暖かな春が過ぎて…暑い暑い夏が過ぎて…風が冷気を帯びる秋が来て…冷たい空気の、冬が来た。
私の身体は良くも悪くも気温に敏感で、気温によっては外に出れる時間が限られてしまう。けれど冬なら、ほとんどの日は朝から晩まで外にいられる。
そうして、彼が…私の大事な人が来たら、私がいの一番に出迎えるの。
外は、雨音のしない雨が降っていた。ミストシャワーのような、肌当たりの優しい雨。
いっそのこと、雪になって降ればよかったのに。
…ううん、やっぱり、雨のままでいい。
だって、彼が来たのがすぐに分かるもの。彼が来れば、こんな雨はすぐに粉雪に変わっちゃうんだから。
口重で、少し無愛想な、氷属性の力を持った彼。冷たい人に見られがちだけれど、本当の彼はとても温かい。
私の体質を理解してくれて、いつも彼の方から私のところへ来てくれる。煙草を吸ってるらしいけれど、私の前では絶対に吸おうとしない。私が暑さにやられているときは、氷の力で冷気を生み出して私を楽にしてくれた。
最後に会えたのは、何年前だったかしら。
彼の仕事が死と隣り合わせなのは、重々承知している。
でも、彼はそんな簡単に死ぬ人じゃない。だって、手加減をした状態でさえ、あんなに強いんだもの。
それに、元から彼と会えるのは不定期だったし…不定期だからこそ、彼との時間がより一層 温かいものになる。彼が帰った後も、次に会える日を夢見ていれば、心は寒くない。
雨は、相変わらず雨のままで。
強くも弱くもならず、相変わらずの優しさで、私を包み込んでくる。
いっそのこと、雪になるか、もっと強い雨になって降ればよかったのに。
私の心が寒い理由を、寒さのせいにできないじゃない。
(「精楽の森」―精楽 氷音―)
赤から青に変わった、歩行者用信号。
それが、少女が見た最後の景色であった。
光と色彩に溢れていたはずの彼女の世界は、今や濃淡のない暗闇に包まれている。
視力を失ったこと以外に、事故の後遺症はないが…彼女の精神は、容易にその暗闇に蝕まれた。
憂鬱な起床と共に、少女は何度目かも分からぬ漆黒の朝を迎える。もしかしたら既に昼かもしれないが、彼女がそれを確認する術はない。
起き上がる気力など微塵もなく、彼女はタオルケットを蹴飛ばしつつ寝返りを打つ。そうしてまたいつものように、暗黒の世界の中で、暗い感情に打ちひしがれる…はずだった。
暗黒の世界に、人影が映り込む。光がなければ影も生まれないはずだが、しかし確かにそこに人影があり、彼女はそれを視認した。
「変わり者の悪魔」を自称するそれは、彼女に一つの提案をしてきた。それは、心眼の能力を対価として、彼女の眼球を食べさせるというものだった。悪魔が食べるものといえば魂であるが、その人影は眼球が食べたいのだという。
「…なんで、眼?」
「まぁ、変わり者なんでね。あぁ勿論、痛くないように食べてあげるよ」
笑っているらしい声色で、人影がそう答えた。
少し悩んだ後、少女はそれを承諾した。
心眼の能力とやらの正体はわからないし、食い逃げされる可能性は十分 有り得たが…既に光を失っている彼女にとって、眼球の有無など些細な問題だった。
瞼と眼球の隙間に、長細い指らしきものが入り込む。眼孔から、球体が取り出される。
どこかくすぐったいような、ぬめつくような感覚を彼女は覚える。しかし人影の言った通り、痛みは一切 感じることはなかった。
ふと気付いた時には、人影は消えていた。
代わりに、彼女は白い光の線を見つける。目で辿ろうとして、眼球がないことを思い出した彼女は、顔を動かしてそれを辿った。
そうして彼女が見たものは、自身の横たわる布団と、蹴飛ばしたタオルケットの、白い輪郭線であった。
(「ティマセル学園」―満月 希望―)
魔力の粉が混ぜられた、世界に数セットしかない特別な絵の具。その特別な絵の具で描かれた絵に、付属の専用ニスを使うと、その絵に生命が吹き込まれる。
植物の絵も、動物の絵も…人間の絵でさえも。
そうして生まれた存在の一人が、あたし。
でも、あたしにニスを塗ったのは、あたしの画家じゃない。あたしの画家が描いた、別の人間達だった。
あたしの画家は、あたしが目覚めた時にはとっくに死んでた。アトリエの奥に、静物画に混ざってあたしが置かれてて、だからずっと誰もあたしに気づかなかったらしい。
ニスを塗られる前の記憶は無いから、あたしの画家がどんな顔で、どんな声で、どんな人だったのか、あたしは知らない。
でも、そんなのどうでもいい。知る気もない。
あたしのキャンバスの裏に貼られてた、新聞の切り抜きに…あたしと同じ顔の女の子がいた。他の人間達のキャンバスの裏には、なにも、貼ってなかったのに。
あたしはモノマネ。静物画と同じ、モノマネ。
あたしの画家は彼女を描いただけ。あたしを描いたわけじゃない。
でもきっと、新聞の子は…あたしみたいに、ひねくれてなんてない。
あたしは、モノマネできないモノマネ。
(「みらみゅーじあむ」―シェーレの令嬢―)
(……もっと、綺麗な色だったらな…。)
小学校の手洗い場の鏡を見て、少女はそんなことを思う。彼女の髪の臙脂色は十分 綺麗な色ではあるが、それでも図工の教科書で見つけた"綺麗な色"への憧れは、彼女に色眼鏡をかけさせるのだ。
そんな少女の思念を、鏡の中の世界に棲むカゲが取り込んだ。
カゲは少女の姿をとり、ニセモノの少女となった。声も思考も振る舞いも、全て少女と瓜二つ。
ただ唯一、その髪だけは、少女とは異なる色であった。
「センパイの髪って綺麗っすよねー。ちょっと羨ましいかも…」
「あら、そう…?貴方の茶色の髪だって、十分綺麗だと思うわよ…?」
「ふは、ありがとうございます。どーも隣の花は赤く見えちゃうもんで」
高校からの帰宅路。すっかり成長した少女は、後輩と楽しげに話しながら歩いていく。路側帯の際を自転車が颯爽と通り過ぎると、その風に乗って彼女の薄紫色の髪がなびいた。
壊されかけた廃校の、忘れられた鏡の中の世界。
ボロボロとなってしまった内装を、鏡越しに覗く存在がひとつ。それは小学生くらいの大きさの、臙脂色の髪を持つカゲだった。
(『向コウ岸』―ホンモノになったニセモノと、ニセモノにされたホンモノ―)