「行かないで!」
「そんなわけにはいかないよ」
「お願いだから、行かないで!」
「これは権利なんだ、権利を使って何が悪い」
「だめよ、脅されてるようなものじゃない!」
「っ!…そんな、そんなことは!」
「もうあなたの権利は、黒く汚されてしまったの」
机には紙袋に入った札束が置かれている。
「じゃあ私に、私にどうしろって言うんだ!」
「…行くのよ、これを持って」
「!?」
「あなたは悪くないあなたは罰せられることはないわ」
「…っ、…くっ、あーーー!」
男は持っていた封筒を机に叩きつけ、札束の入った袋を持って家を出た。
封筒には投票用紙在中と書かれていた。
———
速報です。昨日行われた選挙において、〇〇党公認の伊達井植夫候補が有権者に金銭を渡したとして、公職選挙法違反の罪に…
クリーンな選挙を!18歳から選挙に行こう!
つまんないなぁ。
今日の空は空っぽだ。雲がひとつも出ていない。どこまでもどこまでもずーっと青い空が続いているばかりだ。
それは何も入っていないおもちゃ箱と同じだ。遊ぶものが何もない。退屈な時間。…僕のお家、おもちゃ箱なんてなかったっけ。
僕はいつもこの丘の上からこの空をながめて、いつもと同じ街並みの上に広がる、ひとつとして同じものがない雲の形を楽しむのが好きだった。
雲の形でソフトクリームとかマシュマロを想像する?そんな子どもっぽい遊びじゃない。
すべてが美しく機能的にデザインされた自然界の中に無限に複雑で規則性のない造形が表出される、その混沌にこそ心を奪われたんだ。
彼らは気まぐれに僕らの希望の象徴である太陽をも隠す。そして幾重にも折り重なって僕らを威圧し、深く深く世界を黒く塗り替えたと思えば、ついには稲妻を呼び起こす!カオス!これぞ地球のダイナミズムだ!
はあ、雲がないと空想もはかどらない。
何気なくポケットに手を突っ込むと紙の感触があった。そうだ。取り出すと美術展のチケットだった。新聞社の人がくれたとかなんか言ってたな。今日はこれを見てきなさいと言われたんだった。
印象派?なんか良さげじゃないか。雲もないし、行ってみるか。
そこで見たものは、言葉では言えないぐらいすごかった。見たこともない雲たちが、あっちにもこっちにもたくさんあった。コロー、クールベ、ブーダン、ピサロ…!いまは名前だけしか覚えてないけど、ぜったい画集を買ってもらおう。それで、それで…
それで僕は、次の日から絵を描くことにした。あの丘の上から、いつもの空を見て。
朝のちょっとした散歩のつもりが、長い外出になってしまった。ランチを終えてカナデと外に出ると、食事をして熱を帯びたのもあるのか少し暑さを感じる。
道ゆく人たちの中に中学生の制服があった。もう冬服を着ている。部活帰り?それとも最近は土曜授業をやっているのか?さすがに暑そうだ。
「このまま歩いたら長袖だと汗ばむかな」
独り言のように呟くとカーディガンを脱いで半袖になったカナデが見えた。
「秋は外であったかく、中で涼しくが基本だよ?着脱が簡単なアイテムがオススメ!」
こっちは内側を暖かくしている。ファッション雑誌もチェックしているカナデには敵わない。衣替えマスターか。
「そうだ、せっかく街に出てきたんだから、冬物選ぶの手伝ってよ」
オシャレマスターがいると失敗がなさそうだ。
「え?服買うの?手伝う手伝う!ナオの絶品秋冬コーデ選んじゃう!」
「グルメみたいに言うなよ。“絶品”はファッションに使わんだろ」
カナデはオシャレの話になるとキャッキャし始める。
30代ともなればファストファッションは卒業して話題のセレクトショップでとっておきの服を選ぶのだろうと思っていたが、私はそんな気はさらさらない。安くていい、みんなと同じでいい。でも今日は隣にカナデがいる。
駅近の商業施設に入っているファッションフロアに連れてこられた。割と有名なブランドの直営店がぐるりを囲っているフロアだ。
「ナオには絶対トレンチコートが似合うと思ってたの。ほらここら辺、あ、これ着てみて!」
私が言い出したこととはいえ、ものすごい勢いで選びはじめてすでに手には三着のコートを持っている。アパレルでバイトした経験あるの?
「あんまり派手な色は…」
「いや、ちがっ、オレンジ系でも、中を抑えめの色にしたらシックに見えるって。じゃあインナーはこれ!はい着る!」
さすがに派手だろうと思いながらも試着室に入って仕方なく着てみる。ほらやっぱり…、お…?え…?い、いいかも。鏡を見るとなんだか大人っぽい自分がいた。
これで出て行ったら、カナデも喜ぶかな。いざ試着室のカーテンを開ける…。ちょっと決めたポーズを取ってみたりなんかして…。
「あ、やっぱダメ!」
いきなり肩を透かされてキョトンとする。
「なんで?」
「アタシのコーデと色、被ってるわ」
「ねえねえ!さっき何があったの?」
部屋に入ってすぐにマキエから詰問された。
待ち合わせしたカフェでマキエが後から到着したとき、私は男性の店員さんと直立して向かい合っていた。マキエは変な気を遣ってしばらく話しかけてこなかったが、あまりにフリーズしたままなので見かねて声をかけてくれた。
「やーあのときは助かった。ありがとう」
あのカフェにいる間、店員さんに気まずくて言えなかった感謝をようやく伝えられた。マキエは話の流れでまたカラオケルームに連れてきてくれたのだ。
「実はあのとき、流れてたBGMがたまたま知ってる曲で、思わず立ち上がって店員さんに話しかけちゃったの、なんでこの曲流れてるんですか?って」
細かい部分は端折って要点だけ伝える。でも説明足りてないか。
「やば、普通聞く?さすがに有線じゃないの?ていうかあのヘビメタ?」
「違くて、あのヘビメタの前に掛かってた曲があって、『ディ・ファントム』っていうグループの曲なんだけど知ってる人少ないと思ってたから」
話したらあの店員さんが選曲したらしい。
「マジ?それで運命感じてフリーズしちゃったの?」
それだったらまだいい。
「それでしばらく『ディ・ファントム』の曲の話が続いたの。話ができて嬉しいなーって思ったのは事実。そこはこの際否定しないよ」
そういえばマキエとこういう話はあまりしたことがない。私には男っ気が全くないし、マキエは早くに結婚している。こいつニヤニヤして。
「で、話してたらあのヘビメタ。さすがに趣味合わなさすぎて何もしゃべれなくなっちゃった〜!」
マキエがどひゃーと体をのけ反らせてゲラゲラ笑う。もう!
「悪いことしたなぁ、失礼だよね。恥かかせちゃったかも」
マキエとカフェにいる間、目を合わせられなかった。
「まあ個人の趣味だもんね。でもあのカフェにヘビメタBGMもどうかと思うよ」
マキエはまだ笑いをこらえている。
「せっかくカラオケ来たんだから、そのぉ『ディ・ファントム』? 歌えばいいじゃん」
「前に来たとき探したけどなかったんだよ」
マイナー歌手のファンはカラオケでもマイノリティだ。
「でもこの部屋、たしかJ-Studioが入ってるはず。ほらやっぱり」
「ジェイスタジオ?」
ここのカラオケそんな名前だったっけ?それとも知らないグループの名前か?
「カラオケの機種!J-Studioはマイナーな曲も結構入ってるからね。アニメの主題歌ならあるかも、ほら、探して!」
ウソ?カラオケって機種の違いでそんなのあるの?知らなかった。マキエに言われるままに探してみる。
「あった!」
信じられない。気がついたらもう予約を入れていた。
「あ、やばっ」
「やったね!ほら、立って!」
しまった。歌う準備できてない。今日もマキエが歌うのに合わせて身体を動かすだけのつもりだったのに。うまく乗せられていた。
「歌い始めれば楽しいから!」
イントロが流れ出す。やっぱイイ曲〜!ええいままよ!
…歌い出すが30年以上全く使っていない喉はか細い声しか出てこない。音程もぐちゃぐちゃだし、恥ずかしい。「ディ・ファントム」に申し訳ない。
「ヘイ!ヘイ!」
構わずマキエは盛り上げてくれる。手で拍子を取りながら踊ってくれている。
「大丈夫!最後まで歌おう!」
そうだ、せっかく入れたんだから、最後までがんばろう。「ディ・ファントム」のためにも。
「だいぶ声出るようになったんじゃない?」
ウソつけ。もう声出てないよ。気がつけばマキエと交代で何度も歌っていた。私だけ同じ曲を。それこそ声が枯れるまで。
「これからは一緒に歌えるね。もっと歌いたい曲、見つけてきなよ。それが次までの宿題」
乗せられているようで悔しいけど、結果として前より人生を楽しんでいる自分がいる。ありがとう。
「ほらあのヘビメタとかいいんじゃん?」
こらえ切れずに笑い出す。こいつマジで…!
はじまりはいつも部屋の掃除だった。毎週やっている掃除とは別に月に一回、今日はここと決めて、普段やらない場所の埃を払う。
キッチン上の収納、食器棚、小物入れ、テレビ台の裏などなど。いつの間にか埃が溜まっているところ、いつの間にかモノが増えているところ、捨てられないところ。これを毎月場所を区切ってやっておけば、大掃除をがんばらないで済む。そう思っていてもできないことはままあるけれど。
今日は押し入れの一角。買って一回使ってもういいやってなったけど、捨てるのは忍びなくてしまったものが詰まっている。とりあえずで闇に沈めた逸品がいくつもある。
ここを開けるが最後、一日が終わる。その覚悟を持っていなければ、押し入れの掃除はできない。
奥行きにして一畳ほどしかない空間が深淵にも感じる。フリードリヒ・ニーチェの言葉が脳裏に過ぎる。『深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
ゆっくりと最初の箱を取り出す。それはダンボールではなく、蓋のないカゴだった。もちろんよく覚えている。とりあえずのときにすぐ入れちゃうあのカゴだ。
まずは取り出した跡の床を拭く。案の定、雑巾は埃にまみれた。早速カゴの中をあらためる。
すぐ手に取ったのは100均で買った光るコースターだ。グラスを置くとライトが当たってプリズム効果でショーアップされる代物。最初は楽しんで使っていたが、電池が切れたときに、これは金がかかると思って食卓を追われた。だが捨てるのも悔しいとここにしまったのだ。記憶に新しい。これは捨てない。とりあえず埃は拭いておこう。
次のこれはなんだ?ビニールのちっちゃい袋に入っている。フィクサーコーヒーのペットボトルに付いていたオマケのボトルキャップ! 映画『グレンジャーズ』シリーズとのタイアップで付いていたやつだ。映画を知らないからぜんぜんいらなかったけど、捨てるのもと思って以下同文だ。んー、未開封ってところが自分にとっての不要さを強調している。捨てよう。最近の人はフリマアプリで売るのか?
そしてこれは、紙袋。カゴの中に紙袋。老舗デパートハカマダ堂の紙袋。捨てられない。たぶん使わないけど何かに使える紙袋。フリマアプリならたぶん売れる紙袋。いちおう埃は払っておく。
すでに気づいているけどコレ、収拾つかない。
どこまでやってもオチがつかない。
ひとまずそっと奥の方にしまっておいても、埃だけはつくのにね。