「あの家には帰らない」
カレンダーをめくる。
残りの枚数を数えて、ため息をつく。
来年のカレンダーを買うかどうしようか、迷う。
備え付けのベッドも机も狭すぎて、会社の寮は本当に、ただ寝るだけの部屋。
私物はキャリーケースひとつ。
クローゼットの中にある服は、ダンボール二箱分くらいか。
いつだって、どこにだって行ける。
あの最悪な実家以外なら。
絶対に、絶対に、あの家には帰らない。
生きるために、家を出たのだ。
来年の今頃、何をしているのかわからなくてもいい。
その日暮らしのような日々でも、あの家にいるよりはマシだ。
寮に住めることが第一条件。職種は問わない。
スマホで求人情報サイトの検索結果をスクロールしていく。
夏は山小屋、冬はスキー場に住み込むのもいいかもね。
────カレンダー
「それでも私たちは幸せな方だった」
推しているバンドが解散した。
それでも私たちは幸せな方だった。
解散宣言はライブでだったし、その数ヶ月後に解散ライブ開催。
ラストアルバムのベストアルバムには新曲収録。
「ほら、私たちは恵まれている方だよ」
「公式サイトで解散を告知するだけのバンドやアイドルグループがどれだけいると思っているの?」
「そうだよね……私ら幸せな方だ」
他のバンドやアイドルグループと比べたって仕方ないのに。それに、そんなの、そのバンドやアイドルグループの人たちやそのファンに失礼だ。
それでも、そうでもしなければ、耐えられない気がした。どうか許してほしい。
ぽっかりと心に穴が空いたようだ──という表現がまさにぴったりだ。
その穴を埋めるために、私も彼女たちも、色々なことに手を出したり、思い出したかのように婚活を始めたり、仕事に打ち込んだり……
それぞれの道を歩みつつ、時々会って思い出話に花を咲かせ、再結成を待ち望む日々が続いた。
「もうさ……このまま再結成しなくても良いんじゃないかって思えてきた」
そんなあるときのお茶会で、ぽつりと呟いた子がいた。
私も心の何処かで思っていたこと。
「伝説は伝説のまま。思い出はこのまま綺麗なままでいいんじゃないかって」
解散して何年経っただろう。
新たな推しを見つけた子、二次元を覗き込む子もいたし、結婚したり、子供を産んだり、音信不通になった子もいる。
「今、再結成しても、昔みたいに追いかけられないし」
そう言う彼女は五年前に子供を産んだ、いわゆるシングルマザー。
「そうだね……」
私の他にも同じことを思っている子がいることに安堵する。
「私も」
そう言う私も結婚が決まっている。しかも結婚後は海外赴任する彼についていくのだ。少なくとも五年は向こうにいることになるだろう。
自然と窓の外を眺める。
あの頃、みんなでよく集まっていた店は、どんどん無くなっていった。
最後に残ったこの店も、いつまであるかわからない。
形あるものは、すべていつか無くなる。
永遠とか、絶対とか、そういうものを信じることができなくなるのが大人になることだと、彼らは言っていた。
推しのその言葉なんて、実感したくなかったよ。
────喪失感
「趣味でやるのが一番」
自分が着ている服とまったく同じ服を着ている人を見かけたとき、なんとなく居心地が悪くなった。
既製品なのだから、自分以外の人もそれを買っていることくらい、わかっていたはずなのに。
「他の人と違う格好がしたいってこと?」
小学校時代からの友人が首を傾げる。
「いや、なんか、制服じゃないのに、同じもの着てるって、なんか気持ち悪くて」
「私は、同じ服着てる人見かけたら、親近感湧くけどなぁ。センス同じなんだーって思う。流行ってるものなら、同じの着てても別に気にしないけどなぁ」
「流行りを否定するつもりはないんだよ。ただ、人とまったく同じものを着たくないというか……流行りのものだけど、よく見るとちょっと違うよね、っていう箇所がほしい、みたいな」
「うーん……そっか……たぶん根本的な感覚からして違うのかも」
「そうかも」
彼女は、私のことも他人のことも、否定しない。
「だから、洋裁習い始めたんだね」
良いと思う、と彼女。
「というか、アクセサリーは昔から作ってたし、なんでそっちの道に行かなかったのかな、と思ってた」
「あー、それはね〜。自分で自分のものを作りたいから。もちろん、親しい人から頼まれたら作るけど、たくさんの人のために作る、ってことはしたくなくて……」
私は自分のために作りたいだけ。
親しい人に作るものも、私がその人に贈りたいだけ。
仕事にしてしまうと、私が本当に作りたいものが作れなくなる気がする。
だから、たぶん、趣味でやるのが一番合っているのだろう。
────世界に一つだけ
「雨宿りの時間は終わらない」
それは、ふとした瞬間だった。
今までただの幼馴染だと思っていた君が、きらきらと輝いて見え始めたのだ。そして、自分の胸もドキドキしていることに気付いた。
降り続く雨。
止む気配がない。
雨宿りの時間は終わらない。
激しくなる雨音を追いかけるように、体内を駆け巡る。
あぁこれは、アレだ。
認めたくない。
なぜ気付いてしまったのだろう。
君は無自覚に距離が近い。
今も隣に座っている。ごく自然な流れで。
付き合っていない男女の距離ではない。
だが、今さら離れようとも思わない。
そういえば、君は雷が苦手だったな。
近づいてくる雷。
びくり。震える肩を思わず抱き寄せた。
こんなにぴったりとくっついてしまえば、いくらなんでも気付かれてしまうだろう。
だが、これで君が少しでも安心してくれるなら……
────胸の鼓動
「High jump」
君がどれだけ努力していたのかを、どれだけのことを我慢していたのかを、知っている。
僕はただ、祈ることしか出来ない。
そりゃ、良い結果を残せたら最高だ。
だけど、僕が祈っているのは、君が怪我をしないこと。
こんなこと、本人にはとてもじゃないけど言えない。怪我をしてサッカーを辞めた僕に気を遣ってしまうだろうから。
君がチラリと僕を見る。
右手を挙げて、踏み出す。
走って、走って、跳んで、くるりと一回転。
まるで翼が生えているかのように。
そして、すぐに僕の方を見る。
真っ直ぐに伸びた背筋。
満開のひまわりのような笑顔で。
それを見て、やっと僕は息が出来る。
それなのに、眩しくて、眩しくて、君がそのまま空に吸い込まれてしまいそうで、胸の奥が痛い。
────踊るように