【君の奏でる音楽】
私の通う高校にはいわゆる七不思議がある。
誰かを探す屋上の幽霊とか、夏休みに起こる神隠しとか。
長年勤める先生なら正体を知っているものもあるらしい。
中でも一番新しいのは、旧校舎のひとりでに鳴るピアノ。
下校時間を過ぎたあと、誰もいない場所から音がする。
埃っぽい旧校舎で、その音楽室だけはきれいな状態。
怪しんだ教員が近寄ると、鍵盤が勝手に動いていた。
おぼろげな記憶だけど内容はこんな感じだったはず。
真実を確かめようにも下校時間以降は残れない。
生活指導の先生が見回りを実施していると聞く。
しかし、長期休暇の部活動だけは例外となる。
書類を提出し、許可を取れば遅くまで活動できる。
つまり、普段は帰宅部同然の創作部でも残れるのだ。
ゆるい部活で、部長の私は変わり種を書いている。
それは楽譜。会誌にも自作のものをたまに掲載している。
怪奇はどうせ人間の仕業だけど、その動機は何だろう。
八月中旬、理由をでっちあげて一週間の許可を取った。
旧校舎への立ち入り自体は禁止されていない。
不気味がって誰も近寄らない音楽室を目指して歩く。
校舎に入った瞬間から、例のピアノの音は響いている。
扉に手をかけて引けば、なるほど、確かにきれいだ。
ここまで、いかにも壊し待ちみたいな雰囲気だったのに。
下校時間後、旧校舎の音楽室、――鍵盤に手を置く、人。
見慣れない制服姿の君は知らない曲を演奏する。
「曲名も楽譜もない。弾きたければ勝手に耳で覚えて」
残念ながら、君に会えたのは初めの四日間だけだった。
七不思議と違い、君のいない日にピアノは鳴らない。
だけど、私は忘れないようにあの曲を弾き続けている。
少しは上手くなったかな。君は、どう思う?
【麦わら帽子】
糸を垂らしてぼーっとする時間が好きだ。
日陰に椅子を置き、堤防から竿を投げる。
首にかけている帽子の出番はないといいのだが。
時間帯によっては正面から陽が差して眩しいからな。
待てど暮らせど波に揺られるだけの竿先。
時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚える。
のんびりと過ごす時間は、都会にいると得られない。
今度の週末に実家に帰省でもしようか、と思いを馳せる。
子供の頃は近所の用水路でザリガニ釣りを楽しんだ。
竿が無くとも直に糸を垂らすだけで簡単に釣れた。
そろそろ餌が無くなる頃だろうか。
なんとなく様子見で上げてみると、竿がしなった。
大物を期待できるほどの曲がり方に嫌な予感がする。
竿を上げると強くしなるなら、だいたい根がかり。
地球を釣ったなんて言うが、振って外れないと厄介だ。
まさか、と思いながらハンドルを回すと意外にも巻ける。
根がかりではないのか、と安心したのもつかの間。
竿のしなりは一向に弱まらない。
それどころか、強く引かれているようで糸が出ていく。
これは本当に大物かもしれないな。慎重に巻いていった。
水面に映る魚影が変な形をしている。
魚にしてはヒレが長いような。それに先が分かれている。力を込めて竿を立てれば、ざばっとそれが顔を出す。
「痛い痛い! ちょっと早く外しなさいよ!」
「あんた一人なの? 寂しいわね」「独りで何が悪い」
「ひねくれちゃってヤダヤダ」半笑いで肩をすくめる。
ぼーっとする時間に騒がしい人魚が一人。いや、一匹?
その後しばらく、不人気な釣り場に明るい声が響いた。
【終点】
ガタンゴトンと揺れながら、電車は人々を運ぶ。
駅を通過するごとに人は減っていき、シートが空いた。
座席に座ると、疲れからか強い眠気に襲われる。
ああ、少しだけ、眠っても……いいかな…………
「お客様、お客様。こちら終着駅となります」
優しく肩を叩かれ、誰かの声で目が覚める。
頭にもやがかかったように思考はぼんやりとしている。
気を抜いたら、また微睡みに落ちてしまいそうだ。
私を起こした声の主は、服装から判断するに車掌だろう。
「お目覚めですか。ではお気をつけてお帰りください」
にこりと笑う車掌に見送られ、降りた直後に扉が閉まる。
最寄り駅を寝過ごしたせいで知らない駅に来てしまった。
親睦会という名の飲み会で遅くなり、今のが最終電車。
ほろ酔いの状態で一時間以上も歩くのは遠慮したい。
とりあえず地上に出るため、エスカレーターに乗る。
改札を通るとき、ピピッ、ピピッとなぜか二回鳴った。
不具合だろうか。振り返って見るも人影はない。
「あの。いま二回鳴りませんでした?」
聞いてみたら、改札横にいる駅員は平然と答えた。
「鳴りましたよ。男性が入っていかれましたから」
それがどうかしましたか、と言いたげに首を傾げている。
「え? 誰もいませんでしたよね?」
重ねて問うと駅員は一瞬困惑し、しかし笑みを浮かべた。
「ええ。誰もいませんでしたけど、男性が通ったんです」
最終電車の着いた終着駅に見えない男性が入っていった?
難解ななぞなぞみたいで意味がわからない。
「まだ電車あるんですか?」「いえ、本日はありません」
駅員は加えて言う。「あなたの終着駅はこちらですから」
【上手くいかなくたっていい】
「ごめんなさい!」帰宅直後、妻が勢いよく頭を下げる。
「……どうした?」聞けば、シャツを焦がしたらしい。
日頃の疲れが溜まっていて、アイロンの途中にうとうと。
気づいたときには、くっきりと焦げ跡がついていたとか。
「なんだ、そんなことか。また買えばいいよ」
大したことではなくて拍子抜け。肩を撫でおろした。
シャツの一枚や二枚、高い買い物でもないのだから。
それより、妻がやけどをしていなくてよかった。
その後、ちゃっかり買い物デートの約束を取りつけた。
ついでに普段着や寝間着も買おうか、とわいわい話す。
週末まであと三日。僕の心は浮き足立っていた。
だから、仕事で重大なミスを犯してしまった。
ひどく落ち込む僕に、妻は「大丈夫だよ」と言う。
なんて無責任な言葉。「大丈夫なわけないだろ!」
苛立ち任せに怒鳴ったあとで、ハッとする。
「……ごめん」慰めてくれた妻にあたるのはお門違いだ。
幸い、迅速な対応のおかげで大事には至らなかった。
しかし確認不足で同僚に大きな負担をかけたのは事実。
強い自責の念に駆られ、事あるごとにため息が漏れる。
同僚に気を遣わせたこともなお申し訳ない。
解決した日、自宅の扉がひどく重く感じた。
あれからろくに話ができていなくて、まだ謝っていない。
完全に八つ当たりだったから顔を合わせるのが気まずい。
だが、まず謝ろう。そう決心して、扉を開けた。
リビングに入り、目が合うと妻がさっと逸らす。
「ごめん。怒鳴ってごめん。君は悪くなかったのに」
妻は軽く目を見開き、微笑む。「もういいよ」
「あなたは挽回できる人でしょう。楽しみにしてるね」
【蝶よ花よ】
私が笑えば、みんなも笑顔になれるんだって。
物心つくより前から、両親が何度も繰り返す言葉。
だから私は嬉しいときもそうでないときも笑う。
そうでないときなんて、ほとんど無いのだけど。
可愛いね、すごいね、って褒めるのは両親だけではない。
学校でも変わらなかった。小学校から高校まで。
みんな、きれいとか賢いとか言って私を褒める。
控えめな態度で謙遜すれば、本当だって言い募る。
家でも学校でも同じなら、バイト先でも同じだよね。
シフトの被った男の先輩に微笑んで話しかけた。
店に余裕があるときなら、少しのお喋りは許される。
でも、彼は心底鬱陶しそうに顔を歪めて無視をした。
なんなの、あの男は。帰宅後、ベッドを力任せに叩く。
私を優先しない人なんているはずがないのに。
「何を食べたい?」「何が欲しい?」すべて希望通りに。
苦手なものも嫌いなものも、私の世界にはいらないの。
だから、彼にも好きになってもらわないといけない。
私の世界からいなくならないのなら、好きになれないと。
きっと大丈夫。みんな、私を大切にしてくれるから。
可愛くて賢い私をいつまでも無視できるわけないでしょ。
シフトが被るたび、飽きずに話しかけた。
彼は冷たい目で一瞥しただけで、一言も発さない。
その頑なな態度が変わるとは思えないけど。
今さら引けなくなって、声を聞くまでやめないと決めた。
諦めずに話し続けて、どれぐらい経っただろう。
「あのさぁ」ようやく声を聞けた。
「よくそんな話すことがあるよね。暇なの?」
白い目と嘲笑。なんで笑顔になってくれないの。