「嗅ぎたい彼氏」
別々の高校に進学したから、家が隣同士でも偶然に会うのは難しい。
久しぶりのデートを楽しみにしていたのに、台風の影響で今日は一日中雨。
仕方ないのでおうちデートで映画鑑賞に予定を変更。
部屋に入るなり、彼は抱きついたまま私の首筋に鼻を寄せた。
「なんか、つけてる……」
がばりと音がしそうなくらい、勢いよく私から離れ、若干不機嫌そうに眉を顰める彼。
「あ、うん。友達がくれたの、香水」
「……ふーん」
「嫌?」
「うん」
「……そう」
まぁ、香水が苦手な人も少なくないし。仕方ないか。
「デートの時に使って」と言われたけど、苦手な人の前では使えないよね。
「いや、香水自体が苦手なわけじゃ……ないんだ」
「そうなの?」
「んー、なんつーか、そんなもんつけなくてもいい匂いするのに、なんでわざわざ香水つけんのかなーって……」
「な、なにを……」
「久しぶりだし、ちゃんとお前の匂い嗅ぎたいんだってば」
再び抱きついた彼は、首筋に噛み付くように顔を近づけて鼻を鳴らす。
犬?犬なの?
「あー、それもいいな。お前の犬なら喜んでなるよ」
「ばっ……誤解を招くようなこと言わないで!」
────香水
「どちらからともなく手を繋いだのは」
手を繋ぐなんて、小学生の時以来だ。
二十歳をとうに過ぎた、ブラックフォーマル姿の女性ふたり。
駅のホームのベンチに一時間半座ったまま。
「何年か前、あの子のお母さんが具合悪かったとき、相談してくれなかったこと、さみしかった……」
「うん……」
「あの子、いつも、いつも、自分のことは、二の次だった……」
「うん……」
「気付いて、あげられなかった……」
「うん……」
「ひとりで、あんな病気と闘ってたなんて……」
「うん……」
ぽつり、ぽつりとこぼす呟きに、相槌を打つことしか出来ない。
何か言ってしまったら、そのまま泣き崩れてしまう気がする。
ごめんね。知ってたんだ、本当は。
だけど、私には何も出来なかった。
そんなの、知らなかったことよりも、この気持ちを持っていく場所に困る。
このまま時間を止めてほしい。
立ち上がることが出来ないまま、終電の時間が近づいている。
どちらからともなく手を繋いだのは、あの子と過ごした時間を、その存在を、知っているふたりだから、この痛みも寂しさも辛さも共有できるような気がしたのかもしれない。
────言葉はいらない、ただ……
「本能が、それは訊くなと言っている」
大学入学を機に上京し数年。
東京はあらゆるものが高い。
俺は社会人になってからも大学入学時から住んでいるアパートに住み続けていた。
ある日曜日。
長らく空室だった隣に誰か引っ越してきた。
都会では引越しの挨拶はあまりしない。
だから、インターフォンが鳴るなんて思わなかった。
「すみません、私、隣に引っ越してきた者なのですが……」
若い女性と思われる声。
おいおい、防犯意識低くねーか?
ちょっと気をつけるように言っておいた方がいいか……?
親切心半分、どんな子なのか見てみたい好奇心半分でドアを開けた。
そこに立っていたのは、なんと、疎遠になっていた幼馴染。
「え……なんで……」
「……いや、なんでって、それこっちのセリフ」
この再会が、すべての始まり。
まるで止まっていた時計が動き出したような感じだ。
田舎の感覚が抜けきらない彼女に防犯面でアドバイスしたり、夜コンビニ行く時に付き添ったり、そのお礼にと食事を作ってくれたり────
そのうち、俺の部屋に彼女がいる時間が長くなり、じゃあいっそ一緒に住むか、ということになった。
人生何があるかわからない。
ところで、彼女が隣に引っ越してきたのは本当に偶然なのだろうか。
────突然の君の訪問。
「あこがれのひと」
「雨音って、好きなの」
彼女はそう言って髪をかきあげた。
その言葉も、その仕草も、見るだけで蕩けてしまいそうで──
※
降水確率は二十パーセント。
朝も晴れていたし、まさか雨が降るなんて思わないだろう。
気象アプリで雨雲レーダーをチェックすると、やはり通り雨のようだ。
昇降口にひとり。
大粒の雨を降らせる雨雲を睨みつける。
「バス、一本見送るしかないか」
図書室へ向かおうとしたそのとき、視界の端に彼女を捉えた。
「……あ、」
声をかけようとしたが、出来ない。
彼女の隣に立つ男子生徒の距離が妙に近いからだ。
そのまま二人を見ていると、男子生徒は鞄から折り畳み傘を出し、彼女に差し出した。
そうだよね……
あんなに素敵な人、モテないわけがない。
それこそ男なんて選びたい放題では?
胸の奥に広がるこの不快感にも似たものを、認めたくなくて、彼女たちに背を向けた。
そのまま、速度を上げて廊下を進む。
ただの憧れではないのかもしれない。
友情ではないのかもしれない。
だけど、恋ではない──ないはずなのに。
私が、彼女に向けているこの気持ちは、何?
いつの間にか、立ち止まっていた。
渡り廊下の両脇は土砂降り。
────雨に佇む
「うれしいこと三つ」
寝る前、ベッドに寝転んで手帳を開く。
毎年買っている手帳は、一日一ページ。
予定は壁掛けのカレンダーとデジタルカレンダーで管理しているから、この手帳は日記帳として使っている。
カチカチとボールペンを鳴らす。
小学生の頃から日記をつけているが、文字の大きさだけでなく、内容もだいぶ変化している。
「今日あった、うれしいことを三つ書いてごらん」
何を書いたらいいのかわからないと言った私に父はそうアドバイスしてくれた。
その「うれしいこと三つ」の内容も、年によって変化している。
いつの頃からか、感情を書き残しておくことが恥ずかしくなった。
ここ数年は、ただあったことだけ、事実のみを箇条書きしている。
それでも、書いていいのか迷うことがある。
誰にも見せることはないのに、日記帳にすら本当のことを知られてしまうのは、やはり恥ずかしいのかもしれない。
「日記とは別のノートに書いた方がいいのかなぁ」
ぱたん。
日記帳を閉じ、ベッドサイドテーブルに置いて呟く。
彼に対するこの感情や、あの子に感じる不快感とか、あの人に対する嫌悪感……
思ったことを、つらつらと書き綴って、自分の心を整理した方がいいのかもしれない。
記録として残すための文章ではなくて、言葉を吐き出すためのノート……
「一冊にまとめられれば、それが一番良いんだけど」
秋の虫の鳴き声を聞きながら、瞼を閉じる。
考えるのは、また明日。
おやすみ。明日も良いことを見つけられますように。
────私の日記帳