「好きになってしまうじゃないか」
「今日はもう帰りなさい」
普段、口煩い先輩の声が、やたらと大きく聞こえた。
「いえ、まだ途中ですから」
「あとは私がやっておくから、家に帰りなさい」
どうやら俺の要領が悪く邪魔だから帰れというわけではないようだ。
「いいから帰りなさい」
先輩の口調はいつもと同じで鋭いが、眉は下がっている。
これは、残念な子、要らない子ってことか?
「わかりました……」
追い出されるように会社の外に出ると、ひんやりとした風が気持ち良かった。
※
「……ざんじゅうななどはちぶ」
昨晩、布団に入ってからの倦怠感と寒気、体の節々の痛みに嫌な予感はしていたのだ。
誰がどう見ても発熱しているという数値を表示している体温計をスマホで撮影し、送信。
俺の意識はそこで途切れ────
※
汗をかいた不快感に襲われ、瞼を開ける。
カーテンから漏れる光がない。
時間を確認しようとスマホに手を伸ばすと、一通のメッセージが届いていた。
玄関のドアノブに引っ掛けてあるビニール袋を回収。
スポーツドリンク、ゼリー飲料、常温保存できるタイプのゼリー、のど飴、額に貼る冷却シートと汗拭きシート……
そして、その一番下にメモが入っていることに気がついた。
「あーもう……こんなこと書かれたら……」
一昔前のトレンディードラマに出てきそうな、いかにもキャリアウーマンという風貌をしている先輩。
彼女は見た目通り、他人にも厳しい。
その先輩が、昨日やたらと早く帰れと言っていたのは、俺の不調に本人よりも早く気づいたからだろう。
たとえそれが、後輩に対する先輩の『当たり前』の行動だったとしても、こんなの……
ぶるぶると首を振る。
いやいや、風邪で思考がおかしくなってるだけだ。
俺はすべてを熱のせいにした。
それが間違いであると気づくのは、まだまだ先の話──
────風邪
「彼女の季節」
ローカルテレビ番組やラジオから聞こえてくるのは、季節の挨拶のような注意喚起。
『タイヤの交換はお済みでしょうか』
『冬用タイヤへの交換はお早めに』
山に三度雪が降ると里でも降る──という言い伝えがある。
すでに二度雪を冠った山。
今朝は濃い霧で何も見えない。
ルーズリーフを一枚取り出して、彼女は窓の外へと視線を向けた。
「ふふ……たのしみ」
にまにまと笑う彼女。
おそらく、これから始まるウインタースポーツシーズンに思いを馳せているのだろう。
「また勉強中なのにニヤニヤしてる。そんなにスキー場のオープン日決定が嬉しいか」
週明けからの試験が終われば自宅学習期間という名の試験休み。
ちょうどその頃に大雪が降るという予報が出ているのだ。
「だって、新しいウェア買っちゃったんだもん。見る?」
「いや、今はいい」
「えー」
「勉強が先だろ。終わってから見せてくれよ」
筋金入りのスノーボーダーの彼女が、一番輝く季節がやってくる。
────雪を待つ
「もうひとつの東京タワー」
婚活イベントで出会った人とのデートは今日で三回目。
まさかお目当ての東京タワーの展望台に登る前に結論が出てしまうなんて。
だが、答えが出たからと言って、ここで帰るのもどうなんだろう……
星の見えない都会の空に、スッと伸びる矢印のような塔。
キラキラと輝く色は、目が痛くなるほど。
写真や動画を撮るカップルたち。
私たちもそういう風に見えているのだろうか──それは嫌だな。
自分でも驚くほど、スッと出てきた感覚に、安堵し、申し訳ない気持ちになる。
だが、それはそれ、これはこれとして、東京タワーに登ることを楽しんだ方が良いだろう。
東京生まれの東京育ちだけど、こうやって東京タワーの中に入るのは初めてだから。
周囲の圧倒的なカップル率に、ますます「同じように見られなくない」という思いが積み上がる。
展望台から街を見下ろす。
「……あ、これが『もうひとつの東京タワー』か」
都道三○一号と国道一号が合流しており、そこを走る車のライトが塔のように見えるのだ。
日没してからでないと見ることが出来ない、もうひとつの東京タワー。
それは美しくもあり、どこか滑稽でもある。
手を繋いでいいかと言われ、恥ずかしいからと断わった。本当はそれ以前の問題なのだけど。
次に会う約束を交わさない会話は、なかなか難しく、帰りの乗り換え駅で別れたあと、疲れのあまり大きな溜息が出た。
やっぱり、周りに流されて始めた婚活だからなのだろう。
条件だけでは好きになれない。好きになれそうもないとか、何様だ私は。
しばらく婚活は休もう。
お断りするのにこんなに労力が要るなんて、思わなかった。
────イルミネーション
「しそは合法の和ハーブです」
初夏の手仕事で作っておいた、しそジュースの原液。
普段は水や炭酸水で割って飲んでいるが、ふと思いついたことをやってみようと思った。
しそジュースの原液をグラスにほんの少し入れ、そこに炭酸水と焼酎を注ぐ。
「お、おお……すごい、きれい……!」
まるで赤いカクテルのよう。
さて、お味の方は……
「これは、リピありだわ」
しそのさっぱりとした風味と炭酸水のしゃわしゃわが爽やか過ぎる。夏にぴったりだ。
それだけではない。身体に染み入る焼酎がじんわりと温めてくれる気がする。
つまり、これは年中いつでもイケるやつ!
「ふふふ……我ながら危険なものを生み出してしまったわ」
私は自画自賛し、おかわりを作ったのだった。
────愛を注いで
「星空が溢れる」
コップが割れたら中身は溢れる。
それならば、人間という器が朽ちたら、その中身はどうなるのだろう。
繋いだ手を握りしめる。
触れた部分の熱が混じり合って、同じ温度になっていく。境目が無くなっていくみたいに。
それでも、どんなに言葉を交わしても、どんなに体をくっつけても、実感がわかない。
たしかに、此処に存在しているけど、それを確かめられるのは見えている部分──外側だけ。
ふたりで見上げる夜空。
地面から足が離れていくような感覚に陥る。
頭上に広がる、数えきれないほどの星空。
「一生、忘れないと思う」
今ふたりで見ている星空も、交わした約束も。
返事は握った手に込められた力の強さ。
どう頑張っても、心はひとつになれない。
それを知ってるから触れたくなるのだということを、私は今夜初めて知ったのだ。
────心と心