【最初から決まってた】
その依頼を受けるしかなかったのは、立場が弱いから。
ボスに命令されては断る選択肢など選べない。
だが、なぜ君なのだろう。葛藤を見透かしてボスが笑う。
「期限は一週間。できないなんて言わねえよな?」
依頼を受けたら、まずターゲットの下調べを始める。
どんな些細な情報でも知ると知らないとでは大違いだ。
しかし今回に限っては必要なかった。
ターゲットはよく知る相手、お隣さんの君だから。
初めて話した君の印象は、ただの無害なお隣さんだった。
僕の部屋のベランダに猫が侵入したときは驚いたが。
特にきな臭い感じはなく、平穏な日々を生きる一般人。
本来なら、決して関わることのない人種だ。
依頼遂行の前日、僕は気分を落ち着かせるため外に出る。
ベランダで月を眺めていると、自然と心が凪ぐ。
「奇遇ですね」と声をかけられ、君と話すようになった。
意外と鬱陶しくなくて、むしろ安らぎを感じていた。
僕は人に言えない秘密を多く抱えている。
仕事についてもそのひとつで、会社勤めだと嘘をついた。
感情的で素直な君は僕の言葉を決して疑わない。
そして裏のない君の言葉は、僕の心すら癒やしてくれた。
こんなことを生業にしているから罰が下ったのだろうか。
今になって、この任務の意図を理解した。要は試金石だ。
僕が私情に流されず、手にかけることができるのか。
思わずため息が漏れる。期限は刻一刻と迫っていた。
今日は君と過ごす最後の夜になる。確信があった。
「そっか、晴れるんだ。明日の月はきれいだろうね」
意味を知っていてほしい、と微笑みの裏で願う。
知らなくとも不審に思って、どうか僕から逃げてくれ。
【太陽】
ようやく怒涛の一週間が終わった。
週末、気分転換で街に出ると、甘い香りが鼻をくすぐる。
見れば、先週まで工事していた場所に花屋ができていた。
開店祝いのスタンド花が店前に立っている。
「いらっしゃいませー」男性の声に誘われて店に入った。
カーネーションやゼラニウムなど、鮮やかな花々が並ぶ。
それらの中で、小輪のひまわりに視線が止まる。
ああ、懐かしい。幼い頃は近所にひまわり畑があった。
あれはどれも大輪で、背の丈よりも高かったっけ。
中から見たらどんなに綺麗だろうといつも想像していた。
迷子になるから入ってはいけない、と言われていたけど。
麦わら帽子を被った私は、ひまわりの海に飛び込んだ。
案の定、出られなくなって泣き喚いたことを覚えている。
視界を緑と黄色が埋めつくし、空の青さえ見えない。
それなのに日差しは強いから暑くてたまらない。
自分を探す声がどこから聞こえるのかもわからなかった。
泣き疲れて座り込んでいると、誰かの近づく音がする。
聞き慣れない「見つけた」の声に顔を上げる。
知らない男の子が私に手を差し出していた。
そして彼は私の手を引いて、連れ出してくれたのだった。
「お好きですか?」郷愁に浸っていると声をかけられた。
「きれいですよね、ひまわり」花を眺め、男性が微笑む。
「『あなただけを見つめる』って恋の花言葉もあります」
その横顔が寂しそうに見えるのは、私の気のせいかな。
花瓶があることを思い出し、一輪だけ買って帰宅した。
小ぶりながら力強さのあるそれは、部屋を明るく照らす。
また行ってみようかな、なんて。
今日はとてもいい気分転換になった。
【鐘の音】
僕が記者でなかったなら、今も一緒にいられただろうか。
あらゆる事柄の真実を客観的に伝えるのが僕の仕事。
自分がどんな立場にあろうと私情を挟んではいけない。
だからこそ、今回扱った記事は鬼門であった。
事の発端は、彼女の会社に関する一件のタレコミ。
記者も人間。つまりは当然、情を持つ生き物だ。
大切な彼女の絡む事案を冷静に見ることなど至難の業。
僕も例外ではなく、信じたいがゆえに思考は乱れた。
しかし彼女は何か、秘密を抱えているように見える。
それが良いか悪いかはさておき、疑わざるをえない。
タレコミのことは話せないが、鋭い目つきで観察した。
僕の異様さに気づいた彼女は落ち着かない様子。
「どうしたの? 最近、変だよ」ついに問われた。
誤魔化すか悩んだが、隠しきれないと観念して話す。
疑惑があって調べていること。彼女を疑っていること。
明らかな動揺。でも信じたい僕の目は曇っていた。
結局、疑惑を肯定するように彼女は姿を消した。
連絡先も繋がらなくなり、完全に消息を絶った。
今さらながら追い詰めていたことに気づき、反省する。
彼女がいなくなって、ようやくまっすぐに向き合えた。
カフェで同僚と休息を取っていると、彼女が偶然現れた。
彼女は僕に気づくなり、さっと踵を返して駆け出す。
同僚に謝罪の言葉を短く告げて、慌てて後を追う。
見失わないように急ぐも、目の前には踏切があった。
彼女が線路内に足を踏み入れた直後、警報が鳴り始めた。
無慈悲にも目の前で下りた遮断機が僕らを分断する。
カンカン音と同時に電車の走る時間がもどかしい。
通り過ぎたあと、もうそこに彼女の姿はなかった。
【つまらないことでも】
思えば、君とはくだらない話ばかりしている気がする。
どこに猫の集会所があるとか、購買の人気商品とか。
すぐに忘れても困らないような、生産性のない話。
君とならどんな内容でも楽しめるのはなぜだろう。
実は私、男子が苦手なの。好きじゃない、が正しいかな。
わざわざからかいに来るし、口を開けば下ネタを言う。
頭の弱いお子さま、って感じで馬鹿みたい。
君もその一人だと思っていたけど、まったく違った。
どこか大人びていて、達観している君はかっこいい。
給食に好物が出るとはしゃぐ、子供っぽい一面もある。
そんなギャップにも好感を持てるほど特別だった。
でも、君だけが特別でないことは中学生になって知った。
冷静な人、客観的な人、もの静かな人も珍しくない。
そのなかでも、長く関わっている君は特に話しやすい。
色恋沙汰に敏感な年頃だったせいか、変な噂が流れた。
囃し立てられても君は変わらないから、私も変えない。
同じ高校に進学したのは偶然で、大学は別々になった。
それでも連絡を取り合い、たまに都合を合わせて遊んだ。
親しい人はたくさんいるけど、気を許せるのは君にだけ。
なんとなく人恋しく感じると君の声が聞きたくなる。
くだらない話ばかりなのは社会人になっても変わらない。
どこのお酒が美味しいとか、仕事や上司の愚痴とか。
覚えている価値のない、風みたいに吹いては消える話。
それが君のことなら、どんな内容でも忘れたくない。
『今度、暇な日ふくろうカフェ行かん?』君からの連絡。
『なんでふくろう?』その日の夕方、返事が来た。
『高校の時、腕に乗せたいって言ってたじゃん』
何年前の話? 些細なことなのに、君もよく覚えている。
【目が覚めるまでに】
初めて話した日、貴女に失望したことをよく覚えている。
公爵令息である僕は、幼い頃より王宮に出入りしていた。
退屈な話やくだらない噂に満ちた場所は居心地が悪い。
護衛の目を盗んで、僕はよく庭園に逃げ隠れた。
その日、茂みには勉強を嫌がる先客がいた。
可憐なドレスを葉っぱまみれにして息を潜める貴女。
自分の命令で誰かが血を流すことを嘆き悲しんでいる。
我が国は他国への侵略によって繁栄してきたというのに。
王位継承権第一位の貴女はいずれ王位を継ぐ。
あんな甘い考えの女王に仕えるなんて、ありえない。
僕は成人もしないうちに祖国を出る準備を始めた。
家は弟に任せよう。優秀だと聞くし、問題ないだろう。
学園の在学中、僕は遊学のていで各国を訪れた。
もちろん歓迎はされなかったが、収穫は大いにあった。
やはり知識だけでなく、実際に見てまわらなくては。
報告のため国に戻った数日後、崩御の知らせを受けた。
謁見の間にある玉座には、女王となった貴女が座する。
僕の知らぬ間に何があったのか。幼き日の面影はない。
粛々と公務をこなし、どんな命令でも躊躇わずに下す。
かつての陛下のような、理想的な統治者になっていた。
本当に同じ人物かと疑いたくなるほどの変わり様。
今の貴女のためならば、僕は喜んで力を振るおう。
騎士や兵士を労りながらも、駒のように扱う冷淡さ。
気高く君臨する貴女は紛れもない悪で、実に美しい。
しかし、それはきっと偽りの姿だ。ある噂が流れている。
貴女の自室から夜な夜なすすり泣く声がする、と。
仮面が剥がれ落ちる前に、もっと繁栄させなければ。
いつか覚める夢だとしても。その日まで、貴女のお側に。