【終点】
ガタンゴトンと揺れながら、電車は人々を運ぶ。
駅を通過するごとに人は減っていき、シートが空いた。
座席に座ると、疲れからか強い眠気に襲われる。
ああ、少しだけ、眠っても……いいかな…………
「お客様、お客様。こちら終着駅となります」
優しく肩を叩かれ、誰かの声で目が覚める。
頭にもやがかかったように思考はぼんやりとしている。
気を抜いたら、また微睡みに落ちてしまいそうだ。
私を起こした声の主は、服装から判断するに車掌だろう。
「お目覚めですか。ではお気をつけてお帰りください」
にこりと笑う車掌に見送られ、降りた直後に扉が閉まる。
最寄り駅を寝過ごしたせいで知らない駅に来てしまった。
親睦会という名の飲み会で遅くなり、今のが最終電車。
ほろ酔いの状態で一時間以上も歩くのは遠慮したい。
とりあえず地上に出るため、エスカレーターに乗る。
改札を通るとき、ピピッ、ピピッとなぜか二回鳴った。
不具合だろうか。振り返って見るも人影はない。
「あの。いま二回鳴りませんでした?」
聞いてみたら、改札横にいる駅員は平然と答えた。
「鳴りましたよ。男性が入っていかれましたから」
それがどうかしましたか、と言いたげに首を傾げている。
「え? 誰もいませんでしたよね?」
重ねて問うと駅員は一瞬困惑し、しかし笑みを浮かべた。
「ええ。誰もいませんでしたけど、男性が通ったんです」
最終電車の着いた終着駅に見えない男性が入っていった?
難解ななぞなぞみたいで意味がわからない。
「まだ電車あるんですか?」「いえ、本日はありません」
駅員は加えて言う。「あなたの終着駅はこちらですから」
【上手くいかなくたっていい】
「ごめんなさい!」帰宅直後、妻が勢いよく頭を下げる。
「……どうした?」聞けば、シャツを焦がしたらしい。
日頃の疲れが溜まっていて、アイロンの途中にうとうと。
気づいたときには、くっきりと焦げ跡がついていたとか。
「なんだ、そんなことか。また買えばいいよ」
大したことではなくて拍子抜け。肩を撫でおろした。
シャツの一枚や二枚、高い買い物でもないのだから。
それより、妻がやけどをしていなくてよかった。
その後、ちゃっかり買い物デートの約束を取りつけた。
ついでに普段着や寝間着も買おうか、とわいわい話す。
週末まであと三日。僕の心は浮き足立っていた。
だから、仕事で重大なミスを犯してしまった。
ひどく落ち込む僕に、妻は「大丈夫だよ」と言う。
なんて無責任な言葉。「大丈夫なわけないだろ!」
苛立ち任せに怒鳴ったあとで、ハッとする。
「……ごめん」慰めてくれた妻にあたるのはお門違いだ。
幸い、迅速な対応のおかげで大事には至らなかった。
しかし確認不足で同僚に大きな負担をかけたのは事実。
強い自責の念に駆られ、事あるごとにため息が漏れる。
同僚に気を遣わせたこともなお申し訳ない。
解決した日、自宅の扉がひどく重く感じた。
あれからろくに話ができていなくて、まだ謝っていない。
完全に八つ当たりだったから顔を合わせるのが気まずい。
だが、まず謝ろう。そう決心して、扉を開けた。
リビングに入り、目が合うと妻がさっと逸らす。
「ごめん。怒鳴ってごめん。君は悪くなかったのに」
妻は軽く目を見開き、微笑む。「もういいよ」
「あなたは挽回できる人でしょう。楽しみにしてるね」
【蝶よ花よ】
私が笑えば、みんなも笑顔になれるんだって。
物心つくより前から、両親が何度も繰り返す言葉。
だから私は嬉しいときもそうでないときも笑う。
そうでないときなんて、ほとんど無いのだけど。
可愛いね、すごいね、って褒めるのは両親だけではない。
学校でも変わらなかった。小学校から高校まで。
みんな、きれいとか賢いとか言って私を褒める。
控えめな態度で謙遜すれば、本当だって言い募る。
家でも学校でも同じなら、バイト先でも同じだよね。
シフトの被った男の先輩に微笑んで話しかけた。
店に余裕があるときなら、少しのお喋りは許される。
でも、彼は心底鬱陶しそうに顔を歪めて無視をした。
なんなの、あの男は。帰宅後、ベッドを力任せに叩く。
私を優先しない人なんているはずがないのに。
「何を食べたい?」「何が欲しい?」すべて希望通りに。
苦手なものも嫌いなものも、私の世界にはいらないの。
だから、彼にも好きになってもらわないといけない。
私の世界からいなくならないのなら、好きになれないと。
きっと大丈夫。みんな、私を大切にしてくれるから。
可愛くて賢い私をいつまでも無視できるわけないでしょ。
シフトが被るたび、飽きずに話しかけた。
彼は冷たい目で一瞥しただけで、一言も発さない。
その頑なな態度が変わるとは思えないけど。
今さら引けなくなって、声を聞くまでやめないと決めた。
諦めずに話し続けて、どれぐらい経っただろう。
「あのさぁ」ようやく声を聞けた。
「よくそんな話すことがあるよね。暇なの?」
白い目と嘲笑。なんで笑顔になってくれないの。
【最初から決まってた】
その依頼を受けるしかなかったのは、立場が弱いから。
ボスに命令されては断る選択肢など選べない。
だが、なぜ君なのだろう。葛藤を見透かしてボスが笑う。
「期限は一週間。できないなんて言わねえよな?」
依頼を受けたら、まずターゲットの下調べを始める。
どんな些細な情報でも知ると知らないとでは大違いだ。
しかし今回に限っては必要なかった。
ターゲットはよく知る相手、お隣さんの君だから。
初めて話した君の印象は、ただの無害なお隣さんだった。
僕の部屋のベランダに猫が侵入したときは驚いたが。
特にきな臭い感じはなく、平穏な日々を生きる一般人。
本来なら、決して関わることのない人種だ。
依頼遂行の前日、僕は気分を落ち着かせるため外に出る。
ベランダで月を眺めていると、自然と心が凪ぐ。
「奇遇ですね」と声をかけられ、君と話すようになった。
意外と鬱陶しくなくて、むしろ安らぎを感じていた。
僕は人に言えない秘密を多く抱えている。
仕事についてもそのひとつで、会社勤めだと嘘をついた。
感情的で素直な君は僕の言葉を決して疑わない。
そして裏のない君の言葉は、僕の心すら癒やしてくれた。
こんなことを生業にしているから罰が下ったのだろうか。
今になって、この任務の意図を理解した。要は試金石だ。
僕が私情に流されず、手にかけることができるのか。
思わずため息が漏れる。期限は刻一刻と迫っていた。
今日は君と過ごす最後の夜になる。確信があった。
「そっか、晴れるんだ。明日の月はきれいだろうね」
意味を知っていてほしい、と微笑みの裏で願う。
知らなくとも不審に思って、どうか僕から逃げてくれ。
【太陽】
ようやく怒涛の一週間が終わった。
週末、気分転換で街に出ると、甘い香りが鼻をくすぐる。
見れば、先週まで工事していた場所に花屋ができていた。
開店祝いのスタンド花が店前に立っている。
「いらっしゃいませー」男性の声に誘われて店に入った。
カーネーションやゼラニウムなど、鮮やかな花々が並ぶ。
それらの中で、小輪のひまわりに視線が止まる。
ああ、懐かしい。幼い頃は近所にひまわり畑があった。
あれはどれも大輪で、背の丈よりも高かったっけ。
中から見たらどんなに綺麗だろうといつも想像していた。
迷子になるから入ってはいけない、と言われていたけど。
麦わら帽子を被った私は、ひまわりの海に飛び込んだ。
案の定、出られなくなって泣き喚いたことを覚えている。
視界を緑と黄色が埋めつくし、空の青さえ見えない。
それなのに日差しは強いから暑くてたまらない。
自分を探す声がどこから聞こえるのかもわからなかった。
泣き疲れて座り込んでいると、誰かの近づく音がする。
聞き慣れない「見つけた」の声に顔を上げる。
知らない男の子が私に手を差し出していた。
そして彼は私の手を引いて、連れ出してくれたのだった。
「お好きですか?」郷愁に浸っていると声をかけられた。
「きれいですよね、ひまわり」花を眺め、男性が微笑む。
「『あなただけを見つめる』って恋の花言葉もあります」
その横顔が寂しそうに見えるのは、私の気のせいかな。
花瓶があることを思い出し、一輪だけ買って帰宅した。
小ぶりながら力強さのあるそれは、部屋を明るく照らす。
また行ってみようかな、なんて。
今日はとてもいい気分転換になった。