※内容は全てフィクションです。
最近、拠り所にしている声がある。スマートフォンでアプリを起動し、フォローしている番組をタップ。すると気の抜けた眠たそうな声が聞こえる。声の主はマイカビーンズさん、番組名は「おつまみラジオ」。音声配信アプリ「スマートウェーブ」で配信している、個人のラジオ番組だ。
「こんにちは〜、今日もおねむぅございます」
マイカビーンズさんがお決まりのあいさつをする。この一言だけでリラックスできるから不思議だ。
「みなさんはいかがお過ごしですか? 3時のおやつを食べながら、洗濯物を畳みながら、おやすみ前のひとときなどに、まったりしながら聴いていただけると嬉しいです」
スマホ画面に表示されるサムネイルにマイカさんの姿はない。どんな顔かも、どんな仕事をしているかもわからない人なのに、ただ声のみに引き込まれる。
「私は今日もおつまみをいただきながらしゃべりますので、みなさんもお手元に何か用意してね、一杯やりながら聴いてやってください」
話はとにかく中身がない。声と話の内容から、勝手に顔を想像してしまう。
「いやぁ最近仕事が暇でねー。みなさんは仕事って忙しいのと暇なのとどっちがいいですか? 私なんかすぐ眠たくなっちゃうから。ある程度、動いてた方がいいんですよね」
興味があるようなないような、どうでもいい話が続く。聴いているうちについウトウトしてしまうから、通勤途中の電車で聴くのはちょっと危険だ。
私はその日、仕事で普段は訪れない土地に来ていた。得意先との打ち合わせを終えると、少し時間ができたので、時間をつぶせる場所を探した。あまり大きい街ではなく、地図アプリを使ってもチェーンの喫茶店が引っかからない。仕方なく⭐︎3.2を獲得している聞きなれない名前のカフェに行くことにした。
コーヒー600円か……、そのくらいはするよな。
店の前で少しためらったが他に行くところもない。私は思い切って店内に入った。
「いらっしゃいませ」
その声に耳を疑った。眠たそうな気の抜けた声に、聴き覚えがあったのだ。そう、マイカビーンズさんだ。
そんな偶然があるだろうか? そもそも声が似ているだけでは? 推しに会う心の準備ができていない。顔を見てしまっていいのか?
一瞬のうちに様々な思いが去来した。入らずに扉を閉めてしまおうかとも考えた。
「おひとり様ですか? 空いてる席どうぞ〜」
次々と声の矢が放たれる。いつも耳元で聴いているあの声だ。私は意を決して店内に足を踏み入れた。
顔を上げると店員さんはマスクをしていた。目元は笑っている。一度見てしまったら、頭の中で勝手に想像していた顔はもう思い出せなくなっていた。
店内を見るとお客さんは誰もいなかった。暇そうだ。私はブレンドコーヒーを注文して席に着いた。
ラジオ聴いてます、なんて言うのは野暮だろうか。そもそもまだ人違いの可能性はある。アプリを起動させてスマホを机に置いておこうか? 気づいてくれるだろうか。でも顔も仕事も表に出していないんだから、知られたら嫌なのかな。
またしても頭の中はオタクみたいなことばかりが巡っている。
「お待たせしました。ブレンドコーヒーでごわいわふ……」
店員さんがコーヒーを運んできた。あくびを噛み殺しながら……。
「あ、失礼しわひは。あははははは」
店員さんはまたもあくびをしながら謝罪をして、口元を押さえながら去っていった。
私はマイカビーンズさんの存在を確信し、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
ナオと知り合った日に、次にジムに来る予定を聞いた。私はその日に合わせてジムに来て、ナオの隣で筋トレをすることにした。
「えーすごい! もうそんなに重いのでやれるんだ」
ナオのチェストプレスの重さを見て大きい声を出してしまった。
「やめてよ。こんなの全然重くないって」
ナオは謙遜する。そっか、他にもたくさん人がいるし、恥ずかしいよね。
「それにチェストプレスは割とすぐ上げられるようになると思う。他のマシンと比べても辛くないイメージだよ」
「へー、じゃあコレからがんばってみようかな」
もともと初心者向けのジムではあるけど、ナオは通って2ヶ月程度で、私からしたらちょっとだけ先輩だ。そういう人の実感レポートは差が大きくない分、頼りになる。初日に諦めかけていた私には絶好のお手本だった。
一番少ない重りをセットしてシートに腰掛け、持ち手に手を添えて力を入れる。……動かない。
「肘の位置が低いね。肘は持ち手と平行になる位置まで上げよう」
ナオが声をかけてくれた。私の肘は持ち手にぶら下がるようになっていた。
「あ、そうなんだ」
ナオは隣で同じマシンに乗って、やり方を見せてくれた。
「おー、わかりやすい! こうね!」
私はその通りにやってみた。お、お、おー!
「できたできた! 動いたよ!」
さっきまでびくともしなかったバーが動いた。
「これをまずは15回」
15回がワンセットというのがトレーニングの基本らしい。1回動いたとはいえ、できる気がしない。
「ホントにできるの?」
やるのは自分なのに、ナオに向かって疑問形で投げかけてしまった。
「できるできる。自分を信じて」
ナオの言い方は穏やかで強くない。その言葉はストレートに入ってきた。私は必死になってバーに力を込めた。いーち、にーい、さーん……
隣ではナオが同じペースでバーを動かしている。だんだんとバーが重たくなっていく。じゅうさん、……じゅうよん、……じゅう……ご!
「だは〜! 疲れた!」
「すごい。カナデよくがんばったね」
ナオが小さく拍手をしている。わー嬉しい!
「えへへ、できた。ありがとう」
「じゃあこれをあと2回。合計3セットだ」
「それはムリだよー!」
ナオはケラケラと笑っている。
「ゆっくりやっていこう。筋トレは小さい成功の積み重ねだから」
私はこのちょっと先輩のお姉さんと、ゆっくり成長していく日々が、長く続くことを願っていた。
「おはよう」
「んー、おはよう」
起き抜けに声をかけると、夫は返事をする。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
夫が家に帰ってきたときも、返事は返ってくる。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
寝る前、夫はテレビを見ていたけど、おやすみは返ってきた。
「あ、洗い物やってくれたんだ、ありがとう」
「んー……」
夫の返事はあいまいだった。向こうからしたら気まぐれかもしれないけど、私は素直に嬉しかったんだけど。
「お布団干しといてくれたのね、重たくて億劫だったから助かるわ。ありがとう」
「……」
まただ。夫が返事をしない。
普段の会話はちゃんと受け取ってくれるのに、ありがとうだけ届かない。感謝の気持ちが伝わらない。それってちょっと寂しいな。
どうやったらちゃんと感謝が伝わるだろう。世の中では「言葉にして伝えよう」って言ってくるけど、声に出してるのに伝わってる気配がない。この場合はどうすればいいの? あんまりあからさまにやっても押し付けがましくなっちゃうし、そっと伝えられたらいいんだけど。
ん? そもそも「ありがとう」への返事ってなんだっけ? そうだ「どういたしまして」だ。
調べてみると「どういたしまして」は打ち消しの意味があるらしい。「どういたしまして、たいしたことはしていません」と。
何これ、感謝、受け取ってないじゃん。もっと調べるとどこの国でもありがとうへの返答は同じようなニュアンスがあるらしい。
そうなのか。人間は感謝を受け取らない生き物なのか。じゃあ、しょうがない。
「お疲れさま」
晩酌を終えた夫に、小さい箱を渡す。
「今日はデザートを用意しました」
中にはチョコレート味のカップケーキ。そしてメッセージカードを添えた。そこには“いつもありがとう”と書いてある。
「えー、なんでこんなこと?」
夫は驚いたようだ。
「いつも細かいところに気づいて手伝ってくれてるから。あと、感謝を伝えてもぜんぜん届かないんだもの」
私は素直に思いを伝えた。すると夫は首の後ろをかきながら「まいったな」とつぶやいた。
「俺はその手伝いで、感謝を伝えてたつもりなんだけど。やっぱり伝わらないかー」
「え?」
先に感謝を伝えてきてたのは、夫の方だった。
優作が目を覚ますと、ベッドの脇でうたた寝をする千佳子が見えた。病室の窓から差し込む夕日が千佳子の寝顔を明るく照らしている。優作はこの顔をずっと見ていたいと思ったが、彼女のためにはそうも言っていられない。
「また来てたのか? ダメじゃないか」
その声に千佳子はゆっくりと目を開けた。
「優作さん、起きてたの? 大丈夫? どこか痛いところは?」
千佳子は矢継ぎ早に質問してくる。痛いと言えば全身痛い。優作の体は病に冒されていた。
「そんなことはいいんだ。君はこんなところにいるべきじゃない。病人のことなんか放っておいて、自分の成すべきことをやるんだ」
千佳子は天才だ。小学生の年齢で大学の博士課程を修了し、そのまま研究員になった。そして毎日のように新しい発見をしている。
「なんてことを言うの、いまの私にはあなたとの時間しか必要ないわ」
千佳子は優作を愛していた。それは優作もまた同じだ。彼女はどこまでも素直でひたむきで、優作がその才能に嫉妬することすらないほど完璧な人間だ。でも、だからこそ、すぐにこの世からいなくなる自分なんかに時間を使う必要はないと、優作は考えていた。
そして何を言っても最後までそばにいてくれるということも、優作にはわかっていた。
「ねえ、なんで私が天才なのか、教えてあげるわ」
「なんだよそれ、自分から天才って言うなんて、珍しいな」
そう、千佳子はどこまでも謙虚で、自身の天才性をひけらかすような性格ではなかった。
「私にはね、未来の記憶があるの」
「未来の記憶?」
どこまでも実直な千佳子は冗談が苦手だ。
「そう、未来の記憶。私はこれからくる未来を知っているから、それに向かって進めばいいの。新しい発見も、あり得ないような発明も、すべて記憶に沿ってやるだけでできてしまうのよ」
「なるほど。それはズルいな。人生イージーモードってやつだ」
優作は千佳子の冗談に乗ってやることにした。
「だからね……、私には、あなたと歩む……未来の記憶が見えているのよ」
千佳子が声を詰まらせる。
「大きな庭のある家で……、あなたと、三人の子どもたちと……、たくさん笑って暮らしてるのよ……だから、だから……!」
千佳子は言いながら泣き崩れた。その姿を見ながら、優作はまぶたが重くなっていくのを堪えていた。
「そうか。じゃあ俺は、安心して寝られるな。そんな未来が待っているなら……」
優作はゆっくりとまぶたを閉じた。そのとき、一粒の涙が頬を伝って落ちた。
その男の病室には、たくさんの家族が集まっていた。男はまた一代で会社を大きくした社長であり、側近の部下たちも集まっている。
「残念ながら、もう長くはありません」
男の妻に主治医が告げた。ベッドサイドモニターに映る心電図は弱々しい動きを続けている。
「そんな……誠さん、まだ亡くなるには若すぎます」
妻は涙を流して男に語りかける。
「最期ですので、みなさん声を掛けてあげてください」
主治医が呼びかけると、家族の中から長男のサトシが前に出てきた。
「親父、オレ、まだ社長なんて荷が重いよ。まだいろいろ教えてくれよ!」
男に反応は見られない。
「お父さん、最期だから言わせてもらうけど」
長女のリカが涙声で言いはじめた。
「先週、私が買ってきたプリン食べたでしょ」
「ちょっとリカ、こんなところで」
身内の恥ずかしいやり取りを妻が咎めようとする。
ビクン!
「え?」
主治医が驚いた顔でモニターを見る。男の脈動が大きくなっている。
「まさか……、脈が、脈が戻ったぞ!」
集まった人たちは目を見合わせている。
「そうか! つまみ食いがバレていた動揺で脈が早くなったんだ。心を揺さぶるんだ! みなさん、この方の心を揺さぶるような言葉を掛けてあげてください!」
病室がどよめく。
「じゃあ、私がやってみてもいいかしら?」
次女のミナエが名乗り出て、格調高いオペラを歌いはじめた。透明感のある美しい歌声は男の心に……
「脈が弱まっている」
響かなかったようだ。
「なら僕が!」
三男のタカヒロはヴァイオリンを持って現れた。そして激しい弦さばきで躍動感あふれる旋律を奏でたが……
「ダメだ、瀕死に戻ってしまった!」
「やっぱりあなたたち、才能ないのかしらね」
男の妻が言った。
「そもそも両親とも音痴なのに、なんで音楽なんか始めたんだ?」
サトシが元も子もないことをつぶやいた。
「ちょっと退いてくださる?」
集まった人の波をかき分けて、ハイヒールがツカツカと響く音がした。
「あなたは?」
妻が不信に満ちた顔でやってきた女をのぞき見た。
「あら、あなたが奥様? わたし、社長さんのちょっとした知り合いなの。ね、マコちゃん」
女がその言葉を発した瞬間に男の脈が振り切れんばかりに早くなった。
「おお! すごい動揺、あ、いやすごい効果ですよ!」
主治医は無邪気に喜んでいる。
「誰よ! こんな女呼んだの?」
会社の重役たちは一様に俯いて口をつぐんでいる。
「あら、そんなこと言っていいの? わたしが命の恩人になるかもしれないのに。もしそうなったら、あなたと立場が入れ替わっちゃう・か・も・ね」
妻は女をじっと睨みつけて離れない。女は不敵な笑みを浮かべて眺めている。
「さあ、どなたか、もう一声!」
主治医はそんな女の戦いなどどこ吹く風で、呑気に社長ゆさぶりコンテストの参加者を募っている。
「そ、それでは僭越ながらわたくしが……」
手を挙げたのは長年男の側近を務めるナガミという男だった。
「社長、あなたがいなくなったら、わ、わたしはもう、たった一人でこの秘密を墓場まで持っていくなんてできません!」
「ちょっと!?」
妻は何を言い出すのかという驚きで声を漏らした。ナガミは構わず、病室のみんなに聞こえる声で暴露を始めた。
「ここにいる社長は、国会議員の……」
ピーーーーーーー!
男の心肺停止を告げる機械音が病室に鳴り響き、側近の男の声をかき消した。
「大変だ! 心肺停止だ! 早く、誰か別の別のエピソードを!」
主治医は自分が医者であることを忘れたかのように混乱して、まだエピソード大会を続けようとする。集まった人たちはオレがオレがと男のベッドに向かって押しかけてくる。
「がはっ! ごほっ、ごほごほ!」
「なんと! 意識が戻ったぞ!」
先ほどまで心停止していた男が、奇跡的に意識を取り戻していた。
「まだ私が話していません!」「私にも話させてください!」
なぜか話し足りない人たちが、なおも社長に詰め寄ってきた。
「ちょっと、か、勘弁してくれ。これ以上は心臓に悪すぎる」