【だから、一人でいたい。】
幼い頃、祖母にもらった宝物のコップは割れた。
優しくて大好きな父は、母に嫌気が差して出て行った。
大切なものは、いつか、この手から零れ落ちてしまう。
それなら始めから無いほうがいい。失うのは悲しいから。
物に執着しないように。人に依存しないように。
常に一線を引いて、ほどほどの距離を保って生きてきた。
不都合などないので、きっと私に合っているのだろう。
なのに、遠慮も躊躇いもなく君は線を越えようとする。
「何読んでんの?」椅子の背を前にして座る君が問う。
「そこ、君の席じゃないでしょ」そっけなく返した。
君のせいで、雰囲気が柔らかくなったとか言われる。
誰かの影響なんか受けて、私が変わるはずないのに。
君は毎日、日課のように必ず話しかけてくる。
内容はいろいろ。君のことを語ったり、私に質問したり。
相手は誰でもよさそうなのに、なぜか私に笑いかける。
どれだけ冷たくあしらっても平気な顔で、効果がない。
君と話す日々を重ねるほど、私の一線が曖昧になる。
まだ向こう側にいるのか、線上に立っているのか。
気づきたくない事実を恐れ、距離を測りかねている。
だけど、この恐れこそが手遅れだと証明するみたい。
今さらだと思いながら、距離を取るように意識した。
君が離れていかないことを信じて、私は変わろうとした。
屈託のない笑顔が日常に溶け込むのが怖かった。
そのくせ、近くにいないと寂しいなんて。
あのコップは捨てられ、父は今も帰ってこない。
一度離れてしまえば、君も戻ることはないのだろう。
心がざわめく。こんな感情は知りたくなかった。
どうしよう。君のせいで、私が私でなくなってしまう。
【澄んだ瞳】
頭の固い副会長として有名な僕は生徒に嫌われている。
不名誉な噂が流れようと訂正する気にはならない。
馬鹿は信じればいい。友人は僕自身を知っている。
僕も面倒だから、規則を破らなければ何も言わないのに。
しかし今年に入って、厄介な女が現れた。
「よく知りもせずに貶めるなんて最低です」と喚く声。
またか、とため息をつきながら近づいた。
案の定、いらぬ世話を焼く女が上級生に噛みついていた。
「余計なことをするな、と何度言えばわかる」
でも、とまだ何か言いたげに女はふてくされている。
よく見ず知らずの他人のために怒れるものだ。
そこだけは感心する。馬鹿さ加減には呆れるが。
その女は一年の三学期に転校してきたばかりらしい。
成績は優秀で、今年から生徒会の活動に参加している。
会長はいい子だと言うが、僕の邪魔をするなら許さない。
初対面で忠告したのに、彼女は手間を増やしてばかり。
仕事を覚えるのは早くても、小さなミスが目立つ。
関わらぬようにしているのに、わざわざ話しかけてくる。
彼女は多くの女子に嫌われている。僕も嫌いだ。
自分が正しいと信じ、純真な乙女を演じる偽善者。
書類の山を抱えて生徒会室へ移動中、また声がした。
「黙ってろって言うんですか。そんなのおかしいです」
それほど大きくもないのに耳に入るのはなぜだろうか。
考えれば首をつっこむ必要もないのに、放っておけない。
間に入れば、相手方は逃げるように去っていく。
「なんで否定しないんですか。あんなの嘘ですよ」
まっすぐ向けられる彼女の瞳には一点の曇りもない。
心の奥まで見透かされそうで、とても居心地が悪かった。
【嵐が来ようとも】
来る者拒まず、去る者追わずと噂の先輩がいる。
でも交際中は相手に誠実らしく、悪い噂は聞かない。
フリーのときに告白すれば絶対に断られないんだって。
昨日、彼女と別れたという、私の想い人の話。
「チャンスじゃん」と友人に煽られ、思い切って告げた。
先輩の返事は想像通りで、わかっていたけど嬉しかった。
翌日から、今度は何日持つかと下世話な噂を耳にする。
それが早々に消えたのは、先輩の態度が理由だろう。
今までの彼女と違い、先輩は私を恋人らしく扱う。
廊下で会えば話をして、遠くても目が合えば手を振る。
昼休みは教室まで迎えに来てくれて、一緒に昼食をとる。
放課後は買い物をしたり、ゲームセンターで遊んだり。
特別扱いはされるけど、きっと私を好きなわけではない。
時々、私を通して誰かを見ているような、遠い目をする。
気になって聞いてみたら、気まずそうに教えてくれた。
忘れられない相手に似ているから、って。
親しかったけど、ついに想いを告げられなかった相手。
その人を忘れるためにいろんな人と付き合ってきた。
そうすれば、いつか別の人に好意を寄せられるはずだと。
すべて打ち明けて、「利用してごめんな」と謝られた。
代わりだと知っても、私は離れられなかった。
距離を感じるけど、先輩は私自身を見るようになった。
その人と比較しながら、違う人間だと確かめるように。
先輩が出した答えは、別れてもう一度付き合う、だった。
新たな交際一日目、校門の人だかりに嫌な予感がした。
その中心にいた他校生が、こちらに気づいて笑顔になる。
隣の先輩を見ると、立ち止まって目を見開いていた。
ねえ、待って。去っていかないよね、先輩。
【お祭り】
それを見た瞬間、心臓が止まるかと思った。
「どうかな、変じゃない?」なんだ、この天使は。
恥じらう赤い頬が白い肌に映え、まるでりんご飴のよう。
なんで浴衣姿ってこんなに可愛いのだろう。
「ぜ、全然。変じゃないよ」可愛すぎて、むしろ目に毒。
でも素直に褒められないから意気地なしなんて言われる。
今日だって、君を誘ったのは僕ではなく友人だった。
口だけで誘う勇気のない僕に焦れて、声をかけてくれた。
おかげで夢のような時間を過ごせることになった。
君が受け入れてくれた理由はわからないけど、今はいい。
今日を楽しみにしていたという君の言葉を僕は疑わない。
来てくれただけで嬉しいから、別にお世辞でも構わない。
君は意外と活発で、いろんな屋台に興味を示した。
射的も型抜きも自信満々だったけど失敗。
何食べようと選んだかき氷で見事に青くなった舌を出す。
無邪気に笑う君は楽しそうで、僕も子供みたいに笑った。
はぐれないように、と言い訳をして手を繋ぐ。
手汗が心配だとか、僕より温かいなとか。
そんなことを思いながら、つい早足になってしまった。
だから君に言われるまで、足が痛いと気づけなかった。
罪悪感でいっぱいの僕に、君は優しい言葉をくれる。
「私こそごめんね」って。君が謝る必要などないのに。
屋台の通りから離れ、人通りの少ない場所で座って休む。
その時、大きな音と同時に、夜空に鮮やかな花が咲いた。
「たーまやー、とか言っとく?」君が悪戯っぽく笑う。
その笑みに射抜かれて、また鼓動が早くなる。
「言っとこうかな」返事ではない、気持ちの話。
どうせ花火の音に掻き消されて聞こえないだろうけど。
【神様が舞い降りてきて、こう言った】
生死の境にいる人間には死神の姿が見えるらしい。
それが本当なら、私の命が尽きる日も近いのかな。
扉を開けると、窓の外にかつての想い人の姿があった。
地上四階に位置する病室を窓から訪れる人はいない。
人間でないなら誰だ、って。姿を借りた何者かだろう。
「私、死ぬんですか?」尋ねてみても彼は答えない。
ただ光のない目でじっと私を観察している。
体が透けているように見えるし、幻覚かもしれない。
寝て起きても、彼はこちらに目を向けている。
医師にも看護師にも見えないようで正気を疑われた。
検査までされたけど、どこにも異常はない。
私の精神がおかしくなければ、彼の存在がおかしいのだ。
彼を見て抱いた予感に反して、退院することになった。
自宅への道を一人歩く私の隣を彼は浮いて移動する。
明らかに普通でないのに、通行人が振り返ることはない。
やはり彼は私にしか見えず、なんだか気味が悪い。
いっそ幻覚だと思って生活していたある日、聞こえた。
「言えばよかったな」そういえば、こんな声だった。
振り向けば、しまったと言いたげな顔で口を塞いでいる。
ついに声まで聞こえるようになったみたいだ。
いよいよ死期が近づいているのかもしれない。
思えば彼の姿を見てから今日でもう一ヶ月になる。
青信号を渡る私の真横で、クラクションが鳴り響いた。
突っ伏す運転手。とっさに目をつむったが衝撃はこない。
電柱にぶつかった車のブレーキ痕は変な軌道を描く。
「ダメだよ、人の運命に関与したら」ふいに影ができる。
空から降ってきた誰かが彼を指さして振り下ろした。
直後、消えてしまった彼は、満足そうに微笑んでいた。