「……なんだ。」
「映画。」
俺の目の前に立つ友人は、悪びれもせずにビニール袋を揺らした。
自分でも最近、調子が悪いことをわかっていた。自覚はしていたが、見ない振りをして今まで足掻き努力してきたのが今の自分だと思っている。
それでも人には限界というものがある訳で、それはなんの前触れもなく俺を襲った。
襲われた結果が、このザマだ。
「足の捻挫、疲労とストレスによる不眠症。わーお、ものすごい焦燥してるんだ?」
俺の了承を得ることもせずに部屋にズカズカと入っていった友人は、リビングの机に置かれた医者からの診断結果を見て分かりやすく目を見開く。
「そうだ。帰れ。」
「それは無理。僕このDVD楽しみにしてたし。」
毎日のように映画を見る自分と、よく家に来る映画好きの友人。何となく意見が一致して何故か俺の部屋に置くことになった映画専用の高級スピーカーをONにして、友人はディスクをDVDプレーヤーへと入れる。
こんなことなら俺の家に置くのをやめれば良かった。
と考えて、かといって友人の家までわざわざ行くのは気が引けるなと顔を顰める。
そんな俺を気にする素振りもなく、友人は座んないの?とソファを叩いた。どうやら自分はソファの前の床に座り込み映画に集中するらしい。家で見ろよ。
映画が始まると、こちらの様子など一ミリも気にならなくなった友人は画面を食い入るように見つめ始めた。友人が座らないならと嫌がらせに寝そべり、ため息をつく。
実は、こういう調子の悪い日は必ずといっていいほどコイツが来るのだ。何も連絡などしていないというのに、どこからか突然現れて映画を見たり話をしたり、満足したら帰っていく。正直何を考えているか分からない。でも、それに助けられている自分もいるというのが、もっと癪に触る。
「んー、やっぱり。熱出てる。」
深い海の底に沈んでいた意識が徐々に浮上し、水面まで辿り着く頃には、俺の体は倦怠感と節々の痛みに襲われていた。心做しか朦朧とする意識に混乱しながら起き上がろうとすると、ぬっと黒い影が自分の上に現れる。
「起きちゃダメだよ。熱あるんだから寝とけ。」
よく見ると青いラベルのペットボトルを持った友人がソファの前に立っている。差し出されたペットボトルを受け取る気にもなれずにぼんやりしていると、額にそれを押し付けられた。
「さっき冷蔵庫から出したからまだ人並みの体温ほどでは無いんだよなー。熱出てる時に冷たいもの一気飲みは危ないって言うし…ちょっとそこで温めといて。」
なんて雑なんだ。突っ込む気にもなれず、返事をしない俺に了承と取ったソイツはキッチンの方へと消えていった。
額に置かれたペットボトルを片手で抑えながら、友人を待つ間に窓の外へと目を向ける。外はもうとっくに暗くなっており、窓に多くの雫がついていた。雨降ってんのか?と疑問に思いながらそれを確認しに行く体力もないので思考を放棄する。
この症状なら風邪だな。
そういえば、俺の家に青いラベルの某人気スポーツドリンクのペットボトルなんて置いていただろうか。最近は買い出しもサボる傾向にあったし、買ったとしても食事に最低限のものしかないはず。
何故これが冷蔵庫に…?
ふと、友人が来た時に下げていたビニール袋を思い出した。DVDをみたいという割には少し大きめなビニール袋に少しだけ感じた違和感。
まさか、こうなることを知っていた?
もしやエスパーなのか?そうか、だから毎回調子の悪い日によくここに来るのか。くだらない考えを持ち、少し冷静になってから破棄する。確かに彼は頭が良く優秀だが、そこまでの力を持ってるわけが無い。
「ほーい。持ってきた。」
軽い口調が聞こえたと思えば、やっと戻ってきた友人の手にある冷えピタと言われるもの。
あぁやっぱり。と友人が自分を気にかけていたことを理解して、思わず頬が緩んでしまった。
そんな俺に気づくこともせずに、彼は冷えピタをペットボトルを避けた額に乗せると、なんでもないように言った。
「日が沈む頃に雨が降っていたんだけど、天気雨でさ。窓についてた雫が夕焼けの赤い日を浴びてキラキラ輝いてて、めっちゃ宝石に見えた。」
昔から僕は、欲しいと思った物を素直に言えない性格だ。あれが欲しいこれが欲しいと素直に告げる兄と違って、僕は黙って諦める。
それが通常で、何も気にしたことなんてなかった。
そんなある日、僕が部屋で勉強しているところに訪れた兄は本を借りると部屋に入ってきた。
別に黙って借りればいいのに。律儀だなぁなんて考えていた時、兄はこちらを向き首を傾げて
「欲しいものはないのか?」
と突然聞いた。無意識に目を見開いて、兄を凝視してしまう。僕の欲しいものなんて、興味あるのかと。
「え…ないことは、ないけど。」
ありはするけども、別にそこまで欲しいものでも無いし我慢できる。兄の質問の意味が全く分からず、曖昧な回答をした僕に、彼は柔らかく微笑んだ。
「そうか、何が欲しい?」
何が欲しいか?何故そんなことを聞く?
混乱して若干パニックに陥っている僕に、兄は再び首を傾げる。どうしてそんなに焦っているのか。なんて、自分でも分からないよ。
「欲しいものがあるんだろう?何が欲しい?教えてくれ。」
「聞いてどうするの?」
「買う。」
え?と自分から間抜けな声が出て、兄もつられてえ?と眉間に皺を寄せる。こちらが疑問に思っていることを疑問に思っているらしい。
「なんで買うの?」
「君が欲しいからだろう?」
僕のほしいもの買って何するの?漫画だったらハテナマークが僕の頭上に大量に浮かんでるだろうな。意味のわからない兄の言葉に首を傾げていると、まさか。と苦々しい顔をした兄が
「君、今まで欲しい物は買って貰えないと思ってただろう。」
と言った。え?実際そうじゃないの?
「だって僕、迷惑に「ならない。」
僕の言葉を遮って鋭い目付きで凄む兄に、思わず体が後退する。かなり深いため息をついた兄は手を額に当てると首を横に振りだす。訳の分からない僕の方を指の隙間から見て「いや、まぁ、そう考えるのか…。」とぶつぶつ呟き始めた兄に、今日の彼は変だなと思いながら声をかけようとした。
「よし、出掛けるぞ。」
が、兄の方が行動が早かった。服はそれでいいな?と聞いてきた兄にこくりと頷く。今首を横に振ったらなんかやばい気がしたから。ならいい。と言った兄は僕の腕を引っ張りながら部屋を出る。出かけると言っていたが、毎日忙しい兄の手を煩わせるのではないか。この流れだときっと僕の欲しいものを聞き出して買いに行く気だろう。
「ぼ、僕!何もいらないよ!欲しいものも無い!!」
慌てて少し声を大きくして言うが、兄は止まることもせずに玄関まで歩き、いつの間にか用意していた運転手に聞いたことも無い行き先を告げ始める。何度か兄の名を呼んでいると、やっと振り返った兄は目を細めて言った。
「なら、欲しいものが見つかるまで出かけようか。」
知らないうちに兄の面倒くさいスイッチを押したらしい。これから始まるであろうショッピングに、ため息が出るのをどうにか堪えながらどこか楽しそうな兄に心の中で呟いた。
本当に、家族以外何もいらないのに。
未来を見れる能力があったなら、人生はもっと華やかになっているのだろう。
失敗もせず、挫折も知らない。そんな人物へと成り上がっていたのではないだろうか。
「と、思うんだけど。」
「…へー。」
珍しく顔を合わせた妹は、退屈そうに私の話を聞いていた。高校と大学、少し歳の離れた私達姉妹は家ですれ違うことはあれど話す時間を儲けるほどの余裕が無い日が続いていた。
そんな忙しない日々の中、私は突然の休講で、妹は期末休みというものでたまたま休みが被った。久々の二人での休暇に何となく行きたかったカフェに妹を連れて行こうと誘ったのが今日の始まりだ。まぁ誘ったのはLINEだったので、妹には「もっと早く言え。」と怒られたけど。
カフェに入り数分、最近の出来事を話していた時に友人に聞いた話を思い出して未来を見れる能力の話を出してみた。毎回学年一位の優秀な現実主義の妹に話すのは流石に間違ったかもとは思ったが、許して欲しい。
「未来ねぇ。」
すぐに話題は変えられると思ったが、妹は予想に反して少し考え込むように窓の外を見た。
頬杖をついた横顔は、まつ毛が長いこともあり生意気にも可愛く見える。我が妹ながら顔が良いなぁと思いながら見つめていると、数分で考え終わったのかこちらに妹の目が向いた。
「楽しくないよ。未来が見えても。」
至って真面目に放たれた言葉に、だいぶ真剣に考えたんだなと首を傾げる。妹にとってそこまで興味のそそられる話であったか。
「今から会う人達のことを元から知ってたら、その人達と知り合ってからの楽しみが失われるじゃん。だから、嫌。」
「なるほど。」
思わず頷いた私に、妹は満足そうに目の前にあるパフェのポッキーを口に運ぶ。確かに、そう考えたら未来を見たいなんてことは思わないな。妹からすれば失敗は経験として積まれ、挫折は次に立ち上がる力として吸収するものという認識なのかもしれない。
そこまでできた妹なのかは分からないけど、少しだけ彼女の未来が面白く思えた。あぁ、でも。
「もしも未来が見れるなら、貴方の結婚相手がちゃんと貴方を生涯幸せにしているのかだけ、確認したいかも。」
「シスコンか。」
そうだよ?と私が笑うと、妹は照れたようにスプーンで掬ったアイスを口に入れる。
この可愛い妹が挫折や失敗で心を壊さないことを、未来の見えない私はただ祈ることしかできないけれど。
妹が言った言葉で、未知の未来もまたいいかも。
と思ったのだ。
僕の世界は突然、色を失った。
理由はなんだっただろうか。今となっては思い出すことさえ億劫で、考えることはやめている。
だが、毎日同じ景色というのも退屈だ。皆からは美しいと言われるステンドガラスも、僕には全て同じ色に見えて何も感じられない。空の色も建物の色も見えるもの全てが同じ。一時期は気が狂いそうになった。
孤独と恐怖の世界に一人だけ取り残されたのだと神様を恨んだことさえある。どうして僕が。そう何度も何度も問いかけては答えを貰えない日々を過ごした。
そんな僕にも、友達はいる。
一人は少し厳しいが根は優しい子、もう一人は男勝りな所がある勇敢な子でどちらも女の子だ。二人はよく僕の家に来ては、世話を焼いて出ていく。両親のいない僕に気を使っているのか、家に来た時は今日あった出来事などを話しながら身の回りのものを片付けていた。別に僕が片付けをしていないわけでは無いのだけど、彼女達が掃除するといつも以上に床がピカピカに輝いているから好きにさせてもらっている。
一度、どうして僕に世話を焼くのかを聞いた時、彼女達はこう言った。
「貴方、今にも死にそうな顔していること。気づいてないの?」
どうやら僕の見張りのために家に来ているようで、彼女達は呆れたようにため息をつくと買ってきた和菓子を僕に押し付けた。これで元気を出せということか。
キッチンに向かう二人を眺めながら、リビングのソファに座りテレビをつける。面白そうなテレビがやっているかと思ったが、そんなことはなく直ぐに消した。
和菓子を食べるのにフォークが欲しい。
立ち上がってキッチンの方へ向かい二人に声をかけようとした時、二人の会話に思わず進めていた歩を止めた。
「そういえば、貴方の目綺麗な琥珀色をしてるわよね。昔から思ってたけど、その目だけは褒めてもいいわ。」
「その目だけってなんだよ。私にだって他にいい所あるだろ。てか、目だけならお前も綺麗だぞ?」
「そう?日本の伝統的な色だと思うけど。」
「確かにそうだけど、茶色に他の色が混ざってるって言うか…とにかく綺麗な目をしてる。」
「ふーん。」
二人からしたらなんてことない会話なのだろう。それでも、僕の中ではその会話が脳に焼き付いたように離れなくなっていた。目の色、綺麗、琥珀、茶色。琥珀色ってどんな感じだっけ、どんな色をしてるんだっけ、茶色ってなんだ?茶の色すら覚えてないのに。
もう、色は見えないのに。
僕はその日、色を失ってから初めて、再び色を知りたいと思った。
二人揃って歩く桜並木。
珍しく日本に訪れた兄は、不思議そうにその光景を眺めていた。僕とは違うサラサラな金髪に青い瞳を持つ兄は、この花見スポットと言われる桜並木では浮いて見える。
「日本人は、皆サクラが好きなのか?」
こちらに目を向けず、桜に釘付けになりながら兄は問う。
僕ら兄弟はバラバラに住んでいたこともあり、兄は桜というものがどれ程日本で愛されているか知らない。昔会った時に説明すると、たかが花に何故そこまで必死になる?と純粋に首を傾げていた。
確かにそうだなと思ってしまった自分は、かなり日本の考えが染み付いていたようだ。
「皆かは分からないけど、好きな人は多いと思う。」
ザーっと音を立てて吹く風に、誘われるように散る花びら。ふわふわと舞う桃色が兄の色白の肌と色素の薄い髪を際立たせ、美しい絵を見ているような錯覚に陥るほど綺麗だった。
「…確かに、君が言う通り綺麗だな。」
今まで桜に向いていた青がこちらに向き、兄は少しだけ口角を上げて笑う。
久しぶりに見た兄の笑顔に、ぴしりと固まってしまった体で、目だけがその美しい光景を焼き付けようと動く。僕の黒髪と濡羽色とは正反対な容姿を持つ兄を、密かに誇らしく思う。昔はそれがコンプレックスになったこともあったけど、兄が褒めてくれた瞳の色は今では僕の自慢だ。
突然、今までで一番強い風が低い音を立てて吹いてきた。思わず目を瞑り、強い桜の香りが僕の鼻を刺激する。風も強いし、そろそろ帰ろう。そう言おうとして薄目で兄を見た。けど、
「に、さ…」
声は掠れた。ふわりと舞った地面の桜と振り落とされた花びらに、兄は隠されたように姿を桜の吹雪の中へと消した。
目の前が桃色に染って、ふと昔の記憶を引っ張り出した。
『美しい人は、桜に攫われるんだねぇ。』
近所のおじいさんが優しく微笑んで言った言葉。
美しい人、兄にピッタリだ。
「兄さん!」
思わず桜の中に伸ばした腕が、空を切る。なんてことはなく、がっしりと誰かに掴まれた。風が止み、目の前に兄は現れた。なんとなく今まで考えていたことが恥ずかしくなってきて、誤魔化そうと頭の中に言葉を浮かべる。何を言おうか迷っていると、兄の方が先に言葉を紡いだ。
「桜の中に消えそうだったな。」
どうやら兄弟、同じことを考えていたようだ。
少しおかしくなって、笑ってしまった。