【私だけ】
一人になりたいと思うのは、集団が嫌いだからではない。
気のおけない友人といても疲れを感じることがある。
笑うことも、話すことすら面倒で逃げたくなる。
そんなとき、僕は決まって屋上を訪れる。
入学式後に立入禁止と説明されたが、壊れた鍵はお約束。
初めて扉に触れる緊張感が今や懐かしい。
持ち込み厳禁のゲーム機にエロ本、タバコの吸い殻まで。
屋上には知らない誰かの秘密が溢れている。
先生も見て見ぬふりなのか、見回りに来たことはない。
ピッキングの跡がある扉も入学当初からそのままだ。
どうせ今日も誰も来ない。僕は呑気に日陰で寝転んだ。
ふいに扉の開く音がして、心臓が嫌な音を立てる。
塔屋の影から様子を窺うと、有名な先輩が立っていた。
容姿端麗、文武両道と噂の、漫画の主人公みたいな人。
そのうち異世界転生して人々を救うのだろう、たぶん。
先輩は怪しい足取りでフェンスに近づいた。
声をかけるべきか、否か。僕はひどく悩んだ。
暗い顔をした人にかけるべき言葉を持ち合わせていない。
ため息ひとつ。校舎に戻ろうとする先輩と目が合った。
気まずさを隠して会釈すると、先輩は力無く笑った。
自殺を考える人間が異世界転生できるのだろうか。
初対面の先輩は、僕と親しくないからこそ弱音を吐いた。
きっと誰にも言わないと、なぜか信用されたらしい。
妙な縁で相談相手になって、僕らは次に会う約束をした。
いつからか先輩と話すために屋上を訪れるようになった。
しかし、フェンス前に並ぶ靴が唐突に終わりを告げた。
先生も生徒も、誰もが信じられないと騒ぐ。
その影で、僕はかけるべき言葉を探していた。
【遠い日の記憶】
鼻の奥に染みつく、いつかの煙草の煙。
懐かしいなんて思う間もなく、あの人の顔が浮かぶ。
きっとこの世で最も人生を謳歌していた。
好きなことだけしていたから、私を残していったのね。
あの人に常識は通じなかった。
まともに食べて、寝て、勉強するのが学生の本分。
昼食にお菓子を食べながらゲームをするなんておかしい。
目の下に濃い隈が居座っているのはなぜなの。
問い詰めても「深いわけがあってな」と茶化される。
あの人はいつも私を「委員長」と呼んだ。
三年間、学級委員長をしていてお似合いだって。
そう呼ぶ人は他にいないから、声だけで誰なのかわかる。
私を呼んでおきながら「やっぱなんでもない」と言う。
あなたの笑顔に弱いこと、気づかれていたのかしら。
成人式の日、あの人はまだ十九歳でふてくされていた。
酒も煙草もできないのに何が成人だよって愚痴をこぼす。
前を歩くあの人は振り向いて、歯を見せて笑った。
「お前も十九だよな。俺が二十歳なるまで待っててよ」
初めてのお酒は一緒に飲んだ。煙草は吸わなかった。
社会人になっても、あの人はまだ「委員長」と呼んだ。
同窓会の案内も〈委員長様〉宛に送られてきた。
いっそ悪戯なのではないかと思う。
母が訝しんで捨てようとするのを止めて、封を切った。
あとで知ったが、手書きの招待状は一枚だけだった。
あの人が消える日まで、想いを告げることはなかった。
学生時代から最期まで、ずっと気の合う友達だった。
それでも、あの煙草が匂うたびに思う。
告白しておけばよかったな、って。
【空を見上げて心に浮かんだこと】
空が泣いている。傘を叩いて助けを求めている。
ビニル傘を通して見ると、僕を貫くようにも思えた。
何もしてあげられない僕を責めているみたい。
あの日の君も期待して、失望して、僕を睨んだ。
お隣の君の家ではよく怒号が飛んでいた。
あなたのせいで、お前のせいだって言い争う男女の声。
喧騒から逃げて部屋にこもる君と窓越しに目が合う。
いつも申し訳なさそうに眉を下げて、手を合わせていた。
約束はないが、家を出る時間が被れば一緒に登校する。
勉強のこと、部活のこと、友達のこと。
どんな内容でも君は楽しそうに話す。
だから僕はただ耳を傾け、たまに相づちを打つ。
珍しく平和な夜を過ごした。
君が窓を開けて待っていて、少し話さないって僕を誘う。
穏やかな声で将来の夢を語る君は、やはり楽しそう。
こんな日々が続けばいいと僕は願った。
知らないふりが正解だったのだろうか。
僕は聞いてしまった。君の話さない、家族のこと。
心配で、なんて言い訳にもならない。
表情の消えた君は黙って、僕を避けるようになった。
君の家からヒステリックな叫びが聞こえる。
あんたなんか産まなければよかったって嘆く女の声。
目が合ったと思えば逸らされて、カーテンが閉まる。
ひどい物音がやみ、すすり泣く声に耳を塞いだ。
聞いた話によると、君はどこかへ引っ越したらしい。
大学進学を機に僕も地元を離れて、一人暮らしを始めた。
君の現状も君の家に響く声も、僕の耳には届かない。
今さら君の身を案じるのは、あまりに勝手すぎるか。
【終わりにしよう】
私、忘れようとしていた。
次の誰かと幸せになることを、あなたが望んだから。
数え切れないほど多くのものをもらった。
すべて箱に閉じ込めて、クローゼットの奥に置いておく。
容易に取り出せないように。失くしてしまわないように。
いつか要らなくなるとしても、まだ捨てられないから。
心の整理ができるまで、もう少しだけ。
流れ星みたいな人だった。
ふいに現れて、希望を残して消えていく。
でも流れ星ではないから、モノと思い出も残していった。
あなたのおかげで他人と生きる温かさを知った。
そして、あなたのせいでこんなに苦しんでいる。
私、生きていかないと。
この世界のどこにも、あなたは存在しないのに。
わざわざ探さなくとも、気配を感じてしまう。
使わないマグカップ。嫌いだった色。広すぎる家。
どれもあなたがいるからこそ必要で、大切にできた。
割れたら、壊れたら、新しいものを買えばよかった。
これいいねって振り向いても寂しくなるだけだ。
誰と話していても、記憶の中のあなたと比べてしまう。
あなただったらと考えて、意味のないことだと思い出す。
次の誰かって、誰のこと? どうしてあなたではないの?
触れられるモノは閉じ込めた。手の届かない場所に。
触れられないモノはどうしよう。手は届かないのに。
データは消した。記憶は消えない。感情が覚えている。
私、諦めていいかな。
あなたのいない世界で、それでも忘れないでいたい。
【手を取り合って】
同じ日に生まれた、うり二つの僕ら。
ほんの少しの時間の差で僕は弟になった。
活発で明るい兄にはいっぱい友達がいる。
置いていかれないように、僕は走って追いかけた。
顔は見紛うほどにそっくりだけど、他はまったく違う。
誰にでも話しかけに行く兄と、もらう言葉を返す僕。
お母さんに頼られる兄と、心配される僕。
どうして僕は兄みたいにできないのだろう。
小学生から中学生になっても、僕らは並んで登校した。
それはお母さんの言いつけで、僕を一人にしないため。
兄が僕に歩幅を合わせるから、なんだか申し訳なかった。
優秀な兄と、そのおまけ。噂は波紋のように広がる。
ほんの少し先に生まれただけの兄は大人びている。
好きな子ができたんだって。こっそり教えてくれた。
頬を染めて、父さんと母さんには内緒だぞって。
「お前はいないの? そういう相手」知らない人みたい。
告白は成功したらしい。
兄に、放課後の教室に呼び出され、顔合わせをした。
好きになるなよ、なんて。不安なら紹介しなくていい。
僕は存在感を消すことがうまくなっていった。
あの頃、何度でも追いかけたのは振り返ってくれるから。
必ずどこかで止まって、待っていてくれた。
彼女がいるとき、その隣を歩く兄は僕を気に留めない。
僕はもう、走ることに疲れてしまった。
別の高校に進学して、家の外では滅多に会わなくなった。
俯いて歩いていたら、校門前でよく知る声が耳に届く。
「一緒に帰ろうぜ。久しぶりに寄り道でもするか?」
止まって、振り返って、今度は戻ってきてくれた。