燈火

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8/16/2023, 6:39:29 AM


【夜の海】


血の繋がらない父親に嫌われている。
だって、僕のやる事なす事ダメ出しばかり。
口を開けば、甘えるな、迷惑をかけるなと叱られる。
ついに我慢ができなくなって、夜の町に飛び出した。

とにかく遠くへ行きたくて、家から離れるように走る。
ほとんど街灯のない夜道は暗く、少しだけ怖い。
無我夢中で走っていたら波の音が聞こえてきた。
家の近くに海はない。それなりに遠くまで来たみたいだ。

防潮堤に座って、眼下に広がる砂浜と海を眺めた。
どこまでが海で、どこからが空か。境界が曖昧になる。
波の音だけが脳内を支配して、なんだか冷静になれた。
ぼんやり思うのは、帰り道がわからないってこと。

必死に走っていたから、まっすぐ来たことは覚えている。
でも周囲を見る余裕などなくて、正しいか自信がない。
諦めてまた眺める。直後、背後から声をかけられた。
「こんばんは。君も夜ふかしさん?」明らかに年上の人。

「若く見えるけどいくつかな?」彼女が隣に腰を下ろす。
僕は答えない。中学生が夜に出歩くのは良くないこと。
「あんまり遅い時間だと補導されちゃうよ」
その声色は、叱責より心配であるように感じられる。

初対面で名前も知らない彼女に、不思議と気が緩んだ。
「……いい」「うん?」「補導されてもいい、別に」
どうせ今から帰っても父親が怒るのは変わらない。
「じゃあ帰りたくなるまで一緒にお話しようか」

きっとこの世で一番無駄で、だけど楽しい時間だった。
話し疲れた頃、「さて」と彼女は立ち上がって言った。
「そろそろお姉さんは帰るけど、君はどうする?」
まだ話していたいけど。「帰ります」僕も立ち上がった。

8/15/2023, 6:44:09 AM


【自転車に乗って】


自分の足で漕ぐ、地下鉄で七駅分の距離。
遠いはずなのに、職場を目指す三十分よりも短く感じる。
心が急いても安全運転を第一に。焦る必要はない。
もうすぐ彼に会えるのだから。

信号待ちで時間を確認すると、彼からの連絡に気づいた。
〈駅まで迎えに行くよ。いまどの辺?〉通知は五分前。
〈ごめん、電車使ってない〉すぐに返事がきた。
〈免許持ってたっけ?〉〈いやケッタ〉〈ケッタ?〉

〈ケンタッキーの略?〉全くもって的外れな推測。
でも本来の意味よりそれらしくて笑ってしまう。
〈自転車のこと〉〈言わんて。どこの方言だよ〉
続けて、不満げな表情の柴犬スタンプが送られてきた。

〈ゆっくりでいいから安全に来てよ〉信号が青に変わる。
りょーかいと笑顔で敬礼する男の子スタンプを返した。
また漕ぎ出し、最寄り駅より近くなった彼の家を目指す。
顔を見て話せるまであと少し。

午前中に着く予定だったが、結局着いたのは昼過ぎ。
先に連絡するか、インターホンを押すか。家の前で悩む。
チラッとスマホを確認すると〈二階〉と通知が届く。
見上げれば、窓から顔を出した彼が手を振っていた。

「いらっしゃい。どうぞ」扉を開け、招き入れられる。
いつ来ても、ここは柔らかい匂いで満ちている。
「疲れたでしょう。ちゃんと電車使いなよ」
私の前にお茶を置き、対面に座る彼は呆れ顔で笑う。

それから緊張したような面持ちになって、口を開く。
「あの、さ。もし嫌じゃなかったらなんだけど……」
遠いとたまにしか会えないし、と言い訳みたいに呟いた。
素敵な未来はすぐそこに。

8/14/2023, 9:31:43 AM


【心の健康】


僕の朝はニュース番組の占いを見ることから始まる。
種類にこだわりはないが、なんとなく見るのは星座占い。
今日は三位だった。まあまあ良い結果ではないだろうか。
しかし『運命の出会いがあるかも』は非現実的すぎる。

占いを見るのは日課だが、当たることは期待していない。
『懐かしい人に会える』『失せ物が見つかる』
そんな結果の日も特別なことは起こらなかった。
必要がなければ外に出ないし、掃除もしない。

今日も同じ。占いで行動を変えたりしない。
朝起きて仕事に行き、コンビニに寄って帰る。
『運命の出会い』なんて平穏な暮らしには必要ない。
そう思っていた。職場の休憩室で彼女を見つけるまでは。

椅子や机のある休憩室にはテレビが置かれている。
そのヒット曲MV特集にいたのだ、初めての元カノが。
思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
『わからずや』は恋をしたときに聞きたい曲、らしい。

夢を追うために別れてほしいと言う彼女を僕は応援した。
すぐに彼女は上京し、そのうち連絡を取らなくなった。
おかげで状況を知らなかったが、見事に夢を叶えたのか。
なんだか自分のことのように嬉しくなる。

『運命』なんて大層なものではないが、良い出会いだ。
一方的にでも成功しているとわかってよかった。
頑張っている彼女に元気づけられ、仕事に力が入る。
今度、連絡してみようか。……いや、今さら迷惑かな。

終業後は早々に帰宅し、彼女の歌う曲を調べた。
せっかくだから『わからずや』を探して聴いてみる。
別れに応じた彼に一緒に叶えてほしかった、という歌。
押してだめなら引くって、わからずやはどっちなのか。

8/13/2023, 9:35:26 AM


【君の奏でる音楽】


私の通う高校にはいわゆる七不思議がある。
誰かを探す屋上の幽霊とか、夏休みに起こる神隠しとか。
長年勤める先生なら正体を知っているものもあるらしい。
中でも一番新しいのは、旧校舎のひとりでに鳴るピアノ。

下校時間を過ぎたあと、誰もいない場所から音がする。
埃っぽい旧校舎で、その音楽室だけはきれいな状態。
怪しんだ教員が近寄ると、鍵盤が勝手に動いていた。
おぼろげな記憶だけど内容はこんな感じだったはず。

真実を確かめようにも下校時間以降は残れない。
生活指導の先生が見回りを実施していると聞く。
しかし、長期休暇の部活動だけは例外となる。
書類を提出し、許可を取れば遅くまで活動できる。

つまり、普段は帰宅部同然の創作部でも残れるのだ。
ゆるい部活で、部長の私は変わり種を書いている。
それは楽譜。会誌にも自作のものをたまに掲載している。
怪奇はどうせ人間の仕業だけど、その動機は何だろう。

八月中旬、理由をでっちあげて一週間の許可を取った。
旧校舎への立ち入り自体は禁止されていない。
不気味がって誰も近寄らない音楽室を目指して歩く。
校舎に入った瞬間から、例のピアノの音は響いている。

扉に手をかけて引けば、なるほど、確かにきれいだ。
ここまで、いかにも壊し待ちみたいな雰囲気だったのに。
下校時間後、旧校舎の音楽室、――鍵盤に手を置く、人。
見慣れない制服姿の君は知らない曲を演奏する。

「曲名も楽譜もない。弾きたければ勝手に耳で覚えて」
残念ながら、君に会えたのは初めの四日間だけだった。
七不思議と違い、君のいない日にピアノは鳴らない。
だけど、私は忘れないようにあの曲を弾き続けている。

少しは上手くなったかな。君は、どう思う?

8/12/2023, 9:31:18 AM


【麦わら帽子】


糸を垂らしてぼーっとする時間が好きだ。
日陰に椅子を置き、堤防から竿を投げる。
首にかけている帽子の出番はないといいのだが。
時間帯によっては正面から陽が差して眩しいからな。

待てど暮らせど波に揺られるだけの竿先。
時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚える。
のんびりと過ごす時間は、都会にいると得られない。
今度の週末に実家に帰省でもしようか、と思いを馳せる。

子供の頃は近所の用水路でザリガニ釣りを楽しんだ。
竿が無くとも直に糸を垂らすだけで簡単に釣れた。
そろそろ餌が無くなる頃だろうか。
なんとなく様子見で上げてみると、竿がしなった。

大物を期待できるほどの曲がり方に嫌な予感がする。
竿を上げると強くしなるなら、だいたい根がかり。
地球を釣ったなんて言うが、振って外れないと厄介だ。
まさか、と思いながらハンドルを回すと意外にも巻ける。

根がかりではないのか、と安心したのもつかの間。
竿のしなりは一向に弱まらない。
それどころか、強く引かれているようで糸が出ていく。
これは本当に大物かもしれないな。慎重に巻いていった。

水面に映る魚影が変な形をしている。
魚にしてはヒレが長いような。それに先が分かれている。
力を込めて竿を立てれば、ざばっとそれが顔を出す。
「痛い痛い! ちょっと早く外しなさいよ!」

「あんた一人なの? 寂しいわね」「独りで何が悪い」
「ひねくれちゃってヤダヤダ」半笑いで肩をすくめる。
ぼーっとする時間に騒がしい人魚が一人。いや、一匹?
その後しばらく、不人気な釣り場に明るい声が響いた。

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