「鍵を返す前日」
角部屋。西向き。六畳一部屋とダイニングキッチン。
五年前、初めてこの部屋で過ごした夜。
実家とは違う街の音がうるさくて寝付けなかった。
理不尽なことを言われ、何も手につかなかった日。
初めてこの部屋に友人を招いた夜。
一歩踏み出そうと決めた日。
色々なことが起きたけど、その度に立ち上がることが出来た。
新しくはないし、夏は暑くて冬は寒い。
それでも、ここが一番落ち着く場所だった。
この鍵を返してしまったら、もう二度とこの部屋には入ることが出来ない。
そんなこと、当たり前のことなのに。
初めてひとりで暮らしたここは、心の実家だ。
帰ることが出来ない実家。
きっといつかこの近くを通る時、この部屋の窓を見つめるのだろう。
────狭い部屋
「最後の最後まで」
終わるでもなく、消えるでもなく、失う。
まさにそうだなぁと、流れる雲を見送る。
指と指の間から溢れ落ちたものが積み重なって、それが広がっていることに気が付かなかった。
あなたへの想いの気配が消えるまで。
いつの日か自然に消えるまで。
最後の最後まで、精一杯好きでいよう。
失ったと思うのには、まだ早い。
諦めが悪いと自分でも思う。
それでも、あなたが誰かと永遠を誓うまで。
その時までで、いいから。
────失恋
「ひとことで進む一歩」
本当のことを伝えてしまったら、もう今までの関係ではいられない。
それはわかっているのに、止められなかった。
一歩進みたい気持ちと、このままでいたい気持ち。
どちらもあって、 どちらも選びたかった。
片方だけしか選べないのに。
まっすぐに進みたくても進めなかった。
同じところをぐるぐると回って、立ち止まって、またぐるぐる回る。それの繰り返し。
だけど、追い込まれて、言わざるを得なくなった。
さぁ、君はどう出るか……
君に見えないように、震える手を握りしめる。
────正直
「外に出ない理由」
雨は嫌いではない。
出かける用事がなければ、の話だけど。
雨のなかを歩くのは嫌だ。
どんなに気をつけて歩いていても、靴が濡れる。
ひどい時には靴下やボトムも濡れる。
運が悪いと近くを通った車に泥水をかけられる。
雨は嫌いではない。
部屋の中から、憂鬱そうな顔で歩いている人々を眺める。
ずっと続く雨。
普段なら、自分を責める時間だ。
だけど、この天気なら外に出ない理由は「雨が降っているから」だけで充分。
色鮮やかな傘が転がるような、雨の日のスクランブル交差点。
本屋のエスカレーターからそれを見るのが好きだった。
でも今は、それを見ることができない。
降り続く雨。
あの日からずっと、心の中で降り続いている。
────梅雨
「印」
真っ白な君に印をつけていく。
君には見えないように、君以外の人には見えるように。
人を疑うことを知らない君は、気がつかないだろう。
どんなに印をつけても、君はずっと真っ白なまま。
それが愛しくもあり、悔しくもある。
どんな色にも染まるはずなのに、どの色にも染まることがない。
それが眩しくて、遠く感じてしまう。
真っ白な君に印をつける。
そんなことしなくても、君は隣にいてくれるはずなのに。
────無垢