「初めての里帰り」
物心つく前から耳にしていた音というものは、意識していないうちに染み付いていて、まるで空気みたいに溶け込んでいる。
そして、その土地から離れたとき、初めてその音が無いということに違和感を覚えるのだ。
ゆっくりと、噛み締めるように坂を登る。
今年の春、この町を出て都会でひとり暮らしを始めたから、初めての『帰省』というやつだ。
荷物が多いのにバスを使わなかったのは、無性に歩きたかったから。
じりじりと太陽が剥き出しの腕を焼いていく音がするようだ。
都会よりも太陽が近いのだと実感する。
ぼーん
ぼーん
ぼーん
毎正時に鳴る寺の鐘。
始めの三回は捨て鐘だ。
そのあと時刻の回数鳴らす。
ぼーん
ぼーん
ぼーん
ぼーん
すれ違う観光客や、駅へ向かうバスを待つ人の間を縫って、坂を登る。
離れて、やっと気づいたことがあるんだ。
当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかったと気づいたのは、この町で聞こえる音だけではない。
ずっと、ずっと隣にいるのが当たり前だったから気づかなかったなんて。
「おかえり」と微笑む、実家の隣に住む君に、どうやって切り出そうか。
────時を告げる
「貝の使い方」
砂浜で探し回ってやっと見つけた。
噂は本当なのか、試す時がついに来たのだ。
高鳴る胸の鼓動。
貝殻をそっと耳に当て、瞼を閉じる。
「いや、それ此処でやったら、波の音がデカくて貝殻からの音って聞こえないんじゃね?」
「あ、そっか」
「それ、二枚貝じゃねーかよ。耳に当てると波の音が聞こえるのは巻き貝だろ!」
「でえええーマジかよ!なんで教えてくれなかったんだよ!」
「いや、普通わかるだろ……」
いや、わかんねーよ。
俺は今、後悔している。
なぜこいつらと海に来てしまったのだと。
確かに俺たち三人は仲が良い。
だが、だからって……
やっぱり、どんな汚い手を使ってでも女子と来るべきだったんだ!
汚い手ってどんな手段か、わかんねーけど。
「つーかさぁ、二枚貝の使い方って言ったら、こうだろ?」
そう言って、悪友は貝ふたつを自分の胸に当てる。
「男がやってもなぁ……」
「ダメかー!」
「なんか、すげー虚しくなってきた」
やべぇ。マジでここにはバカしかいねぇ……
────貝殻
「惑わされずに、冷静に」
昨日まで、いや、ついさっきまでは、いつもと同じ。普通だった。たぶん、どこにでもあるような日常。
それが、どうして……
昼休み。校庭で友人たちとボールを蹴るアイツが、きらきらと輝いて見える。
目の奥が熱くなって、涙がこぼれそうなくらいに。
世間一般ではたぶん、たいしてカッコよくも悪くもない。ごく普通の、十六歳の高校生男子。
特記事項があるとすれば、幼馴染だということ。そして、私のことが好きだと告白してきたこと。
前々から気になっていた、アイツの好きな子が私だとか、なにそれ。どういうこと?
ずっと好きだったっていつから?
本当は言うつもりなかったって、どういうこと?
訊きたいことはいっぱいある。
だけど、もっと知りたいのは、私がアイツをどう思っているのか、ということ。
キラキラとドキドキに惑わされないように、冷静にならなきゃ……
────きらめき
「近くに居なくても」
歩いているとき、ふと目に留まった名も知らぬ花。
コンビニの前、駐車場で跳ねる鳥。
見上げた空に浮かぶ雲の形。
「そんなん撮ってどうすんだ?インスタ?」
大学の同じ学部の友人が首を傾げた。
「いや、そうじゃなくて……」
「女か!」
「あー、うん」
「ま、マジか……お前に彼女がいるとか……」
なんでそんなこの世の終わりみたいな顔して見てくるんだ。
「どうせ二次元キャラとか脳内彼女とかだろ」
失礼なやつだな。実在してるっつーの!
俺は幼馴染だということや付き合い始めたきっかけ、彼女がどれだけ可愛くて可愛くて可愛いかをとことん語ってやった。もちろん、ツーショットの写真も見せてやる。
「うわ。マジで……すっげーかわいいな……」
「そうだろーそうだろーうへへ……」
「隣の男はキモいけどな」
「ほっとけ」
俺は、その彼女に日常の何気ない風景を送っている。
返事はスタンプひとつだったりすることもあるが、課題が多く忙しいから仕方ない。
近くに居られないなら、せめて近くに居る気分を味わってほしい。
ただ、俺が送りたいから送ってるだけだ。
「遠恋かー。いつまで続くかなー」
「しばくぞてめぇ」
────些細なことでも
「太陽に手を伸ばす」
「君のお母さんは、いつも君を見守っている」
俺の生い立ちを知った人は、大抵そう言う。
その言葉に反発したこともあった。
だが、今はもう、その言葉に同意するフリが出来るようになっている。
余計なことを言って、面倒なことになるのは避けたいし、言う側には悪気はないだろうから。
心のどこかで思っていたことを、やっと認めることが出来たのは、母の足跡を辿るようになってからだ。
真っ青な空。
太陽に向かって真っ直ぐに伸びる向日葵がどこまでもつづく。
あと数ヶ月すれば、ここは雪に埋もれる。
母の生まれ育った町に、節目節目で訪れるのは、墓参りするよりも母を身近に感じられるからかもしれない。
もしも、見守ってくれているとしたら、俺のこの選択を応援してくれるだろうか。
青空に手を伸ばす。
太陽の熱を、体中に、心の奥底まで、取り込むように。
────心の灯火