その男の病室には、たくさんの家族が集まっていた。男はまた一代で会社を大きくした社長であり、側近の部下たちも集まっている。
「残念ながら、もう長くはありません」
男の妻に主治医が告げた。ベッドサイドモニターに映る心電図は弱々しい動きを続けている。
「そんな……誠さん、まだ亡くなるには若すぎます」
妻は涙を流して男に語りかける。
「最期ですので、みなさん声を掛けてあげてください」
主治医が呼びかけると、家族の中から長男のサトシが前に出てきた。
「親父、オレ、まだ社長なんて荷が重いよ。まだいろいろ教えてくれよ!」
男に反応は見られない。
「お父さん、最期だから言わせてもらうけど」
長女のリカが涙声で言いはじめた。
「先週、私が買ってきたプリン食べたでしょ」
「ちょっとリカ、こんなところで」
身内の恥ずかしいやり取りを妻が咎めようとする。
ビクン!
「え?」
主治医が驚いた顔でモニターを見る。男の脈動が大きくなっている。
「まさか……、脈が、脈が戻ったぞ!」
集まった人たちは目を見合わせている。
「そうか! つまみ食いがバレていた動揺で脈が早くなったんだ。心を揺さぶるんだ! みなさん、この方の心を揺さぶるような言葉を掛けてあげてください!」
病室がどよめく。
「じゃあ、私がやってみてもいいかしら?」
次女のミナエが名乗り出て、格調高いオペラを歌いはじめた。透明感のある美しい歌声は男の心に……
「脈が弱まっている」
響かなかったようだ。
「なら僕が!」
三男のタカヒロはヴァイオリンを持って現れた。そして激しい弦さばきで躍動感あふれる旋律を奏でたが……
「ダメだ、瀕死に戻ってしまった!」
「やっぱりあなたたち、才能ないのかしらね」
男の妻が言った。
「そもそも両親とも音痴なのに、なんで音楽なんか始めたんだ?」
サトシが元も子もないことをつぶやいた。
「ちょっと退いてくださる?」
集まった人の波をかき分けて、ハイヒールがツカツカと響く音がした。
「あなたは?」
妻が不信に満ちた顔でやってきた女をのぞき見た。
「あら、あなたが奥様? わたし、社長さんのちょっとした知り合いなの。ね、マコちゃん」
女がその言葉を発した瞬間に男の脈が振り切れんばかりに早くなった。
「おお! すごい動揺、あ、いやすごい効果ですよ!」
主治医は無邪気に喜んでいる。
「誰よ! こんな女呼んだの?」
会社の重役たちは一様に俯いて口をつぐんでいる。
「あら、そんなこと言っていいの? わたしが命の恩人になるかもしれないのに。もしそうなったら、あなたと立場が入れ替わっちゃう・か・も・ね」
妻は女をじっと睨みつけて離れない。女は不敵な笑みを浮かべて眺めている。
「さあ、どなたか、もう一声!」
主治医はそんな女の戦いなどどこ吹く風で、呑気に社長ゆさぶりコンテストの参加者を募っている。
「そ、それでは僭越ながらわたくしが……」
手を挙げたのは長年男の側近を務めるナガミという男だった。
「社長、あなたがいなくなったら、わ、わたしはもう、たった一人でこの秘密を墓場まで持っていくなんてできません!」
「ちょっと!?」
妻は何を言い出すのかという驚きで声を漏らした。ナガミは構わず、病室のみんなに聞こえる声で暴露を始めた。
「ここにいる社長は、国会議員の……」
ピーーーーーーー!
男の心肺停止を告げる機械音が病室に鳴り響き、側近の男の声をかき消した。
「大変だ! 心肺停止だ! 早く、誰か別の別のエピソードを!」
主治医は自分が医者であることを忘れたかのように混乱して、まだエピソード大会を続けようとする。集まった人たちはオレがオレがと男のベッドに向かって押しかけてくる。
「がはっ! ごほっ、ごほごほ!」
「なんと! 意識が戻ったぞ!」
先ほどまで心停止していた男が、奇跡的に意識を取り戻していた。
「まだ私が話していません!」「私にも話させてください!」
なぜか話し足りない人たちが、なおも社長に詰め寄ってきた。
「ちょっと、か、勘弁してくれ。これ以上は心臓に悪すぎる」
2/12/2025, 5:19:30 AM