【私の名前】Another Side
目を開けば、真っ白な視界と鼻の奥を刺す消毒の匂い。
どこか柔らかい場所、おそらく病院のベッドだろうか。
そこで仰向けになっているのだと理解した。
なぜこんな場所に。焦る心と対照に体は動かない。
次いで感じる、左手にじんわりと広がる温もり。
おもむろに顔を向けると、目を伏せる誰かが見える。
私の指がぴくりと反応し、弾かれたように顔を上げた彼。
見慣れない、いや、どこかで見たような男性。
誰だろうと記憶を辿る。と、ふいに鮮明に浮かんだ。
半年ほど前から交流のある取引先の営業さんだ。
「お久しぶりです」決して愛想笑いではなかった。
繋がれた手に嫌悪感もない。ただ、違和感は拭えない。
明らかな非日常のなかで、祈るように包まれた手。
受け入れられない、信じがたい様子で固まった表情。
「……先生、呼んでくるね」親密な口調。下がった眉。
その全てが印象的で、異様さを自覚するには十分だった。
あの男性が先生を連れて戻り、遅れて父と母が来た。
それから複数枚の写真を見せられ、先生の問いに答える。
自分や家族の名前、仕事。今日の日付、最近の出来事。
彼についてもしっかりわかるのに、その顔は暗いまま。
先生の判断は、しばしの経過観察で問題なければ退院。
一人きりの病室は退屈で、考え事ばかりが捗る。
よく考えるのは、不思議と両親が気を許す彼のこと。
取引先の男性、だけではないのかもしれない。
珍しく間を空けて見舞いに来た彼は顔色が悪い。
思い詰めた様子で強く目をつむり、私を見据えた。
「僕の存在が嫌になったら、名前を書いて渡してほしい」
委ねられた離婚届は、突然すぎて、現実味がない。
【貝殻】
不法投棄されたガラスの破片。
それが海で揉まれて角が取れるとシーグラスと呼ばれる。
キーホルダーやアクセサリーの素材に人気なのだとか。
貝も石も丸くなるのに、ガラスだけがシーグラス。
人間も一緒。この世に生まれ落ちた命。
それが社会で揉まれて個性が取れると大人と呼ばれる。
毒にも薬にもならない程度が扱いやすくて良いのだろう。
みな等しく『普通』になるのに、生まれで扱いは変わる。
不平等だなんて声を上げても変わらない。
石はガラスにはなれない。シーグラスにもなれない。
石はどれだけ削れて丸くなっても、ただの丸い石なのだ。
けれど人の手が加われば、価値あるモノへと姿を変える。
そのためには見つけてもらわないといけない。
屑石も原石も磨けば光る。磨く人がいれば、光る。
もし大人になれないまま歳だけ取ってしまったら。
見つけないといけない。個性を認めてくれる誰かを。
私はまだ、見つけてもらえることを期待している。
だって私はガラスではないけど石でもない。
そのままの姿でも価値のある、人の目を引く貝だから。
そして、ようやく出会えたの。私自身を見てくれる人。
あなたは「大人になれ」なんて言わない。
誰かと比べない。冷めた目で見ない。決めつけない。
私は私。他の誰でもないし、誰にもなれない。
簡単なことなのに、あなたしかわかってくれなかった。
見つけてくれたあなたのため、私は努力をする。
できる限り言うことを聞いて見捨てられないように。
「良い女だよ」どこかから聞こえるあなたの声。
「自己評価の高いバカは扱いやすくていい」嘲り笑う声。
【心の灯火】
深夜、わざわざ出歩くことに意味など無い。
誰にも会いたくないけど、家に籠もっていたくもない。
だって、あまりにも退屈で窮屈な感じがするから。
なんとなく惹かれる店で時間を潰す。
入ったファミレスは定番の場所。
「お兄さん、よく遅い時間に来ますよね」
お冷を持ってきたウェイトレスに話しかけられた。
これだけ人がまばらだと店員も暇なのだろうか。
「今日もドリンクバーとポテトですか?」
「それで」会話が終わるならなんでもいい。
別にポテトは好きでも嫌いでもない。
ドリンクバーだけで長居は申し訳なく思っただけ。
何をするでもなく、ただスマホの画面を眺める。
こうしていれば、いくら暇でも話しかけてこないだろう。
「最近、新人ちゃんが入ったんですよ」
おかしいな。なかなか思い通りにいかないものだ。
「ほら、あの子なんですけど」おもむろに顔を上げる。
いかにも鬱陶しがる感じで、しかし好奇心が勝った。
凛とした雰囲気の女の子。見た目は高校生ぐらいか。
新人、と聞いてもしっくりこない。
こいつほどではないか、と思いながら彼を見る。
「なんですか? もしかして一目惚れしちゃいました?」
僕に油を売るこいつも新人。たぶん入って三ヵ月。
「しない。仕事戻れ」友達か、と内心ツッコミを入れる。
あれだな、新人を見守るのは形容しがたい気持ちになる。
エセ新人はさておき、確実に来店頻度が高まっている。
これは一体どういうことか。
きっと不慣れながらも一生懸命な姿に癒されるからだな。
【開けないLINE】
既読をつけたら返事をしないといけなくなる。
通知をオンにしているから内容は知っているけど。
返事を考えられないのではなく、考えたくない。
スタンプ一個を返すことすら今はしたくない。
あなたのメッセージに一喜一憂していたのが懐かしい。
今でもしているとはいえ、恋愛初心者の頃ほどではない。
あの頃は返事がくるだけで嬉しかった。
それなのに、未読だ既読だと求められて疲れている。
ピコン。また通知音が鳴った。
〈ごめん、痛かったよね。わざとじゃないんだよ〉
言葉からイメージされるのは、しおらしい態度。
でも、画面の向こうではどんな顔をしているのだろう。
頬がひりひりと痛む。「保冷剤、あったっけ……」
何度目かの謝罪の言葉は、もう響かない。
思い通りにならない現実に彼の態度は日々悪くなる。
私の励ましなんて届かないぐらい追い詰められている。
大丈夫だよ、とか。あなたならできるよ、とか。
そんな無責任な言葉では神経を逆撫でするだけ。
私の頬に手が当たったぐらいで正気に戻れるならいいか。
保冷剤を当てると冷たくて、冷たすぎてじんじん痛む。
〈大丈夫? もう冷静になったから。会いたい〉
素直に信じて、会いに行ったこともある。
確かに怒りは収まっていたけど決して冷静ではなかった。
情緒が不安定で、子供のように泣き喚いていた。
どう返せば責められずに済むかな、って考えている。
〈ねえ、読んでよ〉〈なんで返事してくれないの〉
メッセージが連投されて、通知が次々と更新される。
音が落ち着くまで。私はスマホの電源を切った。
【不完全な僕】
僕の苦手や嫌いを知るたび、彼女は「意外」と言う。
なぜか、何でもできる人だと思われているらしい。
学生の頃に生徒会長を務めていたのを知っているせいか。
彼女だけでなく、今まで交際した相手によく言われた。
理想の姿を期待して、現実を知ると離れていく。
とうに慣れてしまった、いつものパターン。
僕に好意を告げた口で「なんか違う」と罵る。
勝手に幻滅したくせに、まるで僕が悪いみたいな。
僕の来る者拒まずな態度は、誰にも期待していないから。
表面だけ見て寄ってくる人間に取り繕うのも馬鹿らしい。
少し見目が良いだけで、勉強も運動も優秀ではないのに。
夢を見たいなら、わざわざ近づいて傷つけないでほしい。
彼女も選ぶ側に立った一人。僕に好意を告げた人。
いつか離れていくのだから、特別扱いなんてしない。
理想と乖離した僕の姿を、どうせ彼女も受け入れない。
そう諦めていたけど、彼女は「意外」と言うばかり。
「期待外れなら、はっきり言っていいんだよ」
今までの相手と違う反応に耐えられなかった。
心の中では何を考えている? 探るように見つめる。
半年も交際が続いたのは彼女が初めてだ。
「別に期待外れなんて思ってないけど、なんで?」
普段と同じ声のトーンで答え、首を傾げる彼女。
口癖のように「意外」と言うのにそれが本心なのか。
素直に信じることはできなくて、まだ疑ってしまう。
「『意外』って言葉、理想と違うって意味でしょ」
「なにそれ、馬鹿にしないでよ」彼女は心外だと憤る。
「新しい君を知ったのに、不快になんて思うわけない」
等身大の姿を見られていなかったのは、僕のほうだった。