「昨日は柚子、ありがとうございました」
今日も朝からパンを焼く店長に声をかけた。
「あら、おはよう。柚子湯にしてちゃんと湯船に浸かった?」
「ええ、おかげさまで。香りも良くて、あったまりました」
冬至にあたる昨日、店長は柚子を大量に仕入れてきて、なぜかその日いたバイトに配っていた。そして私には念を押して柚子湯を勧めてくれた。
「習慣って迷信じゃないのよ。柚子に含まれる成分にはリラックス効果とか血行促進とか色んな効果があるの」
直前に私が体調を崩したからだろう、やたら気遣ってくれる。本当にお母さんみたいでありがたい。ちょっと圧が怖いけど…。
そんな店長だが、今日は柚子を使ったお菓子のレシピに悩んでいるようだった。
「マドレーヌもいいし、フィナンシェもいけるわね」
「ここで働いてて今更ですけど、マドレーヌとフィナンシェの違いってなんですか?」
私はパンは好きだけど、スイーツには疎い。それでいて形と色が似ている横文字を覚えるのが苦手だ。
「ざっくり言うと、卵とバターの使い方の違いね。マドレーヌは卵を全部使って溶かしたバターを使うけど、フィナンシェは卵白だけで焦がしたバターを使うの」
ほぉー。聞いておいて特に感想はない。食べてみてもそこまで違いはわからないんだろうな。店長は作るものを決めたらしく、テキパキと準備に取りかかった。
「今日、半日で閉めるんですよね?」
店長がM-1グランプリをリアルタイムで観たいから、という理由で昼過ぎにはお店を閉めることになっていた。
「年に一度の祭典よ。自分の趣味は最優先で生きるって決めてるから」
お笑い好きの店長にとって、今日は大切な日だ。我が道を往く店長は尊敬できる。でも突っ走りすぎるところもある。
「それに私たちにとって年内最後のお祭りは2日後よ。その前に気分を上げていかなきゃ」
スイーツも扱っているこのパン屋さんにとって、クリスマスも売り上げの高い大事な日だ。
「そもそもパン屋さんなんて、朝には全部作っちゃうんだから、お昼にはお店閉めちゃっていいのよ。本当は」
この人は冗談を言うときはいつも極端な事を言う。ってそうじゃなくて。
「あの、そんなにいっぱい作って、売り切れるんですか? 半日で」
いきなり新作を増やして、しかも半日で売れるんだろうか。
「なに言ってるの。売るのよ。『季節限定』『新作スイーツ』『一日遅れの冬至の定番』『M-1のおともに!』なんでもいいから」
「え? あ? そのフレーズはもしかして…」
「あなたの出番よ。POPならお手のものでしょ」
店長からの信頼が日に日に厚くなっている。いつの間にか私は販売促進部長だ。バイトなのに。
店長が調理するのを遠巻きに見ながら「柚子 スイーツ」で検索してどんな味になるのかを調べてみる。それをPOPに落とし込みながら、売れそうなキャッチコピーも考える。
「ノンストップ・ユズ!」「エキセントリックスイーツ!」「ゆず−POP」「ずっとユズダチ」
あ、いけない。途中からM-1のキャッチコピーまとめを見ていた。でも悪くないな。わかる人にわかってもらえたらいいか。
「POPできた? あら素敵じゃない」
一通り作業を終えた店長が近づいてきた。売るフェイズになったら店長のやることはほぼない。
「ねえ、今日のM-1、誰が獲ると思う?」
あーもう、雑談タイムだ。こうなると私も止まらないですよ。
「私はヤーレンズと真空ジェシカが推しですね。令和ロマンも好きですけど、連覇は違うかなーって思っちゃいます」
「わかるわー。私はね、エバースが仕上がってると思うのよね。最近、神保町の配信買ってるんだけど、あのクオリティを決勝で出せれば…」
劇場の配信買ってる人だったのかよ。もう手がつけられない。お笑いの話になると店長はアンコントロールすぎる。
窓を覗き込むと、千々に破れた雲が嵐の中をのたうち回っているようだ。轟音もガラス越しでは小さくくぐもって聴こえる。
朝のコインランドリーに人はまばらだ。かと言ってこの空間をひとりで占拠できるほどではなかった。最近ではコーヒーを出すコインランドリーもあると聞くけど、この町にそんな気の利いた設備があるわけもなく、昔からある洗濯機で回る雲を眺めるぐらいしかやることはない。
1週間分の洗濯物を詰め込んで、自転車の前カゴに入らないから背負ってくる。乾燥が終わるまで待っている必要もないけど、他に時間を潰せる場所もない。
外は澄んだ大空が広がっているだけだ。
雲ひとつない空を見ているくらいなら、嵐の中を蠢く洗濯物を見ていた方が楽しい。規則的な回転の中を不規則に衣類が踊る。その混沌は「f/1ゆらぎ」のようで心地よい。
窓からのぞくドラムの中は胎児の記憶を呼び起こされるようだ。ずっと静かに、この胎動を眺めていたい。
ゴロゴロゴロ…ザ…ザーーー
洗濯が乾燥に切り替わった頃、外の景色が一変した。大空は突如として雲に満たされ、雷鳴が響き始めた。
ああ、自転車で来てる。
乾燥が終わったら、しばらく窓の外を眺めていよう。
カラランカラン…カラランカラン…!!
乾いた寒空にハンドベルの音が響いた。
「おめでとうございます! 4等、100円分の商品券です!おめでとうございまーす!」
年忘れ大福引き大会は、この商店街の年末の風物詩となっている。今年もたくさんの人が列を成し、この福引きを楽しんでいた。
福引き抽選器の後ろには福引券を受け取って案内をする男性、隣にはハンドベルを持った女性が並んでいた。
「あのー、すいません、鳴らさないでもらっていいですか?」
いま福引きを引いたばかりの男が注文をつけた。
「は、はい?」
「ベル、鳴らさないでもらっていいですか?」
「いや、でも、あの4等当たったんで」
「だから4等でベル鳴らさないでください」
「なんでですか、当たりじゃないですか」
「いや4等の賞品、なんて言いました?」
「100円分の商品券です」
「めちゃくちゃハズレやないかい! これ福引券、一枚もらうのに1000円以上の買い物が必要なんですよ、全然損してるじゃないですか」
「そんなこと言われてもなぁ、金券ですからね」
「だから、ベルを鳴らさないでくれたらいいんですよ。あー100円分かぁ、って思うだけだから。これを当たりって言われるといやいや違うでしょ、と」
「宝くじだって300円で当たりですよ」
「300円当たりって言うやつおらんねん! あんなんおもんないおっさんが『オレ宝くじ当たったよ、300円』って言うためだけにある賞やねん、しょうもない」
「でも参加賞が箱ティッシュですよ、これがハズレでしょ」
「なんならそっちの方が嬉しいわ! いま紙も高くなってるからね!」
「いやです」
「え?」
「4等でも鳴らします」
静かにやり取りを聞いていた女性がしゃべり始めた。
「いや、3等からでいいでしょ」
「私、今日これを鳴らしに来たんですよ! これが私の今日の仕事なんです!」
「だから3等から鳴らせばいいじゃないですか」
「いやだ! これ見てください」
そこには福引きの当選本数リストが書かれていた。
「1等 電動自転車 1本。2等 最新オーブンレンジ 2本。3等 空気清浄機 5本…」
3等までで合計8本だ。
「少なすぎるでしょ! こんなに寒い中、一日中ここに立って、仕事8回!? ここの商店街、しょっぱすぎるでしょ!」
「しょうがないのじゃない。みんなこのご時世で商売も大変なんだから」
興奮する女性を男性がなだめる。
「で、4等は?」
「100本」
「多すぎるでしょ! 逆に多すぎるって! あなたずっとベル鳴らしてることになりますよ?」
福引きを引いた男性はリストを見てあることに気づいた。
「え? これ電器屋さんの負担大きすぎませんか? これ全部、電器屋さんの協賛ですよね」
「あ、私がこの町の電器屋です」
福引きを担当していた男性が手を挙げる。
「ああこの人だった! え? あ、でも電動自転車は自転車屋さんか」
「自転車屋さんは昨年潰れました。それもウチで扱っています」
「あ、全部電器屋さんだ!」
「今年はどこも協賛してくれなくて」
「もう電器屋さんの福引き大会になってる! かわいそうになってきた」
「私、この日のためにハンドベルの練習をしてきたんです」
「え?なんですか?」
「ハンドベル教室に通って、猛特訓してこの日に備えてきたんです!」
「どうかしてますって、そんなんやる人いないですよ」
「いまではハンドベルを完全にマスターして、ハンド ベル子の芸名で活動しているんです!」
「意外と安直なネーミングですね」
「だから、1等が出たらこの曲を披露するつもりなんです」
そしてベル子はどこからか8つのハンドベルを取り出すと、たった一人で鮮やかにベートーベンの第九を奏でたのだった。
「もうそれで稼げるって! 全国の福引き会場回ってこい!」
あの子は物精(もののけ)に取り憑かれている可能性があります」
電動キックボードを返却スポットに停めて振り返った先輩は出し抜けに言った。
「はっ、え? あ、、、くはぁ…」
長い距離を走って急に止まったところに予想外の一言を告げられて呼吸ができない。
「そ、そんな、どうして…」
どうしてあの人が取り憑かれていると思ったのか、どうしてあの人が先輩の店に来ていたのか、どうしてあの時…、ああ訊きたいことは山ほどあるのに息ができない。
「そもそも私が何故あの店を開いたかですが…」
僕の次の言葉を待たずに先輩が話し始めた。そこから話してくれるんですね。
「まずここ数年の物精事案にキャラクターグッズが絡むことが多くなっているんですよ」
キャラクターグッズ? ってクリアホルダーとかTシャツとか? あとはアクリルスタンドとか?
「先輩、物精って確かに道具とか偶像とかに宿るものではありますけど、そんな大量生産のプラスチック製品? なんかに取り憑いて、力を持つことなんてできるんですか?」
前を歩く先輩はチラとこちらを振り返り、やれやれといった顔で視線を外した。なんかむかつく。
「物精の力は想いの強さです。仏像、十字架、教会、モスク、このような信仰心を捧げる『場』に想いが集まれば、どんな物でも、どんな精霊でも力は強くなるのです。思念の世界の住人は想いを食べて強くなる、というのは我々除霊師には常識のはずでは?」
…ご教授ありがとうございます。それで先輩は推し活グッズショップを開いて、ん? それで推し活する人を集めて、グッズを売りつけて…
「じゃあ先輩は、あの店で物精の霊媒になるようなグッズを売ってたっていうことですか?」
ノルマを達成するためにわざわざ物精を呼び出す手助けをしてるってこと? マッチポンプ? 自演乙? 悪質な不正だ! 背任行為だ!
「その逆ですよ。私の店の商品には、すべて私の霊力が込めてあります。物精の気配を感知すれば私にすぐに伝わるようにしているのです。霊力を辿れば商品の在処ありかもわかります。推し活グッズに物精が集まるのなら、その元を断てばいいということです」
早とちりの勘違いでした、すみません。要は物精もののけによる被害を未然に防ぐことで組に貢献してるってことか。本当にこの人は頭の回転がお早いことで。
「今回のその子は常連さんなんですよね? 先輩の店のグッズを使ってるのに取り憑かれてしまったんですか?」
もしかして、先輩の霊力破れたり〜ってこと?
「私の店はまだ作品のキャラクターグッズを置くまでの規模とコネがありません。おそらく物精が顕現しているのは別の店で買ったアクリルスタンド。使っているアクスタケースも同時期にウチではない店で買ったものでしょう」
なるほどですね。先輩の店もまだまだ発展途上ってことだ。
「そこまでわかっていたら、あの場で除霊することもできたんじゃないんですか?」
「君が霊力ダダ漏れでレジに近づいたからですよ。それで物精もののけに感づかれて、警戒されてしまったんです」
自分が足を引っ張っていることに逐一気付かされるとさすがにへこんでくる。だったら店の手伝いなんかさせるなよ。
「もっとも、物精が憑いているアクスタケースは肌身離さず持っているでしょうから、あの場で事を起こしたら、あの子に危害が及ぶ恐れもありましたけどね」
「でもよく推し活なんかに目を付けましたね。グッズショップまで開くなんて、やっぱり先見の明があるっていうか」
多少ヨイショしておかないと、この人から見放されかねない。
「私は推しを愛する人に苦しんでほしくないだけです。推し活とは本来、人生を豊かにするもの…。なのに人の寂しさに付け込んで己の霊位を高めようなど、許しがたき所業です」
あ、そういえばこの人、ナチュラルに推し活が好きな人だった。
「着きました。ここに霊力の反応が留まっています」
先輩が立ち止まって目を向ける。そこは【メゾン アルテミス】というプレートが掲げられた、小さなアパートだった。
「やったー!完成!」
カナデがリビングに置かれたこたつの前で手をパチパチ叩いている。
「冬は一緒にこたつに入ろうね」というカナデの言葉を思い出し、ネットでこたつセットを注文していた。ようやく訪れた休日に合わせて到着した品物を、こうして二人で組み立てた。
「これが私からのクリスマスプレゼントってことで」
思ったよりいい値段がして、少しだけ尻込みした。
「あはは、めっちゃ和風のプレゼントだね! ありがとう」
二人で使える生活の品なら高いということもないだろう。カナデは座ってこたつに脚を突っ込んだ。
「私、夢だったんだよねー、こたつに入るの。なんか家族感がマシマシになると思わない?」
確かにこたつを囲んでテレビを見るのは、古き良き日本の姿って感じはする。
「カナデの家には、こたつはなかったんだ?」
私も腰を下ろしてこたつに脚を入れる。中の温度はまだぬるかった。
「なかったよー。この部屋と同じフローリング? で、床暖房がついてて」
「あー、わかるわかる。ウチもそんな感じだった」
こたつの王道といえば畳の部屋だ。
「だからこたつのこの感じ、体験したことなかったから憧れてたんだよねー」
でもそれなら、こたつのある風景にはまだ足りないものがある。
「じゃあ、あれ、買いに行こうか」
夕飯は念願のロールキャベツにした。カナデがコンソメで味付けをして、しっかり煮込んで作った。忙しい日々にゆったりした時間が流れる。
食後、こたつの上に買ってきたみかんを置いて、二人で脚を入れた。
「ナオさっすがー! これだよコレ! こたつにみかん!」
カナデは興奮しながら、みかんにスマホのカメラを向けている。
「やっぱりあったかいな」
私はみかんを剥きながら言った。さっきまで冷たかった脚がぽかぽかしてくる。
「ウチの家族って会話が少なかったんだよね」
カナデがとつとつと語り始めた。
「私とお母さんはよくしゃべってたけど、お兄ちゃんとかお父さんとかは全然話す時間がなくて」
カナデの家庭の話は今まで聞いた事がなかった。
「お父さんはホント忙しくて、一緒にごはん食べることも少なくて、気が付いたらお父さん帰って来なくなってた」
「え?」
「ああ、ウチの両親、その頃、私が中二ぐらいの時かな、離婚してるの」
私は相槌もうまく打てなかった。もっと早く言ってほしかったとは言えない。
「別に暴力とかはなかったよ、だから男の人が怖いとかそういうのは全然なくて」
珍しいことではないし、自分と重ねても特別不幸というわけじゃない。でもそこにある複雑な感情を推し量るのは簡単じゃない。
「いきなりごめんね。なんかさ、ナオと暮らしてて、こういうのんびり話す時間があると、あの時もっと話せてたらなぁとか考えちゃうんだ」
家族で話す時間。それを今の生活で感じてくれているのは嬉しい。
「年末は…、お母さんのところに行かないの?」
そんな話もしていなかった。実家があるなら帰省するのが当たり前だ。
「でも、そうしたらナオが」
カナデが私の顔をまっすぐに見て、寂しそうな顔をする。
「ナオがひとりになっちゃうじゃん」
なんだそんなこと、
「今までも一人暮らしだったんだから、別に大丈夫…」
「じゃあ一緒に行こう? 私の実家、ナオも一緒に行こうよ。私のルームメイト、お母さんに紹介したいし」
急な展開に驚いていた。そんな風に言われたら、断る理由がないじゃないか。