【向かい合わせ】
ホームに着いたら、ちょうど電車が来ていた。
それを無視してベンチに座り、次の電車を待つ。
アナウンスが流れて電車が出発すると遮蔽物がなくなる。
僕の目的は次の電車ではなく、正面にある駅のホーム。
電車なんて、二本後でも三本後でも学校に間に合う。
わざわざ余裕を持って家を出たのは不安からではない。
反対周りのホームには、制服のスカートをなびかせる人。
僕の心も視線も奪う、カッコいい女の子。
彼女を初めて見たのは、ひどく慌ただしい朝だった。
目が覚めて壁時計を見たら、針が示すのは十一時。
遅刻だと思い焦り、必死に走って駅に着く。
時刻表を確認しようとスマホを見ると、まだ六時。
なんだ、と気が抜けてベンチに腰を下ろす。
きっと壁時計は電池切れで昨日の夜に止まったのだろう。
深呼吸して息を整えつつ前を見ると、そこに彼女がいた。
凛と立つ姿に、僕は一瞬で惹きつけられたのだった。
部活終わり。そんな彼女がなぜか対面に座っている。
途中で乗ってきたときは目の錯覚かと疑った。
眠そうにあくびを噛み、時おり目を擦りながら本を読む。
意外な一面を知って、なんだか可愛らしく見える。
まさか同じ電車を利用するとは夢にも思わなかった。
だって、彼女のいたホームは反対周りだから。
環状線ではないので乗る区間が重なることもない。
遠くに見るだけだった彼女は、目の前で眠ってしまった。
もうすぐ最寄り駅に着くけど、彼女は起きない。
周りに人が少ないとはいえ、声をかけるのはどうだろう。
でも困るかもしれないと思い、覚悟を決めて起こす。
おもむろに目を開けた彼女は、わずかに頬を赤らめた。
【やるせない気持ち】
仲の良い友人の二人が結婚した。
彼とは高校から、彼女とは大学からの付き合いだ。
交際を始めたばかりは気を遣っていたのが懐かしい。
当時、二人も私が寂しがることを不安視したと聞いた。
今ではそんな素振り互いにすっかり無くなったが。
ただ困るのは、二人ともに惚気けられること。
愚痴だ相談だと理由をつけて、遠慮も恥じらいもない。
まあ、変に距離を取られるよりはいいか、と甘んじる。
仲睦まじい夫婦の家にはなんとなくお邪魔しにくい。
そんな私の気持ちをよそに、よく宅飲みの誘いを受ける。
「なんで?」を言い過ぎて口癖になりそうだ。
外ならまだしも、家では二人で飲めばいいのに。
「店で飲もうよ」誘ったのは私から。
「お、いいねー」「絶対残業しない」乗り気な二人。
良さそうなお店を探して、地図をそれぞれに送る。
一緒に来ると思っていたけど、彼が先に到着した。
すぐに来るはずだった彼女は一時間たっても着かない。
「遅いな」顔を見合わせた直後、彼のスマホが鳴った。
声は聞こえなくとも顔色を見れば悪い知らせだとわかる。
電話を切った彼が呟く。「緊急搬送、されたって……」
いつか訪れるとしても、突然の別れは受け入れがたい。
しかし涙を見せない彼の姿に、私は歯がゆい思いを抱く。
誰よりも彼女を大切に思う彼を冷たい人だと周りは言う。
泣いてもいいよ、と慰めるのは簡単だけど。
ゆっくり近づき、彼の隣に並んで彼女の写真を見つめた。
一瞬こちらに視線を向け、静かにまた前を向く彼。
ごめんね、って。私は何を謝ろうとしているのだろう。
適切な言葉が見つからなくて、目を伏せた。
【海へ】
遠い地平線の先、遥か南に君の故郷は沈んでいる。
元より水害の多い場所ではあった。
でも、だからこそ自然と生きる術を心得ていた。
その知恵も技術も、一緒に沈んでいったけど。
故郷を愛している君は、最終便の船で街を出たと言う。
標高の低い場所だから水位の上昇にはすぐに気づいた。
有効な対策は見つからず、その街は捨てるしかない。
そんな状況になってから住人は避難を始めた。
原因はわからずとも、水位は急激に上がったりしない。
緩やかに街を飲み込み、帰る場所を奪っていく。
およそ六年前、君の故郷で最も高い時計台が沈んだ。
今でも懐かしんで見に潜る人がいるほど親しまれている。
水位は去年より十二センチも上がったらしい。
水路の有名なこの街は、ついに歩ける場所がなくなった。
扉を開けると水が入るから、みんな窓から出入りする。
近い将来、この街も沈んでしまうのだろう。
一昨年、体の不自由な人や病人は避難を勧告された。
健常者も状況を見て避難するよう注意喚起があった。
僕はまだ残るつもりだが、君は逃げる気すらないらしい。
「疲れるからもういいよ」遠い目をして、諦めている。
君は故郷にたくさんの思い出を置いてきた。
この街が沈むとき、僕と君の生活も沈んでいく。
そんなのはもうたくさんだ、と君は泣きそうな顔をする。
「じゃあ、ここで終わりにしよう」僕は提案した。
いつか街が沈むより、僕らの人生の終わりが先だ。
溺れて苦しむのは嫌なので、自分たちで終わりを選ぶ。
そしたら、この街に残される僕らを参る人はいない。
「二人で静かな場所に行こう」顔を合わせて笑った。
【裏返し】
「飲み会に行ってくるね」言わなくてもいい報告。
わざわざ言う理由は、君の反応を見たいから。
少しぐらい心配してくれたら、と期待している。
いろいろ尋ねられるのは面倒だから嫌だけど。
「そっか、行ってらっしゃい」君の反応は薄い。
まるで気にしていないかのように、穏やかに笑っている。
行ってもいいの、って聞くのはおかしい気がして。
「帰り遅くなったらごめんね」口にしたのは余計な言葉。
サークル内の飲み会とはいえ、メンバーは女友達だけ。
彼氏のいる子が「止められちゃったよ」と笑う。
女の子だけだって言ったら安心してたけどね、だって。
君は男の子がいるかもわからないのに送り出したんだよ。
いいなぁ、なんて心から羨みながらお酒をごくり。
「どうだったの?」と私にも彼氏の話題の矛先が向く。
「私は全然。なんなら快く、行ってらっしゃいって」
今日は飲んでやる、と自棄になる私に友達は笑っていた。
「大丈夫そう?」「ダメだね、よく飲んでたから」
そんな友人たちの会話が聞こえて目を開ける。
「お、起きた」知らぬ間に眠っていたらしい。
「自分で帰れる? 無理そうなら送っていくけど」
「帰る」と言ったのに、呂律が回っていなかったらしい。
一人で帰らせるのは心配だ、と友達が私の手を引く。
「一人で帰れる」「何言ってんの、危ないからダメ」
家に着いたら、出てきた君は泥酔した私に驚いていた。
謝罪と感謝を友達に述べて、君は私を中に連れていく。
「なんで心配してくれないの」酔った勢いで言葉が出た。
じっと目を見つめると、君は「忘れないでよ」と笑う。
「もし男がいても浮気しないでしょ、だからいいの」
【鳥のように】
今思えば、なんて意味のないことかもしれないけど。
あなたは形に残るものを嫌がっていたように思う。
何かを買うとき、悩むふりをして渋っていた。
僕は鈍くて、舞い上がっていたから気づけなかった。
たまに手に持って眺めていたのはなぜだろう。
もしかして、どうしたら手放せるか考えていたのか。
僕に気づかれたら面倒だと思っていたのかもしれない。
想像に過ぎないけれど、外れていると嬉しい。
あなたはすべてを置いていってしまった。
揃いのマグカップも、僕からの贈り物もすべて。
あなたは何一つ持っていかなかった。
まるで夢だったかのように、あなたの存在だけがない。
しょせん偽りの生活であることはわかっていた。
でも確かめれば終わると察していて、沈黙を貫く。
その隠し事の内容を、僕はまだ知らない。
きっとこの先も知ることはないし、確かめるすべもない。
知らないとは思うけど、僕は物の場所をよく覚えている。
あなたの温もりが消えた日、朝から家中を探し回った。
あなたの物も無ければ良かったのに、すべて残っていた。
どうして持っていってくれないのか。恨み言も届かない。
写真は撮らせてもらえなかったから、そもそも無い。
個人情報の記載されたものも無くなっている。
別れの言葉も書き置きも無く、合鍵が机に置かれていた。
終わってしまったのだ、と僕は呆然として実感した。
どうせ終わる夢なら聞いておけばよかった。
キーホルダーの外された合鍵を手に、後悔の念を抱く。
飛び去ったあなたが戻ってくることはないかもしれない。
だけど、せめて忘れないように。僕は鍵を壁にかけた。