水が忙しく流れる音が聞こえる。川幅は50メートルほどだろうか。ゆったりと大きな弧を描いて曲がるあたりには堆積した岩石が磯を作っている。川床から張り出した岩に水がぶつかって大きな波音を立てていた。
川沿いのホテルに着いたのは昨日、日が暮れてからだった。出張で来ただけだから何もやることがなく、食事だけ済ませてすぐに寝てしまった。そしたら、朝早くに目覚めてしまった。せっかく通勤時間がないんだからゆっくり寝てしまえばいいものを、知らぬ土地見たさもあって起き出した。
珍しく長期滞在になる。周囲を知っておくのも悪くないだろう。
ホテルの窓から見えていた大きな川。川べりに散歩コースのような芝生の敷かれた区画が見えたから、そこに赴いてみることにした。
朝が川沿いの街を照らし始めた。
私は川を眺めながら、散歩道を歩いた。朝日のあたたかさと同時に受けるひんやりとした風が気持ちいい。少し歩いたところでベンチが見えた。長いベンチの片端に男の人が座っている。
端に杖を置いて、帽子を被った白髪の老人…いや、紳士だ。この出で立ちは紛れもなく紳士だ。私はちょっと休憩するつもりで紳士の隣に腰を下ろした。
「お隣、失礼します」
紳士は私を一瞥して、会釈を返した。
「こちらにはお仕事で?」
出し抜けに話しかけられて少し驚いた。
「ええ、出張で。なんでわかったんですか?」
「あ、当たりでしたか。なんででしょうね。ここで毎朝川の流れを見ていますから、この土地に流れてくる人のことは、雰囲気でわかってしまうのでしょうね」
「はあ。すごいですね」
ちょっと面白い人だ。もうちょっと話を聞いてみたいと思い始めた。
「川の音が聞こえますか?どんな音に聞こえます?」
「あ、思ってたよりいろんな音が聞こえました。えっと、ジャージャーとかザパザパとか、ですかね」
「いいですね。でも川とは、水が流れるだけの場所ではありません」
「え?それってどういう」
「もっと広く見て、広く音を聴いてください。川を形取るのに、鳥の存在は欠かせません」
私はベンチから立ち上がり、目と耳でぐるりを見た。いざ集中してみると川はいろいろな音が複雑に折り重なっていた。水流が岩を穿つ音、小さな滝がそこかしこで落ちる音、泡立つ音、飛び散る音。風が吹き抜ける音。水鳥が鳴き、羽を広げ、羽ばたく音。河川敷を人が走る靴音。息づかい、衣擦れ。遠くで列車が線路を軋ませている。
「ホントだ。すごい」
「川はいつもここにありますが、一度も同じ音を立てることはありません」
「そうなんですね。不思議な感覚です」
「まあ、それは生きることと同じですがね。あなたお時間は?」
「え、あ、いけないそろそろ」
最後の言葉に反応することもできず、時間が来てしまっていた。もう少し話したかったのに。
「しばらく近くのホテルにいるんですが、またお会いできますか?」
「ええ、きっとまた会いましょう。私は毎朝ここにいます」
いつ来てもここにいる。なんてこの川みたいだ。
「ですが次に会ったとき、あなたは私のことなど見向きもしないでしょう」
「そんなこと」
あるはずがない。こんなに楽しい人、そうお目にかかれない。
「私は毎朝ここにいますが、世界は毎朝違っています。案外子どもの方がそれをよく理解しています。いま楽しいことが明日も同じように再現できるわけではないことを直感としてわかっているのでしょう。だからいまオモチャを取り上げられることを嫌がるのです。いまと今度は違う世界のことだと、わかっているから」
妙に説得力がある。でもそれは子どもの認知能力の未熟さが原因であるはずだ。子どもの方が世界の理解度が高いなんて、それこそ飛躍している。
「それと同じことです。あなたが私に興味を持つような朝は、きっともう二度と訪れないでしょう」
この紳士は掴みどころがない。こんな人を無視することなんてできない。
「いいえ、きっとまた会いに来ます。あなたこそ、またここに来てくださいよ」
「ええ、必ず。私は毎朝ここにいますよ」
そう約束して私はベンチから腰を上げた。ホテルに戻って、急ぎ仕事の支度をしている間もワクワクが止まらなかった。誰かとの再会の約束が、こんなにも待ち遠しく思うものだなんて、初めて気づいた。すでに紳士の術中にハマっている気がする。
しかし翌朝、私は寝坊をした。いや、仕事のアポイントには間に合ったのだが、朝の散歩をするような余裕がなかった。やはり紳士はこれも予見していたというのか…。
気づけば1週間ほどが経っていた。忙しさにかまけて朝の散歩など頭から離れてしまった。
滞在日最後の朝になってしまった。私は前日の打ち上げも早々に切り上げて、万全の状態で朝を迎えた。そしてあの川べりの散歩道へと繰り出した。朝からランニングをする人たちがすれ違う。ゆっくり歩く人もいる。今日も川はいろんな音で溢れていた。
あのベンチに、紳士の姿はなかった。
「ウソでしょ。いるって言ったのに」
仕方なくひとりベンチに座り、だらっとしてみる。目を閉じると、また鳥の鳴き声が聴こえた。
何分経っただろうか、ふと目を開けてみる。相変わらず川とランナーが流れていく。
ん?え?あっ…
名前がわからない、でもあれは紳士だ。呼びかけようにも声が出ない。仕方なく大きく手を振ってみた。
向こうは気づいてくれたようだ。にやにやしながらこちらに向かって走ってくる。スポーツウェアに身を包んでいるが、短パンから見える細い足はしっかりと筋肉がついている。
「いやぁ、先ほどすれ違ったのに、見事に見向きもしなかったですね」
「え?すれ違ってたんですか?だって気づかないですよ。そんな格好」
「言ったでしょう。世界は毎朝違っているのですよ」
してやられた。深い意味があるような言い方してたのに。そんな単純な。
「あの杖は?この前、杖を持ってましたよね?」
「ああ、あのスタイルには杖が似合うでしょう?ちょっと紳士っぽく見えませんでしたか?」
やはり私は初めから紳士の術中にハマっていたようだ。
少年はじっとその草に目を凝らしている。細長く尖った葉を持つ雑草の前にしゃがみ込んで動かない。霧が出た朝の散歩道。少年は朝ごはんも食べずに駆け出して、この草地に舞い込んだ。
少年は不意に手を伸ばす。目線の先にはヨシの葉先に載ったまあるい水滴。朝露だ。ゆっくりと慎重に、手を出して、指先の震えを抑える。
その人差し指が、ついにヨシの葉を捉えた。
葉先を指でちょんと押すと小さな粒がするすると葉脈を流れて先端に集まってくる。水滴が指に触れる直前、ぱっと手を離す。しなった葉は反動で大きく跳ねて、大きな水の粒は ぱちんと弾けた。
大きな粒が弾けて小さな粒に分かれ、放射状に飛び散っていく。
この一瞬のスリル。この光景をその目で見るために、少年は霧の出た早朝を起き出してくるのだった。
子どもの頃から動物園が好きだった。図鑑で見た動物を探し、自分の目で見て、その動物の絵を描く。中学生になったら、デフォルメしてキャラクターみたく描けるようになった。
同級生に頼まれれば、そいつの顔と好みの動物をマッチさせた似顔絵を描くこともできた。それぞれの習性も頭に入っていたから、特徴をオリジナルの技名でカッコよく演出できたりもした。
三十歳も間近に迫った今も、僕はキリンの檻の前にいた。この園で一番大きいマサルの首から上を何度も目でなぞっていた。
マサル、お前の目から見える景色は、どんなだ?
高校2年の時、動物たちの絵をキャラクターにして、少年漫画の新人賞に応募したら、佳作を取った。作品は月刊の増刊号に掲載されて、担当編集を付けると言われた。
高校を卒業したら大学に行かずに漫画を描いた。担当は「君ならやれる」「たくさん描けばもっと上手くなる」と僕を励ました。でも佳作以降、一度も雑誌に掲載されることはなかった。
ぼーっとしながら歩いていたら、エミューの檻の前に来ていた。翼を持ちながら、飛べない鳥。
翼があるって言われながら、ずっと飛べないなら、初めから翼なんか持ってなければ良かったのかもな。
あーあ、そろそろ諦めるかー。
「とりなのにおそら、とべないの?」
向こうで見ていた親子連れの声が聞こえる。見ると子どもは手に風船を握っていた。
そうだよ。いくら絵が上手くても。
「エミューさん、かわいそうなの?」
そうだよ。かわいそうな漫画家だよ。
「とべなかったら、ふうせんをくっつけたら、とべゆんじゃない?」
風船ひとつ付けたぐらいで、飛べるわけ…
「ひとつじゃだめだったら、いっぱいくっつけたら、いいよ。いっぱいくっつけたら、ふわーってなるんだよ」
…子どもは無邪気だな。いっぱい風船くっつけて。ひとりじゃダメでも、誰かとなら、か。
担当編集に呼ばれ、打ち合わせのため出版社まで出向いた。さすがに自分でも覚悟はできていた。でもどうせなら最後まで足掻いてやろう。
小さな会議室に通され、少ししたら担当が入ってきた。担当はすでに申し訳なさそうな、引きつった笑いを浮かべている。心臓が高鳴りはじめる。ここまで来て逃げてはダメだ。
「わざわざ来てもらってすまないね。ありがとう。話っていうのは…」
先に言われたらここで終わってしまう。先手を取らないと。
「その前に、僕からひとつだけお願いがあります」
担当の曇っていた表情が驚きに変わる。
「…わかった。どうぞ」
いざ口を開けると、それは自分の口から、漫画家であることを辞める宣言なのだと気づいた。
「原作者を付けてほしいんです」
口にしてみると、不思議と悔しさはなかった。
「そ、それは、君の希望、と、捉えていいんだね?」
担当の声は戸惑いと少しの興奮を帯びていた。
「え、あ、はい。その、自分でストーリーを書くのは、限界かなと、思っていて、でもやっぱり絵は捨てたくない、と、いうか…」
「実は今日、私から伝えたかったのはそのことなんだ」
担当は早口でしゃべりはじめた。
「君の作画で漫画を描きたいっていう原作者がいてね。向こうの編集から企画を見せてもらったら、間違いなく君の絵がピッタリだったんだ!」
僕は驚きで声を出すことができず、エサを求める鯉のように口をパクパクさせた。
「作画を、やってくれるかい?」
僕は飛んできた風船をジャンプして握りしめた。
「はい、よろこんで」
「ススキって、こんなにキレイだったんですね」
私はカフェのマスターに向かってつぶやいた。
「ああ、秋にならないとわからないもんだよね」
タクシーで駅まで向かう途中、ススキの草原の横を通った。日が暮れかけて赤らんだ空に、輝くススキは黄金の絨毯のようだった。
「秋にならないと…ですか」
「特にこの夏は暑かったでしょう。背の高い緑色のススキは暑苦しいからね」
いまは白い穂先が枝垂れかかっているススキが直立して並んでいる姿を想像してみると、たしかに暑苦しい。そういえば前に来た時は前を通っても何も感じなかったな。
営業先に近いこの駅を利用するようになって、このカフェの存在を知った。木製の調度品とマスターの落ち着いた雰囲気が気に入り、商談の後にたびたび立ち寄るようになった。今日、店の前を通りかかったとき、店先にススキが飾られていた。
「お月見の季節だからね、うちではお団子出してないけど」
月見に団子。伝統的な日本の風景の中に、たしかにススキはある。
テーブルの上に小ぶりなバウムクーヘンが置かれた。え、頼んでない。
「ススキを見て入ってくれたお客さんにはサービスだよ」
「あ、ありがとうございます」
木の年輪になぞらえられるバウムクーヘンだが、今日はまんまるお月さんに見えた。フォークを入れると欠けていく。口に運ぶとバター風味の柔らかい味が広がる。
「今日の商談、あまり手応えがなくて」
粋なスイーツの甘い味わいに心が緩んでしまったのか、私はマスターにお悩み相談を始めてしまった。
「なんというか、相槌は打ってくれるんですが、聞いてるのか聞いてないのかわからなくて」
「お相手も忙しかったんじゃないかな」
マスターの声に顔を上げる。
「忙しい人にはコーヒーを飲んでもらうのも難しい。相手の様子を見ながら、引くときは引かないと」
「でも、せっかくアポイントを取って、こんな…」
言いかけて詰まる。こんなはダメだ。
「せっかくこんな田舎町まで出向いたのに、でしょ?」
そこまで思ってないが、…その通りだ。
「…すみません」
マスターはくすくす笑った。
「ここもね、若いうちは全然お客さん来なかったんだ」
マスターは目を落として、洗い終えたカップを拭き始めた。
「自分ではちゃんと研究して、いい豆も選んで出してたんだけど、なかなか信用してもらえなくてね」
私は黙って聞いていた。
「若造の出すコーヒーなんて、見向きもされないわけ」
そんなこと…。
「きっと気付かれないんだよ。夏のススキみたいにね」
それじゃあやってる意味がない。
「でもね、きっと見てる。必ず目の端には入ってるんだよ。そこに居続ければ」
「邪魔をしないように黙っている日もあっていい。それでも存在感を示し続けること。そうすればいつか、ススキみたいにたくさんの人に見てもらえると日が来るよ」
「そういうもんですかね」
なんだか言いくるめられている気がするが、マスターのコーヒーを飲んでいるとそんな気がしてくる。
「それに、相手にされなかったときは、この店に来ればいいじゃない。いつでも相手になるよ」
見事に言いくるめられた。私は思わず笑ってしまった。
「マスター、それ都合良すぎ」
そうしよう。ダメだったときはここに来よう。ススキのように項垂れながら。
「ミオリは絵が下手ね」「また何か描いてるの?」「そんな意味のないことしてないで、将来のためにお勉強しなさい」
それはある種の呪いになって、私の脳裏に刻まれた。
今思えば母に絵画の何がわかっていたというのか。子どもの頃の私にとって母の言うことはすべてが真実であり、母の否定するものは偽りだった。
描くことが好きという自覚がない時期に、描くことを否定された私の人生は、美しく描かれたものから逃げ回る日々だった。絵を見るたびに私は、なぜか罪悪感のようなものを感じた。見るたびに心の中で拒絶しては、好きなものを汚しているような気持ちになっていた。
私は母の言う通り勉強をした。それは苦しいことではなかった。高校での成績はトップクラスで、有名な大学でいくつもA判定が出ていた。
「あらミオリすごいじゃない。このまま行けば立派な会社に勤められるわ」
この頃には気が付いていた。勉強をしなさいと言われて勉強をする子は、いくら優秀でも、いくら立派な会社に入っても、立派な仕事はできない。やりたいことがないのだから。
デザインは、イラストは、世の中に溢れていて、私に見てくれと迫ってくる。私はそれらを、必死に目をつぶって避け続けた。たぶんそれは嫉妬からだったんだろう。意味のないことに、人生に必要のないことに、こんなにも多くの人たちが、たくさんの才能を発揮している。
その日、私は母と二人でデパートに行った。父の誕生日のプレゼントを買うためだった。用事を済ませて歩いていると、催事場で若手芸術家の展覧会が開かれているという案内を見つけた。無料ということもあり「ちょっとのぞいてみましょうよ」と母が言い出した。
私はその言葉に、少しの緊張を覚えた。
「素敵な絵ね。とっても繊細に描かれている」
母はこの展覧会で一番大きな絵を眺めていた。母が絵画に興味を持つことに私は驚いたが、とても陳腐な感想を口にしていてホッとした。
この絵はまず大きなキャンバスを大胆に使ったスケール感の大きさに魅せられる。鮮やかな原色を広く配置し、その中で戯化された人物たちが表情と姿勢で意思を交わし合って、見る人にメッセージを届けている。もちろん私個人の感想だ。
…私は絵を避ける日々を送っていながらこんなことがわかるのか。
「でもきっと、この絵を描けても食べていけないんでしょうね」
私は大きく目を見開いて母を見た。その表情をしっかりと見て、その真意を確かめたいと思った。私は脳の裏側が溶けていくのを感じた。こんな人に私は、こんな人に人生を…。
デパートの中のカフェで二人座ってコーヒーを頼んだ。私は母の目を見て切り出す。
「大学に行ったら一人暮らしをする。東京の大学に行って、立派な会社に入るよ」
母は一言「そう」とつぶやいて笑顔を作ったが、それからひどく悲しそうな顔をした。
勉強をしなさいと言って勉強をさせる親は、子どもに立派な大人になれと言う。でも本当は、立派な大人になんてなってほしくはない。ずっと自分に忠実な子であってほしいと願っている。
私は大学を卒業し、立派な出版社に勤め始めた。絵画や美術の専門誌を出版し、展覧会の協賛などもしている。一般誌に美術展レポートやアーティスト紹介のコラムも出稿している。
やるべきことが定まった。私は芸術で食っていく。意味のないことに生きる人たちを食わせていくために。
——母に復讐するために。
——母に恩返しをするために。
——母の呪いを解くために。