「なんか、最近さよならって言ってない気がする」
「何を急に」
「ねえ、さよならってどういう時に使う?」
「え、どっかで人と会って、帰るときとか、あとはお店から出るときとか?」
「なんかよそよそしくない?」
「ん?」
「なんかフレンドリーじゃないっていうか、普段そんな言わないよな」
「んー、言われてみれば」
「ビジネス、会社だったらさ、『失礼します…』じゃない?」
「あー確かに、会社でも得意先と商談したときでも『失礼します』って言うな。ホスト側は『ありがとうございました』だな」
「なんなら次の予定があったら『また!』とか『また今度』とかの方が気持ちいい」
「ああ次を想定してる感じはいいね」
「子どもの頃は毎日『さようなら』って言わされてたよな」
「帰りのホームルームな、あったな」
「みんなでいっせいに『さよーならっ!』て、あれ誰に向かって言ってたんだよな」
「儀式すぎたな」
「形骸化してるよな」
「あーでも。一個だけ気づいちゃった」
「なに?」
「完全に『さよなら』使ってるところあったわ」
「うそ〜、やめてよー、どこどこ?」
「サヨナラホームラン」
「わー! 言ってる! 毎回言ってる! あいつら子どものまんまだ。何も変わってない。野球小僧がそのまま大人になってるから。だからまだ『サヨナラホームラン』なんて言っちゃうんだ」
「大谷なんか野球少年のまんまだなんていつも言われてるもんね」
「それ変えよう。オレたちでそれ変えちゃおう」
「えー、サヨナラホームランを放ちました高橋選手です! 見事なサヨナラホームランでした!」
「あ、どうも。あのそのー、サヨナラじゃないんです」
「え? は?」
「サヨナラって約束なしのお別れなんで」
「急に山口百恵ですか?」
「せっかく来ていただいたお客さんにさよならするのは失礼なんで」
「では、なにホームランですか?」
「明日も来ていただきたいんで『また明日ホームラン』でお願いしまーす!」
「これでいいのかな」
「完璧でしょ」
「なあ、今週のプルス読んだか?」
切り出したのは、いつものように俺の部屋に上がり込んでロング缶を引っかけ始めたスグルだ。
「え? 一通り読んだけど、なんの話?」
無造作に床に置いてあった週刊少年プルスを手に取り、手渡すと、パラパラとめくり始めた。
「ここ、新人賞のページ、麦飯ねこ、佳作取ってる」
そんなアマチュア漫画家のペンネームを言われても知らないけど。そう思いつつ、スグルが次に何を言い出すのかを想像して心臓がキュッと締まる。
「これ、砂川ミネコだよ」
透明な水の入ったグラスに、真っ黒いインクが一滴落ちた。
「うそ」
反射的に出たその言葉に、意味なんてなかった。砂川ミネコ、専門学校の大教室、教壇から見て前から2列目、入り口側から見て一番奥、デカい丸メガネでじっと講師を見ていた目立たない女性。
「なんで、あいつが?」
揺れる。黒いインクは病巣が巣食うように無数の黒い枝を伸ばし、透明な水を染めていく。
専門にいたときは何ひとつ目立った結果を出してなかっただろ? 課題だって印象に残ってないし、評価だって高くなかった。なんで、俺より先にあいつが?
プルスのページをじっと見つめる。絵のタッチは好みじゃない。全然上手いとも思わない。こんなのが。俺より。選考員の講評が書かれている。
【絵は荒削りで、掲載レベルには達していませんが、テーマに強い意志を感じました。これが描きたいという熱意が伝わってくる力作でした。】
「なに? 嫉妬してんの?」
こいつ俺の反応見て嗤いに来たのか。嫉妬? そうか、嫉妬してるのか。
黒いインクはグラスの外側を覆うように拡がり、たった一滴で液体を満たした。
「そうみたいだな。ものすごく気分が悪い」
俺がそう言うと、スグルは本当に嗤い始めた。
「にゃはは、うん。それでいいんじゃない。俺も、すごくムカついてる」
なんだよそれ、だったらこんなとこで傷を舐め合ってる場合じゃないだろ。
深夜、スグルは酔っ払ってそのまま寝てしまったようだ。私はスグルの睡眠を気にするつもりもなく、いつものようにラジオを点けた。
『えー次は、ラジオネーム《オーボエの遠吠え》』
黒く濁った液体に、白いインクが大量に流れ込む。グラスの中は白く見える。
脳に浮遊感を覚えながら、俺は虚ろな眠りへと落ちていった。
「こいつはまだずいぶんかかりそうだな」
夢の中で、スグルの声が聞こえたような気がした。
カレンダーをめくると、部屋はたちまちクリスマスの装いになった。一年の終わりを感じずにはいられない。これからは、この壁を見ては来年までの距離を確かめる日々だ。どんな歩幅で歩いても、暦は残酷に過ぎて往ゆく。ならいっそ歩みを止めてしまおうか。
『コウタ、年末は実家戻ってくるの?』
スマホでメッセージを打ち込んでみて、すぐに消去する。送信してしまったら、足元の道がぬかるんでいくような気がした。連絡をして来ないのは、向こうが気を遣ってくれているからで、その思いを無下にするのも悪い気がする。
・・・そう思いたいだけなんじゃないのか。本当はもうコウタは俺のことなんて忘れてるんじゃないのか? 高校時代のノリで止まっているのは俺だけで、大学生になったら新しい友達とか彼女とかいて、もう地元の連れのことなんて眼中にないんじゃないのか?
気づいたら膝まで沼に浸かっていた。参考書の文字を目で追っているのにノートは一行も埋まっていない。最近はこんなことばっかりだ。
また一年。カレンダーを見上げる。3ヶ月先にゴールテープはあるのか。本当は15ヶ月先なんじゃないか。いや、いやもっと・・・。
そもそも俺はちゃんと歩いているんだろうか。沼に浸ったまま居心地良く微睡んでいるだけなんじゃないだろうか。
「ゆーきーとー!」
俺の名前だ。え? 呼んでる?
頭上に手が差し伸べられている。
「窓開けろよー!」
コウタの声だ。嘘だろ。俺は慌てて部屋の窓を開ける。
俺がその手をつかむと、ぐいと引っ張り上げられた。
「あ、いたいた! おーい、出てこいよー!」
コウタの顔を認めると、部屋を出て階段を駆け下り、スニーカーの踵を踏んづけて玄関を出た。つんのめって転びそうになる。
「っはは、なによろけてんだよ。お前一日中家にいるんだろ」
「うっせーな。いきなりどうしたんだよ」
悪態を吐きながらスニーカーを履き直す。心臓が弾んでいた。
「歩こうぜ、キャンパスライフの自慢話しにきた」
「うぜー。帰ろっかな」
俺はしっかりと地面を蹴って歩き始めた。
彼にとって最後の大会だった。高校生活の大半を費やしたバドミントン部の大会、結果は県大会の3回戦敗退。彼の目には大粒の涙が溢れた。支えてたなんておこがましい。私は彼のがんばっている姿を見て好きになっただけだ。でも彼は、試合に負けたすぐあとで、私に向かって「ありがとう」と言いながら泣き崩れた。
「泣かないで」なんて言えなかった。
次の休日、私たちは映画を見に行くことになった。彼の練習があるからデートなんて行ったことがなかった。彼もこれから受験勉強に本腰をいれるはず。もしかしたら、入試前、最初で最後のデートになるかもしれない。
映画は私が見たかった恋愛モノ。運命に翻弄されながら出逢いと別れを繰り返す男女のはかない恋物語だ。彼は興味ないだろうなと思いながらも、提案したら快く了承してくれた。「俺、この女優さん結構好きだし」という言葉にはムカついたけど。
上映時間が迫る。私たちはお決まりのポップコーンを真ん中に置いて、隣同士座席についた。ずっと部活で疲れてるだろうし、寝ちゃうかなとも思ったけど、彼は真剣に映画を見ていた。
クライマックスに向かい、映画は心揺さぶるシーンが続く。その中で彼は…。寝ててくれればまだよかった。
まさかこんなに、
周りが迷惑するぐらい号泣するとは…。
「あの、ねえ、ちょっと、私の隣で、大声で泣かないでもらえるかな…」
手袋を着けたらそろそろ、マフラーを着けたらいよいよ。冬のはじまりだ。
「へー、ナオってネックウォーマーするんだ、かわいい」
出がけに準備をしていたら、カナデが言ってきた。
「ちょっと前までマフラーしてたんだけどね。ネックウォーマーの方が首から上、ここの、耳まで隠せるのがいいんだよね」
寒い日は耳が一番冷えるというのが私の培った経験則だ。
「そーなんだ。私 髪の毛で耳隠れてるから思ったことないや。髪上げたら寒いのかな」
そっか、カナデは長い髪が耳を覆っている。それだけで体感が変わるんだ。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
カナデは今日も在宅ワークらしい。寒いときは極力外に出たくないんだとか。買い物も昼間に散歩ついでに行くと言っていた。
一歩家を出た瞬間から、乾いた空気を肌で感じた。空は透き通り、遠くにあるビルまでくっきり見える。そこかしこから、色を失った枯れ葉の匂いが運ばれてくる。
「さぶっ」
心持ち静かで寂れた世界が始まる。寒さは堪えるけど、この季節は嫌いじゃない。北欧デザインの装身具に身を包んでいると、心まで装った気分になる。街も装いを深めていく。