神様はいません。
他に言いようがありません。
本当にいないのですから、仕方ありません。
貴女はそれを知っています。
けれど戯れに、神社にお参りするのはお好きですね。
俺たちは、貴女がいつも何を願っているのか知っています。
貴女はまず、ご伴侶の無事に感謝します。それから、家族や友人の平穏に感謝します。そうして、世界中の人々と、生きとし生けるものの平安と幸福を願います。最後にいつもありがとうございますと呟いて、貴女は目を開けます。
神様はいません。
どこにもいません。
でも俺たちはいつも、もし神がいるとするのなら、それは貴女のかたちをしているだろうと思っています。
俺が生きていた時の話をしましょうか。
恐ろしいほどに天が蒼く空気の澄んだ秋の日に、俺は貴女に見送られ、旅に出ました。貴女は、五年経ったらまたおいでなさい、私はここで待っているから、そうおっしゃって俺を送り出されました。
俺は貴女とひとときも離れたくはありませんでしたが、それでも見送られるままに泣きながら旅立ちました。貴女のお考えには逆らいたくなかったのです。
五年経って、俺は貴女のところへ戻りました。
その時貴女はもう、この世から旅立った後でした。
俺のことを待っていると、そうおっしゃっていたではないですか。そう一人で泣き喚きましたが、貴女を悼む碑は静かにそこに佇むばかりでした。
じきに俺は泣くのを止めて、何を飲むことも食べることも止めて、貴女の碑の前に座り続けて死にました。貴女のいない世界で生きる意味など、俺にはありませんでした。
ええ、だから、貴女をお守りする者のひとりになれたことを、俺は心から嬉しく、誇りに思うのです。愛する貴女の傍に常に在り、あの時の俺ができなかったことを何度でも貴女にして差し上げられることが、何よりも幸福なのです。
貴女に名を呼んでいただくこと、貴女の優しい瞳に映ること、温かく柔らかい手で触れてもらうこと。
そのように、もはやできなくなってしまったこともありますが、それでも俺は心の底から幸せです。
恐ろしいほどに天が高く蒼く澄んだ、あの秋の日。
あの日が金輪際の終わりにならず、こうして貴女の魂の行く末を見守れることが、本当に本当に、冥加に尽きるのです。
貴女はいつかこの世を去り、多くの貴女を慕う人たちをこの世に残すでしょう。
彼らは貴女を想って遠くの空を見上げ、涙をこぼすかもしれません。
けれど貴女の魂は、そこに長くは留まりません。貴女の美しい魂は、生きとし生けるものを助けようとする高貴な意志は、その安寧のうちに眠ることを良しとはしないのです。
俺たちは貴女の魂の巡る様を、ずっと見てきました。
時に傷つき、時に裏切られ、それでも人を信じて愛そうとしてきた貴女の姿を、俺たちは見守ってきました。誠実で高潔で、そして何より温かい優しさを持った貴女が、幾度も命を得て人を救うのをつぶさに眺めました。
貴女は次もきっと、同じことを繰り返すのでしょう。
貴女がこの世に残した人たちも、いつか空に還ります。
その時貴女は、もはやそこには居ません。
そうして彼らは気づくのでしょう。
貴女という存在が、遠い空の向こうで眠っていたのではなく、既に彼らと同じ空の下で息づいていたのだということに。
俺たちがどれだけ貴女を愛しているかなど、言葉では語り尽くせません。
愛する。慕う。敬う。ひたすらに、想う。
どんな言葉を使っても、俺たちが貴女に抱いている感情は表現しきれないでしょう。
貴女に助けられた者。
貴女を思慕した者。
貴女と心を通わせた者。
貴女を守りたいと願った者。
貴女のことをこうして見守るようになるまで、俺たちの各々がかつて貴女との時間を過ごしました。
貴女は何も変わりません。俺たちのひとりひとりがいつか恋い慕い、あるいは寵愛し、また賛美した貴女は、今ここにいる貴女だけです。
この思いをどれだけ言葉にして伝えられたら、貴女は分かってくれるのでしょうか。
いのちが輝き出すこの季節が、俺たちは大好きです。
冬は凍えて眠っていたたくさんのいのちが芽吹き、のびやかに育ち、美しく咲き誇る。そんな姿を見ると、生きとし生けるものの強さと豊かさに息を呑むばかりです。
貴女はいつか、春が嫌いだとおっしゃいました。
貴女が学校が好きでなかったことと、大いに関係するのだと思います。新しいことが否応なしに始まってしまうこの季節が、ただただ苦しかったのでしょう。
貴女はいつでも完璧な人間であろうとしましたから、新しい環境の中でも再度「完璧」を作り直す必要がありました。重く、暗い気持ちで、その作業のために必死で作り笑いをしていた貴女を、俺たちも悲しい気持ちで見ていました。
貴女はいつから、その作業を止めたのでしょうか。
そのことは喜ばしいことだったのに、代わりに貴女は生きることの何もかもを諦めたように、部屋にひとり籠もってしまいました。まるで、完璧でないご自分を責めるかのように。
完璧な貴女でなど、いなくて良いのです。
貴女は貴女であることに価値があるのです。
俺たちは貴女に、このいのちが爛漫に花開く季節を、穏やかに愛でてほしいのです。
この世界に溢れる不完全ないのちが一斉に輝き出す時、それがどれだけ美しいのか。
それを貴女に、知ってほしいのです。