、やり始めれば案外楽しいものだ。徐々に上がってきた気分に合わせて、使わないのに捨てられなかったあれこれを片していくと、引き出しの奥に小学校時代のアルバムを見つけた。斜陽が差し込み、部屋には埃が舞っている。橙色をした日差しを浴びたアルバムを開くと、記憶が濁流のように押し寄せ、過去にタイムスリップした。
いや、もちろん時計は右回りに進んでいるし、ビール腹が治る訳ではない。でも、アルバムに収められた写 真から確実にあの時の風景や匂いを感じられる。懐かしい香りに胸がつんと痛くなる。
リレーで小さな体躯をめいいっぱい走らせているかつての友人。鉛筆で必死に何かを書き留めている初恋の子。沈みかけの太陽を背景にニコッと笑っている僕。左手には凹凸のなさそうな泥団子が大切そうに握られていた。未来のことなど何も知らない純粋無垢な少年少女が四角いフィルムの中で生きていた。色が褪せてところどころ塗装が剥がれたランドセルはいま何処にいったんだろう。あいつは元気だろうか。小学校はあの頃と変わらない状態で存在しているのだろうか。誇りを被った記憶を取り除いていくと、次々と過去と現在の線が色濃くなって疑問が溢れていく。知りたいけど、知りたくない衝動に駆られながら郷愁に耽っていると、将来の夢が書かれたページに辿り着いた。
「プロ野球選手になることです」
かつての自分は、まだおぼつかない字でそう書いていた。
眩しかった。
なんでなりたいのかって聞いても、「野球が好きだから」と返ってきそうな真っ直ぐな夢を、現実は壁を作った。それを乗り越えた先にきっとあるはずなのに、途中で挫折した現在。あの頃の自分が今の自分を見たらなんて言うんだろう。普通にすがり、その普通のレールをギリギリで足掻きながら必死に掴み続けている自分はどう見えるんだろう。野球を続けている訳でも、今はもうプロ野球すら見ていない自分になんて声をかけるんだろう。
かつての眩しい自分と直接目を合わせられないからサングラスを付けたい。でも、そうやって見た世界は暗く重苦しい。
あの頃は幸せなんて深く考える必要はなかった。ただ好きなものを見つけて、好きなように過ごしていた。知らぬ間に幸せがそこら辺に転がっていた。なのに今は知らぬ間にストレスは溜まっているし、見たくない現実がそこら辺に転がっている。幸せを見つけるより他人の不幸を探していた。幸せになるより、不幸せと思われないよう生きていた。本当に好きなものを好きと言えなくて、周りが共感してくれる確信があるものを好きと公言していた。普通だと思われたくて。社会にでて、歯車として正常に稼働していることを証明したくて夢とか幸せなんて二の次だった。
ださいなぁ。
正直、幸せなんて分からないけど、好きなことを続けた先に幸せがあるんだと思う。あの頃の自分はそうだった。ただ好きなものを真っ直ぐに好きと言って、それで幸せだった。周りの目なんて気にしてなかった。
アルバムを閉じる。いつの間にか日は沈みかけ、薄紫の薄暮が夜を迎えいれる準備していた。
泥団子を握ってた自分と目があった。
ひとつ、恋人を作る
ひとつ、仕事で成果を上げて、社内で認めてもらう
ひとつ、作品を投稿する
沢山の人が形成した長蛇の列を潜り抜けて、冷たい夜風が肌を愛でる。あまりの寒さに全身が粟立ち、身体が思わず縮こまる。周りも同じようなポージングを取っていて、その姿が情けなく、自分も同じような姿勢であることに恥ずかしくなったけど、姿勢を正すことを躊躇するほどに身体の芯まで冷え切っていた。
なるべく肌を寒さから隠したくて、手をポケットの中に入れる。1人分の手のひらは空っぽのポケットに入れてもまだスペースに余裕がありそうだった。カイロを持ってこなかったことに軽く後悔しながら、確か去年もカイロを忘れて凍えるような寒さに必死に耐えながら初詣にきたことを思い出す。
やった、大吉だ、と喜びの表情を全面に出す彼女はとびきり可愛かった。2人とも冷え性だったからお互いの指は血が通っていないんじゃないかというほどに青白かったから、御神籤を見せあった後は指を絡めてお気に入りのコートのポケットに温もりを求めた。小物ならすんなり入るポケットも、2人の手を入れると大きく膨らみ、自然と近づく彼女との距離に心臓が早鐘を打ってうるさかった。来年もまた行こうね、と嬉々として話す彼女。そうだね、絶対行こう。改めて、新年明けましておめでとう、今年もよろしくね。こちらこそあけおめ、ことよろ。
でも、去年のこの日、白い息と共に交わされた約束は冬の夜空に消えていった。
今年、横に彼女の姿はない。未だ脳裏にチラつく彼女の声と匂いと表情。女々しいと分かっていながら引きずり続けている自分に辟易する。そんな自分と決別するのが今年の抱負かもしれないな。そう思って、彼女のトーク画面に下書きされた文字を消していく。
新年明けましておめで