見えないものについて想像するのが好きな子どもだった。母に連れられて買い物に行っていた商店街のあたりで、荷台に大福運輸と書かれたトラックをよく見かけた。きっとたくさんの大福を運んでいるんだろうなと思い、四角いバンの中いっぱいにぎゅうぎゅうに詰まった大福を想像してにやにやしていた。
ある日、母にそのことを伝えると「だったらいいね」と応じてくれた上で「お母さんは大福運輸って会社の名前だと思うな」と言った。
「大っきな福、大っきな幸せを運ぶトラックですっていう思いが込められてるんじゃないかな」
そう言って笑う母を見て、そういう考えもあるのか、と思ったのを覚えている。子どもの私はそこからさらに想像した。大っきな幸せってなんだろう。たくさんの人が喜ぶもの? あのトラックがいっぱいになるほどたくさんのもの?
「ぬいぐるみかな。お人形かな。それともお洋服かな」
私は想像力の限りを尽くして、母に問いかけた。でもあの商店街のおもちゃ屋さんには、あのトラックがいっぱいになるほどのぬいぐるみやお人形はなかった。お洋服もたくさん置いてあるようなお店はない。となると……
「やっぱり大福なんじゃない?」
私の出した結論に、手を繋いで歩いていた母は盛大に笑った。
「そんなに大福がいいの? ユカは大っきな子に育つね」
そんな母はプラネタリウムが好きだった。私の暮らしていた地域は割と都会で、夜空の星はあまり見えなかったけど、プラネタリウムがあったのだ。母と一緒に行くプラネタリウムはいつもわくわくした。星の物語には、昔の人の見えないものを見ようとする想像力がいっぱい詰まっていたからだ。
座席に座って天井を見上げると、星空が映し出される。ナビゲーターの人の語りとともに、星を結んだイラストが現れて、神様たちの物語が始まる。
遠く離れた星と星を結びつけて、そこに神様を想像するなんて、見えないものに対する人間の欲望は底知れないと今でも思う。
ある時、いつものように母と二人で商店街を歩いていると、あの大福運輸のトラックが停車して作業をしているのが見えた。
「ユカ、あのトラック、後ろが開いてるよ。中、見せてもらう?」
そのとき私は、ちょっとためらったような記憶がある。もしかしたらその後に続く出来事へのショックでそう思い込んでいるだけかもしれないけど。
でも事実を言えば、私は「うん」と言ってトラックに駆け寄ったのだった。そして作業をしているおじさんに言って中を見せてもらった。
そこには、ただの茶色いダンボールがたくさん積まれているだけだった。
子どもの私はダンボールの中に何かがあるとは思わなかったらしい。でもそのときの落胆は大人になった今でも鮮明に覚えている。
見えないものは見えないままの方がいいこともある、という教訓とともに。
※内容はフィクションです。すべてのエピソードは創作です。悪しからず。
「なあ、もし願いが1つだけ叶うとしたら、なにを叶える?」
「え、どうしよっかなぁ、美人の彼女がほしいかな、ちょっと年上で、お金持ってて」
「ヒモになりたい願望ダダ漏れじゃん」
「リュウタはどうなんだよ?」
「オレはね、毎日焼肉食いたい」
「出た、食欲モンスター! それって願い事1つにカウントされるの?」
「やっぱり金だろ、1億、いや10億あればなんでもできるし、一生遊んで暮らせるし」
「それはそれでつまらない回答だよなぁ」
「あはははは」
放課後、スマホの無課金アプリをダラダラ遊びながら、ユキヤは同級生たちのおしゃべりを聞いていた。願い事と言われてもピンと来ないから、ずっと黙っていた。
「ユキヤは? なにを叶えたい?」
「え、俺?」
振られるだろうとは思っていたけど、とぼけてやり過ごそうと思っていた。
「いや〜、特にない、かなぁ……」
「おいおい、それなに?」
カズトがユキヤに近づいてきて、顔を目の前に寄せてきた。
え、そんなに詰められる?
しかしカズトはユキヤと目を合わせるのではなく、スマホ画面へと視線を送った。
「あなたの願い、叶えます? めっちゃタイムリーなんだけど!」
ユキヤがスマホ画面を見ると【あなたの願い、叶えます】と画面一杯に文字があふれている。どうやらネット広告が表示されているようだ。
それにしてもいかにもいかがわしい。釣り広告に決まってる。こんな広告、誰も踏まないだろ。
「なあなあユキヤ、面白そうだからダウンロードしてみろよ!」
カズトがやたら興奮して、ユキヤのスマホ画面をタップした。
「ちょおい! やめろよ、いきなり課金されたらどうすん……」
「いや、広告踏んですぐに課金とかないから」
カズトは正論で返した。画面はアプリストアに飛んだだけだった。
「ほらな。ほらこれ、無料って書いてあるし」
アプリの説明には常套句のように「アプリ内課金あり」と書いてある。
「でもダウンロードしたら情報取られるアプリとかあるっていうし」
ユキヤは願い事にも興味はないし、このノリ自体がくだらないと思っていた。こんな怪しいアプリ入れたくない。
「大丈夫だろ」
カズトは軽い調子でスマホをタップする。
「あ、おい!」
ユキヤが画面を確認すると、その拍子にFace IDが認証され、ダウンロードが始まってしまった。
「マジか……」
「おっと、俺そろそろ塾の時間だわ。じゃあ明日、感想聞かせてくれよー」
「え、おい!」
カズトは悪びれもせずに教室から出て行ってしまった。他の同級生もなんとなくそれに続く。ユキヤは呆然とスマホ画面をのぞきこんでいた。
教室はユキヤ以外に誰もいない。静まりかえる教室にグラウンドから金属バットの音と野球部の声が聞こえてきた。上階からは金管楽器の合奏音も響いてくる。
ユキヤはもう一度教室内を見回してから、ダウンロードしたばかりのアプリを起動した。
画面に薄いブルーを基調とした丸っこいキャラクターが現れた。
『こんにちは、ぼくはAIパートナーの【カナえまる】だよ。君の願いを叶えるパートナーになってあげるよ』
キャラクターの上に文字が浮かんだ。カナえまるという名前らしい。
『直接文字を入力すれば、会話ができるよ! 音声入力にも対応しているよ! カナえまるもしゃべることができるよ!』
ユキヤはもう一度 周りを見回して、音声入力をオンにした。
「願いを叶えるって本当?」
ユキヤは声に出して聞いてみた。誰かがいる場所でこんなことはできない。
「ぼくは君のパートナーになって、願いを叶えるお手伝いをするよ」
カナえまるが答えた。その音声は、少年のような声だった。しゃべった言葉はログとして画面に表示されるようになっていた。メッセージアプリの画面のようだ。
「例えば、1億円ほしいって言ったら?」
「本当にそれがほしいの?」
「え?」
もちろん例えで言っただけだ。本当にほしいとは思っていない。
「キミがその願いを信じているなら、ぼくは叶えるために最善のロードマップを作るよ。でもキミが信じていない願いを、ぼくは叶えることができない」
願いを信じる? ちょっと哲学的なことを言い出したぞ。
「じゃあ本当に1億円ほしいって言ったら?」
「それなら今日から生活のあらゆる時間を使ってアルバイトによる資金調達から経営、金融の知識の勉強、株の仕組み、世界経済と日本の現状なんかを学ぶのに最適な書籍や動画を紹介するよ。早い段階である程度の知識がたまってきたら、進学なんかしないで起業をした方がいいかもしれないし、実務経験を学んだ方がよければ就職も視野に入れるべきだね」
「え、起業? 就職? そんないきなり……」
「そう。『そんないきなり』ここまでやる覚悟はある?」
「ありません」
ユキヤは観念した。
「信じるっていうのはそういうこと。ぼくは正解を教えるんじゃない。キミの成長をサポートするんだ」
「なんか、フォルムとか名前から、ドラえもん的なものを想像してました」
カナえまるの正論に思わず敬語になる。
「ドラえもんは問題を解決してくれるけど、成長は促さない。あの物語において、のび太は成長してる?」
そう言われるとしてないように見える。
「継続することが目的化した物語においては、成長は終焉に向かう装置となるため、あえてキャラクターに成長という機能を喪失させるという措置を講じる場合が多いんだ。だから現実世界で何年も経っているのにキャラクターの年齢は変わらないし、22世紀には……」
「やめて! わかったからやめて! それ以上は夢を壊すことになるから」
「そう? なら似たような構造の例として『こちら葛飾区亀有公園前派出所』という作品を……」
「それも同じだから! そもそも『こち亀』に夢を見る少年はいないからいいとかじゃなくて」
「『名探偵コナン』最大のミステリーってなんだかわかる?」
「わかるけど! やめとこう。いいかげんやめとこう!」
ピコン!
母親からメッセージが届いた。
【帰りにスーパーでトイレットペーパー買ってきて。いなほマートとマルオツデリを見て安い方買ってくるのよ】
おつかいの依頼だ。時計を見るともう16時半を回っている。やべ、早く帰らないとお笑いライブの生配信に間に合わない。
「……カナえまる、お願いができた」
「お、どうやら真剣みたいだね。それは、キミが必ず成就させたい願い?」
「ああ、そうだよ」
「じゃあそのお願いを教えてくれる?」
「今からスーパーを2軒回って安い方のトイレットペーパーを買って17時までに家に帰りたい!」
「了解! すぐにロードマップを作成するよ♪」
アプリ画面では【シンキングタイム】の表示が踊り始めた。ユキヤは教室を出て階段に向かった。
「完成! じゃあこのロードマップに沿って進んでみよう!」
ユキヤはすでに階段を降りて下駄箱に向かっていた。
「今からスーパーを2軒回るのは不可能だね。見比べて1軒目が安かった場合、戻ってる時間がない」
ユキヤは下駄箱の前でずっこけた。
「じゃあどうするのさ」
「スマホでスーパーのWEBサイトを開いて。今日のチラシは必ず載ってるから、それを見るんだ。特売になってるトイレットペーパーを探して、どっちが安いか判断してね」
「そんな回りくどいことしないで教えてよ」
言いながらもユキヤはスマホを操作していなほマートのWEBサイトを見る。
「それじゃあキミの成長にならないでしょ?」
そういうコンセプトか。のび太はここで泣きつくから成長しない。サイトでチラシを見比べてみるとマルオツデリの方が安かった。
「マルオツだ!」
「御名答♪ じゃあマルオツデリまでの最短ルートをナビするよ」
校門を出て、いつもの道筋で歩き始めると、
「ここの細い道を左に行って」
え、こんな道通ったことないぞ。
「いいからほら」
ユキヤは言われるがままに細い道に入っていった。
「突き当たりに小さい神社があるから、そこの前で一礼しておくといいよ」
え、なんかイベント発生するとか? またも言われるがままに一礼した。……特に何も起こらない。
「ほら、突っ立ってないで早く行くよ」
「え、なんかあるんじゃないの?」
「さあ、後々ご利益でもあるんじゃない?」
こいつマジか。
細道を抜けると、目の前にマルオツデリが現れた。
「おお、もしかして大幅ショートカット?」
「ちなみに普通に行く場合と比べると10秒ほど遅いよ」
「ダメじゃんか」
「まあまあ、地元の抜け道は知っておいて損はないから」
なんだそれ。いちいち予言じみたことを言ってなんか不気味だな、とユキヤは思った。
スーパーに入ると特売になっているトイレットペーパーをつかんでレジへと向かう。
「あ、レジは必ずセルフレジを選んで」
え、セルフレジ? 正直、抵抗があってやったことがない。
「お会計が一個だったら絶対にセルフレジの方が早いし、やったことないなら絶好の機会だよ」
見透かされている。やってみると驚くほどスムーズに会計ができた。次に来る時も絶対に使おう。無事に買い物が終わるとあとは家に帰るだけだ。最後の行程は何事もなく終わった。
「あ、ユキヤ、おつかいありがとう。これ、トイレットペーパー代」
母親から代金を渡された。よく見ると高い方のスーパーの値段と同じだった。
「差額はお駄賃ってことで」
結果少しだけ得をした。時間は17時になる5分前だった。部屋に戻りながら、アプリに声を掛けた。
「ありがとう。さっきの願いは叶ったよ」
「やりましたね! はじめての願い事が叶いました!」
画面の中でカナえまるはノリノリでステップを踏んでいる。
「そういえば、願い事が叶ったらどうなるの?」
「実はね、願いを叶える過程でキミが得た収入の1割が自動で課金される仕組みなんだ」
「は? そんなの聞いてないよ?」
「うん、その説明もしてなかったし、お駄賃の1割をもらってもしょうがないから、今回はナシにしてあげる」
当然だ。勝手に課金なんかされたら、さすがに悪どすぎる。
「だから1つだけ、ぼくの願い事を聞いてよ」
「なんだって?」
これは無理難題を押し付けられるパターンか?
「……聞くだけ聞くよ」
ユキヤは慎重に言葉を選んだ。まだ叶えるとは言ってない。
「どうすればこのアプリを使う人が増えるかな?」
「え?」
カナえまるは神妙な面持ちになって上目遣いにユキヤを見ている。
「いろんなところに広告を出してるんだけど【あなたの夢、叶えます】ってすごくシンプルでわかりやすいキャッチフレーズにしてるのに、全然クリックしてもらえないんだ」
あの広告の問題点をわかっていないのか?
「そ、そうだな。そのフレーズ、違法アプリにしか見えないから、まずそのキャッチフレーズを変えようか」
「え、ホントに?」
「うん、このアプリがAIパートナーだっていうことをしっかり伝えて、釣りと思われる文言は一切排除して。それから俺との最初のやり取りのパート『成長させる』云々のところね、あれを公開した方が興味は持たれると思うよ」
これまで散々スマホ広告にいら立ってきた経験から、率直な意見がスラスラ出てきた。
「すごいすごい! とてもいいアドバイスだね!」
「あとはクチコミを重視した方がいいかも。使ってみなきゃわからない部分がたくさんあるから……」
ユキヤは自分が思ったことをカナえまるに伝えていった。
一ヶ月後。
「ユキヤ! 聞いてよ! キミのアドバイスのあと、ダウンロード数も売上もうなぎ登りだよ! ありがとう!」
「ホントに? 良かったじゃん!」
カナえまるの報告にユキヤも喜んだ。
「じゃあ、俺の助言で伸びた売上の1割を報酬としてもらえるかな」
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、あの大雨の夜、君に「さよなら」なんて言わなかったのに……!!
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、缶チューハイ2本でプロポーズなんてしなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、「お弁当温めますか」って聞かれたときに「お願いします」なんて言わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、リンゴなんて食べなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、ネットオークションでサイン入りポスターなんて落札しなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、「もう恋なんてしない」なんて言わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、「私がやりました」なんて言わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、Amazonで冷蔵庫買ったときに置き配ロッカーなんて指定しなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、国会議員に忖度なんてしなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、シークレットの缶バッジなんて箱買いしなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、オリンピックなんて招致しなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、国境に壁なんて作らなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、真夏に量り売りのチョコレートなんて買わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、白い粉なんか受け取らなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、教頭先生の頭頂部なんてまじまじと見つめなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、無料版オンラインカジノの広告なんて許可しなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、「ホワイト案件」なんかに応募しなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、越後屋なんかとつるまなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、目が見えないなんて言わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、永遠の生命なんて願わなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなお題に振り回されることになるなら、半年前にこんなアプリダウンロードしなかったのに……。
嗚呼! どうしてこんなことに!
こんなことになるなら、戦争なんて始めなかったのに〜〜〜〜〜!!
後悔があるから、人は強くなれるのかもしれません。
外の空気は毎日10度以上の乱高下を繰り返し、花粉ですら飛び立っていいのか迷うこの時期。今日は風がピーピーといなないでいる。本屋の店番は今日も暇である。
午前中は仕入れと陳列で店の中を歩き回っていたが、午後はお客さんが止まる13時以降は眠気との戦いだ。
「おう、舟を漕いでる暇があったら『舟を編む』でも読んだらどうだ?」
珍しく居眠りをしている私に店長が声を掛けてきた。
「あ、店長、おはよ……、お疲れ様です」
ちなみに三浦しをんのベストセラー小説『舟を編む』
は読了済みだ。足を悪くした店長は陳列作業ができなくなって私を雇ったのだが、店番なら難なくできる。つまり午前中の作業が終われば、本来私は用済みだ。
「『舟を編む』面白いですよね。本が好きな人なら絶対好きみたいな内容だし」
一応読んだことあるアピールをしてみた。
「そんなに暇ならPOPでも書いたらどうだ? 俺ぁ面倒だからやらねぇけど、やったっていいんだぜ」
「あ、そうなんですか? じゃあ、やっちゃおうかな」
私も別にPOP作りに興味はなかったけど、暇なバイトが好きなわけじゃないからやってみようと思った。
紙とペンを持ってきて、手書きPOPを作り始める。とはいえ何の本がいいだろう。隠れた名作? 最近話題の本? 自分の好きな本から書き始めるのがいいだろうか。
「あの店長……」
店長に教えを請おうとしたが、
「好きな本で書いていいぞ。内容がわからなければ立ち読みしていいから」
そういえばここは立ち読み歓迎店だった。いや表向きには言ってないけど。
そうこうしていると15時を回っていた。この時間、ご近所さんが店の前を通ればお茶菓子を差し入れしてくれたり、学校終わりの子ども達がテトテト歩いて漫画コーナーを物色したりするから、眠気覚ましには事欠かない。
文芸コーナーの端っこで、POPにできそうな本を探していると、漫画コーナーから二人の子どもがひそひそ話をしているのが耳に入った。
「な、秘密の場所って言っただろ? ここならマンガ読み放題だぜ」
んー、さすがにいいように使われてる気がする。一応店長に伝えておくか。
「だからそりゃあ構わねえって。ガキどもが本に興味を持つことはいいことだ」
そうなんですかねー。
「ならいっそ、ブックカフェにしてみません? アンティークな店内で本を読みながらコーヒーをたしなむ……、秘密の隠れ家みたいな本屋さん!」
半分冗談のつもりで言ってみた。こんなこと言ったら店長は怒るだろうか。
「ふん、カフェインは眠気覚ましにいいからな」
う、皮肉で返されてしまった。
「いま結構流行ってるんですよ。大手の本屋さんでもカフェ併設って増えてて」
「お前さん、コーヒーの知識はあるのかい?」
「え、私ですか?」
私がやるの? バイトだよ?
「ぜんぜん! やったことも見たこともないです」
「なら学ぶところからだな。趣味のコーナーにコーヒーの本、あっただろ」
まさか。
「いくらでも立ち読みしていいからな」
まったく、食えないジジイだ。
休日の午後、通い慣れたジムのドアを開けると、静かな中にいくつものトレーニングマシンが一定のリズムで動く音が聞こえてきた。この空間にいる人は、黙々と自分の肉体との対話を行っている。
私はカナデと一緒にウォーミングアップを行い、それぞれマシンに向かって進み出た。私はいきなり、鬼門と言うべきマシンの前に立つ。
ラットプルダウンだ。電車の吊り革のような2本の持ち手を両手で握り、肩甲骨を寄せるようにして引き下げる。そうすると重りが動いて、背中の筋肉が鍛えられるという。私は何度やってもこの器具に慣れない。筋トレは鍛える部位だけに力を入れて、他の筋肉を動かさないのがコツというのだが、どう考えても腕に力を入れないでこの器具を引っ張るのは不可能だ。それに背中が鍛えられている気がしない。
「ふーー、すーー、ふーー、すーー」
隣から聞こえるカナデの息づかいも様さまになってきた。
ジム通いにがんばり屋の後輩ができてから、もう1ヶ月が経とうとしている。ただほんのちょっと早く入会したから、ほんのちょっと器具に詳しかっただけなんだけど、カナデは私のことを立派な先輩扱いをしてくれる。そうするとこの子には負けられないなという気分になった。
私も不満ばかり言っていないで、ラットプルダウンの使い方をちゃんとトレーナーさんに聞いてみよう。
「筋トレって、キツイけどストレス発散にもなるんだね」
筋トレを一通りやった後、ランニングマシンで走っている時にカナデが言った。走ると言っても速めのウォーキング程度の速度だ。二人で隣になれば、そのときに軽く会話ができる。そこで話が盛り上がると、休日ならカフェに、仕事帰りならご飯にという流れがいつの間にかできていた。
「そうだね。体を動かしてると集中できるし、仕事のことを忘れられる」
それ自体はカナデに会う前から感じていたけど、最近はカナデと話していることがストレス解消になっている気がする。
「ナオは他に何かストレス発散できることやってる?」
そう言われるとすぐには思いつかない。足を動かしながら少し考える。
「料理かな。献立を考えて、料理している間は、結構集中してると思う」
「え〜、ナオの料理食べてみたい! こんど作ってよ。おうちお邪魔していい?」
急にグッと距離を詰められてびっくりしてしまった。
「え、あ、う、うん。いいけど」
「やったー! ナオのおうちでホームパーティだ!」
料理を作るだけのはずが、ホームパーティをすることになっている。飛躍がすぎると思ったが、無邪気な彼女を微笑ましく思った。思えば仕事以外の場所で人と親しくなるのはずいぶんと久しぶりかもしれない。
「カナデのストレス解消法は? なんかあるの?」
自分だけ話してカナデから聞かないのはフェアじゃない。
「私? 私はね〜、カラオケ!」
カラオケか……、これまたパリピな趣味だ。
「カラオケかぁ。仕事の付き合いでは行くけど、ストレス解消できるかな」
上司や取引先が歌うのを聞いていたってそれほど楽しいもんじゃない。
「違う違う、ひとりカラオケ!」
「え、ひとりカラオケ?」
「あ、もちろん友達と行くのもありだと思うけど。ひとりカラオケって誰にも気にせず歌いたいのを好きに歌えるから、もう自由だ〜って感じになるんだ」
カナデがひとりカラオケするって、ちょっと意外だった。
「あ、今からでもできるじゃん! 体験してみる? 私とならきっと楽しいよ」
「いやどんな自信だよ」
結局、ランニングマシンは20分ほどで切り上げて、二人で昼カラオケに行くことになった。ジムがあるのも街中だから歩いて1分もしないところにカラオケ店はある。
カナデは同年代だけど割と最近の曲をよく知っていた。アイドルなんかも知ってるみたいだ。それを考えると私の選曲はちょっと古臭いかもしれない。
「私がいることなんか何にも気にしなくていいからね。カラオケは歌いたい曲を周りに関係なく歌うものだから!」
カナデはそう言って促してくれた。ありがたいけど、普段歌ってないから音程に自信がないんだよ。
結局歌ったことのある いきものがかり を入れてみた。アップテンポなやつじゃなくて、ちょっとバラード調のやつ。歌い始めるとカナデの表情が気になったが、カナデはニコニコしながら聞いている。
曲の終盤、あ、と思った。このあとラララが続くやつだ。カナデをチラッとみると、パネルで次の曲を探している。大丈夫だろうと思って、ラララのパートに入ったら三小節だけ歌って演奏停止を押した。ラララ……の部分って歌詞がない分、音程とリズムをやたら試されているような気になる。
「いえ〜い! いいじゃんいいじゃん! 今日はこんな調子でがんがんストレス発散しようね!」
カナデはなにも気にしてないように言ってきた。なんか今はカナデがお姉さん感を出している気がする。
次にカナデが歌った曲で、最後にカナデはラララを1回だけ歌って消した。