閉ざされた日記
わた雲が埋め尽くした曇り空は、街から光を奪いさっていた。押しつけるように重たく天井が近い。
道に並んだ枯れ木達は、無数に枝分かれしたまま空を仰いでいた。
木枯らしが吹き付けて顔を刺してきたので、マフラーの中に顔を沈めるようにあごを引く。厚底のブラウンのロングブーツが、乾いた落ち葉をぱりぱりと踏みつぶした。
散らかったアスファルト、人通りのない真っ直ぐな道、乾いた空気、色素がなくなってセピア色の世界に足を踏み入れたようだった。
一張羅でめかし込んだ、バーバリーチェックのマフラーだけが、色鮮やかに儚く浮いている。
寒さをごまかそうとコートの中に手を入れると、
携帯電話が振動した。彼からの通知だった。
『ごめん。』
『気付かなかった』
『今電話できる?』
私は既読をつけずに携帯電話をコートにしまう。
顔を上げると、視界を遮っていた枯れ木が無くなり、見慣れた角に差し掛かっていた。
道を曲がると冷たかった冬の風が急に止んだ。
夕飯の準備をしているのかクリームシチューの匂いがする。
壁に立てかけられたハマーの黄色い自転車、
公園で遊ぶ子どもの声、陽が傾いた茜色の空。
街は色を取り戻していた。
美しい夢を見た。
どこか深いところから浮かびあがり水面に顔を出すと、そこは南国の海だった。
クリスタルグリーンの透きとおった水中に、網目状に広がる光ぼう線、頬をあたたかい風が撫でる。張りついて口の中に入った髪を元に戻した。
もう一度水中に入ろうと身体を前転させると、呼吸が楽で、自分がマーメイドになっていることに気付いた。スパンコールのように光を乱反射する鱗の部分を、上下に上手く動かしながら深いところに入っていく。
横を見ると、でこっぱちのコブダイが眠そうに半目でこちらを見ていた。
底に近づくとファインディング・ニモに出てくるオレンジと白が美しいカクレクマノミがいた。その隣には黄色と黒が奇麗なエンゼルフィッシュ、奥にはピーチピンクが煌めくサンゴ礁が広がっている。
遮られた光が気になって上を見上げると、マンタの裏側が通り過ぎた。タレ目の笑顔がアンニュイだ。その後、再び光の剣が海を射し込んでいく。
つと奥の影から何かが忍びよってきた。
顔にタトゥーのようなカミナリ模様が入った、筋骨隆々の男のマーマンだ。
私はその場を離れて水中から飛び出し、岸辺に腰掛けた。
嫌な予感は当たり、彼は追いかけてきて海面に飛び出し、その重厚な身体で私の腹に覆いかぶさった。そして、ゆっくりと顔を近づけてくる。
――あ、これはやばい。ちょっと待ってちょっと待っ――。
……目が覚めると、家で飼っているネコが口元をぺろぺろと舐めていた。
「1」
この世界は回っている。
「2」
地球は太陽の周りを回り、
「3」
水は雨になり、海になり
「4」
人は生まれては死に、
「5」
平和になれば戦争を起こし、
「6」
生産をして消費をする。
「7」
遊園地ではメリーゴーランドが回り、
「8」
近所へ行けば寿司が回っている。
「9」
気を紛らわそうと、思考を遠くに飛ばしていたら目眩がしてきた。
「いける!いけるよー!」
目を開けると視界の中央から木製のバットが飛び出しており、地面が回っていた。
「10!」
……真っ直ぐ歩けるかなあ。
尿意を催して目が覚めた。
夢かうつつか意識は曖昧で、少しの高揚感があったのだが、身体ははっきりと体外に尿を排出せよと命じており、ふたつの感情がせめぎ合っていた。
布団と私の癒着は激しかったが、最終的に生理現象に負けて布団を剥がすことになった。
両足をベッドに下ろすと、足元にひやりと床の冷たさが伝わる。
気休めにスリッパを履いて、部屋のドアを開けると、隙間からキャミソールの胸元にするりと風が入り込んで鳥肌が立った。
室内は冷気が冴えわたり、照明のスイッチを探す私を焦らせた。
家のトイレは寒いのだ。
私は下着を下ろすと、ダメージを最小限におさえようと、そーっと腰をおろすのだが、案の定無駄だった。
ヒャッとする。
便座は私から貴重な体温を奪い、両腕の肌を七面鳥に変えた。
抑制していた筋肉が弛緩され、そこからも温かさが出ていった。湯気が立つのを恐れて、私は股を閉じる。用を足して安心したのも束の間、次の難関が待っていた。
洗面台の前に立つ。お湯をひねろうか水をひねろうか迷った挙げ句、水からお湯に変わる待ち時間を憂い、水の蛇口をひねった。出てきた水に指先だけ当てて温度を確認してみたが、どうあがいても温かいはずはなく、決断を迫られる時が来た。
―うん、二度寝は無理だな。
私は蛇口をひねって水を強くした。