たま

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 年末の大掃除って概念を生み出した人って誰だよ、クソ面倒な慣習を植えつけやがって。1人でそんなことを言いながらも、世間体を気にして渋々大掃除を始めた。億劫だなと思っていた掃除も、やり始めれば案外楽しいものだ。徐々に上がってきた気分に合わせて、使わないのに捨てられなかったあれこれを片していくと、引き出しの奥に小学校時代のアルバムを見つけた。斜陽が差し込み、部屋には埃が舞っている。橙色をした日差しを浴びたアルバムを開くと、記憶が濁流のように押し寄せ、過去にタイムスリップした。
いや、もちろん時計は右回りに進んでいるし、ビール腹が治る訳ではない。でも、アルバムに収められた写 真から確実にあの時の風景や匂いを感じられる。懐かしい香りに胸がつんと痛くなる。

 リレーで小さな体躯をめいいっぱい走らせているかつての友人。鉛筆で必死に何かを書き留めている初恋の子。沈みかけの太陽を背景にニコッと笑っている僕。左手には凹凸のなさそうな泥団子が大切そうに握られていた。未来のことなど何も知らない純粋無垢な少年少女が四角いフィルムの中で生きていた。色が褪せてところどころ塗装が剥がれたランドセルはいま何処にいったんだろう。あいつは元気だろうか。小学校はあの頃と変わらない状態で存在しているのだろうか。誇りを被った記憶を取り除いていくと、次々と過去と現在の線が色濃くなって疑問が溢れていく。知りたいけど、知りたくない衝動に駆られながら郷愁に耽っていると、将来の夢が書かれたページに辿り着いた。

「プロ野球選手になることです」
かつての自分は、まだおぼつかない字でそう書いていた。

眩しかった。

なんでなりたいのかって聞いても、「野球が好きだから」と返ってきそうな真っ直ぐな夢を、現実は壁を作った。それを乗り越えた先にきっとあるはずなのに、途中で挫折した現在。あの頃の自分が今の自分を見たらなんて言うんだろう。普通にすがり、その普通のレールをギリギリで足掻きながら必死に掴み続けている自分はどう見えるんだろう。野球を続けている訳でも、今はもうプロ野球すら見ていない自分になんて声をかけるんだろう。
かつての眩しい自分と直接目を合わせられないからサングラスを付けたい。でも、そうやって見た世界は暗く重苦しい。

あの頃は幸せなんて深く考える必要はなかった。ただ好きなものを見つけて、好きなように過ごしていた。知らぬ間に幸せがそこら辺に転がっていた。なのに今は知らぬ間にストレスは溜まっているし、見たくない現実がそこら辺に転がっている。幸せを見つけるより他人の不幸を探していた。幸せになるより、不幸せと思われないよう生きていた。本当に好きなものを好きと言えなくて、周りが共感してくれる確信があるものを好きと公言していた。普通だと思われたくて。社会にでて、歯車として正常に稼働していることを証明したくて夢とか幸せなんて二の次だった。

ださいなぁ。

正直、幸せなんて分からないけど、好きなことを続けた先に幸せがあるんだと思う。あの頃の自分はそうだった。ただ好きなものを真っ直ぐに好きと言って、それで幸せだった。周りの目なんて気にしてなかった。
アルバムを閉じる。いつの間にか日は沈みかけ、薄紫の薄暮が夜を迎えいれる準備していた。

泥団子を握ってた自分と目があった。

1/4/2024, 3:41:04 PM