【香水】
秘密の時間を彩るのは、かすかなオーデコロンの甘さ。
あの人に不満はないけど退屈なのだから仕方ない。
彼と会うのは長くても二時間。香りが消えるまでの約束。
だから、これは浮気なんかではなくただの遊びなの。
「おかえり。今日は遅かったね」あなたが微笑む。
淹れてくれたコーヒーを飲むと、平和だなって思う。
この穏やかな時間を守りたい気持ちは本物。
だけど少し、ほんの少しだけ刺激が足りない。
友達と遊ぶと伝えて出掛けた日、私は彼に会っていた。
オーデコロンを手首に吹きかけ、香りを確かめる。
柑橘系のすっきりとした爽やかさが鼻をくすぐる。
いつもの花の甘さもいいけど柑橘系も悪くないな。
大学生の頃から香りを纏うのが好きだった。
オーデコロンからパルファムまで、いろんな濃度を。
花や果物、ムスクにバニラなど。いろんな甘さを。
彼からのプレゼントが一つ増えても気づかれない。
「なんか、良い匂いがするね。柑橘系って珍しい」
好きな香りだと呟いて、あなたは頬をほころばせる。
他の男が選んだものだと知りもしないで嬉しそう。
「またつけるね」あなたの前ではないかもしれないけど。
永遠よりも時間に限りがあるほうが気持ちは高まる。
あの柑橘系のオーデコロンをつけるたび、彼を思い出す。
つい声を聞きたくなって、電話したのがいけなかった。
廊下で物音がして、部屋を出たらあなたがいた。
穏やかな日々に飽きてしまうのは退屈に思えるから。
そんな退屈を幸せだと思えないのは、私が悪い。
裏切りを知っても手放せないらしい。あなたは沈黙する。
何も知らない顔で、「良い香りだね」って微笑んでいる。
【言葉はいらない、ただ・・・】
知らなくていいこと。知らないほうがいいこと。
そういうものは多かれ少なかれ、あると思う。
驚くほど間の悪い僕はそんなことばかり知ってしまう。
無知は罪だと言うけど、知りすぎるのも一種の罪だ。
初めは小さな違和感だけだった。
思い出話で気づく齟齬とか、君の好みが変わったとか。
些細なことばかりだから、そんなものかと軽く考えた。
他の人とも交際したのだから記憶が混じるのも仕方ない。
ブラックしか飲まない君がミルクを入れるようになった。
ミステリーを好んでいたけど恋愛を読むようになった。
迷ったら青を選んでいたのに緑を選ぶようになった。
日々を重ねるごとに、僕の知る君から離れていく。
でも、成長すると好みが変わるのはよくあると聞く。
僕の知る君でなくとも大切に想う気持ちは変わらない。
君の口から聞かない限り、僕は変化に鈍くありたい。
料理の味が薄くなって、見えない相手の存在が濃くなる。
「いや、それはさすがにおかしいですよ」後輩が言う。
「やっぱり?」わかっていても、客観的な言葉は刺さる。
「一年ですよね。本人に聞くべきだと思いますけど」
「気のせいだったら悪いでしょ」後輩はため息をついた。
僕が気づかなければ。気づいていないと君が思えば。
狭い視野で、思考で、楽観的な考えが染みつく。
君の変化に合わせて、知らぬふりで僕も変わればいい。
今度は君が僕に疑惑の目を向ける番だった。
探るような視線を受けて居心地が悪いから、帰りは遅い。
君のためなら苦しくないはずなのに、わからなくなる。
僕の、君への気持ちに名前があるなら今はなんだろう。
恋情だろうか、それとも執着だろうか。
【突然の君の訪問。】
仕事から帰れば、家の前に見慣れない男の子がいた。
「あ、おかえりなさい」なぜか私を知っている様子。
「えっと、どちら様?」見た目では高校生か、大学生か。
そんな若い知り合いに心当たりはまったく無いが。
「父さんから聞いてないんですか?」と首を傾げられる。
「お父さんって誰?」知っている人の面影は、ないな。
兄の子供はまだ中学生だし、妹の子供は生まれたばかり。
おかげで私も両親に結婚を急かされて煩わしい。
スマホを確認するが、子供を預かる頼まれ事はない。
記憶を辿っても、口頭や電話で頼まれた覚えはない。
事情は話してあるって言ってたのに、と彼が呟く。
彼の口から出た名前は、幼い頃に親しくした従兄だった。
いつまでも外で話して変な噂が立ったら困る。
ひとまず彼を招き入れ、椅子に座らせてお茶を出す。
「ちょっと待っててもらえる? 確認するから」
従兄に電話をかけながら、私は廊下に出た。
しばらくして繋がる。『久しぶりー』と呑気な声。
『電話なんて珍しいな。どうした、なんかあった?』
「あなたの子供を名乗る男の子が私の家にいるんだけど」
『おー、無事に着いたんだ』それがどうした、みたいな。
「あなたの子供を名乗る男の子が私の家にいるんだよ?」
『うん、聞こえてたけど。無事に着いてよかったな』
「なんで私の家にいるのかな?」圧をかけて問い詰める。
「……言ってなかったっけ」ようやく気づいたらしい。
聞けば、彼の大学は実家から遠いが一人暮らしは心配。
それなら、と大学に近い私の家に預けると決めたと言う。
男の子は安心した様子で笑う。「よろしくお願いします」
私は構わないけど、一応、年頃の男の子だよね。いいの?
【雨に佇む】
もういいか、と僕は走るのをやめた。
濡れないように頑張ったけど、これ以上は意味がない。
体も鞄もびしょびしょになり、髪からは水がしたたる。
荒く息を吐き、とりあえず木の下に移動した。
重なった葉の隙間から落ちる水が服を濡らす。
木ってやっぱり雨宿りには向かないんだな。
そんなことを思いながら、僕は空を見上げた。
黒い雲がここら一帯を覆っている。
今日は早く帰る約束だったけど、これでは難しそうだ。
スマホを取り出し、帰りを待つ君に電話をかける。
タイミングが悪かったのか、電波が悪いのか。
留守電に繋がったので謝罪の言葉を残しておいた。
朝、君に言われた通り、傘を持っていくべきだった。
どうせ荷物になって邪魔だから、と断ってしまった。
この悪天候を行けば、きっと明日は風邪を引くだろう。
しかし、このまま居ても時間が過ぎるだけ。
遅くなっては困るので、諦めてまた走ることにした。
スマホをしまい、葉の傘の外へ飛び出す。
自宅まで歩きで二十分だから、走れば十分で着くか。
傘を買おうにも、ずぶ濡れではコンビニに入りにくい。
幸い、濡れて困るものはないので鞄を頭上に持つ。
もはや腕が疲れるだけの無駄な行為だが、まあいい。
急いだおかげで、体感では五分ぐらいで家に着く。
「え、なんでいるの?」君が出かけようとしていた。
「いや、そっちこそなんで?」手には傘が二本。
もしかして迎えに行こうとしてくれていたのか。
「ちょっと待ってて、ってメッセージ送ったじゃん」
こんなに濡れちゃって、と君は大げさにため息をついた。
【私の日記帳】
「知られたくない秘密は言葉にしてはいけない」
口に人差し指を当て、彼は勝ち誇ったように笑う。
手には〈日々。〉と題された大学ノートがある。
いや、「飲み物取りに行った隙に家探しすな」
ノートを取りあげ、埃をはらうように表紙を叩く。
無論、毎日書いているので埃など被っていない。
「ちょっとー、その態度は失礼じゃないですかー」
「失礼なのは君の行動ね」好奇心旺盛な思春期男子か。
頬を膨らませて抗議する、自称・良い子の二十三歳児。
「まさか読んでないよね」疑いの目を向けた。
あまり時間は無かったと思うが、念のため確認する。
「読んでないですよ、全然」わざとらしい棒読み。
つい先ほどの彼の発言を思い出す。
『知られたくない秘密』ってなんのことだろう。
読まれて困るようなことを書いた覚えはない。
それっぽいことを言っただけか、と勝手に納得する。
今日の目的だった勉強会を終えて、彼は帰っていった。
勉強会と言いつつ、ほとんど話していた気がするが。
一人になれば、いつも通り。夕飯を食べてお風呂に入る。
寝る前にノートを開き、書きたいことを綴っていった。
最後のページが埋まり、なんだか達成感を覚える。
日々の些細な出来事を書き留めるようになって約一年。
ノートの冊数もそれなりに増えてきた。
どんなこと書いたっけな、と軽い気持ちで読み返す。
このノートは、ちょうど今日、彼が手にしていた物だ。
最初から読み進めると、馴染まない文字を見つけた。
〈一緒に過ごすと楽しい〉に矢印を向けて〈俺も〉って。
やっぱり読んでるし、独り言に返事をするな。