私から言い出した朝の散歩だったけど、二人してずいぶん長いこと歩いていた。なんの予定もない休日に、何も決めずに外出する、自由でしょ。
「ノープランの逃避行…かな」
少し早めのお昼は駅の近くのパスタ屋さんに入った。座って話し始めたら、ナオが言ってきた。
「逃避行って何から逃げてるの?悪いことしてないよ」
私は反論する。
「休日だし、逃げると言ったら現実逃避でしょ」
別に逃げたい現実なんてないけどな。仕事だって楽しいし、お休みの時間もナオと一緒ならなんでもできるって思う。
「ナオは、仕事とかから逃げたいって思う?」
“とか”のニュアンスに保険を張ってしまった。
「あー、お客さんと上手くいかなかったりするとね。営業やってると、人を見て言葉遣いが変わる人とか、よく出会うし」
「あー、それわかるかも。あたしは見た目 振り切ってるから、どう見られてもしょうがないっていうか、この見た目が強みにもなるデザインの仕事やれてるけど、普通にこのカッコしてたら接客業ムリって思うもん」
誰に言われても自分のスタイルは変えたくない。そこが理解されない職場は確かにつらいかな。
「うん、カナデほど極端ではないけど、身長とか、性別とか、髪の色とか、そういうのでナメてくる大人はいるんだよね」
「そんなの自分じゃどうしようもないじゃん」
「そう、でもね、そういう偏見って必ず自分にもあるの」
そんなことない、って思いたい。
「例えば、街ですれ違った人が、『あっ、この人キレイ』とか『いい男だなぁ』とか思うのも、ベクトルは違うけど偏見なんだよ」
うー、そう言われると…。
「でもそういう美意識ってカナデのデザインの中には必ず表れてくるわけ。だから、それは必要なんだよ」
そう、なの、か。でもそれじゃ、
「でもそれじゃ、ナオはそのつらさから解放されないじゃん」
そう言ったタイミングで二人が頼んだパスタが運ばれてきた。
「そ。だからそういうときは…」
ナオはジェノベーゼをフォークに絡める。
「おいしいパスタを食べるのです」
太陽の強烈な日差しから隠れるように過ごしていた時期が嘘のように、朝の空気はひんやりとして心地よかった。朝食のバターブレッドとともに休日を噛みしめる。
「お散歩行かない?」
珍しくカナデから提案があった。散歩か、いいじゃないか。私は二つ返事で了承した。
「気持ちいいな、久しぶりの感覚だよ」
「でしょ〜、ふふ。歩くのって頭の整理にちょうどいいんだよ」
通勤のために歩くときは、仕事に行くつもりで気怠さばかりが頭を占めている。目的なくただ歩くことなんか久しくしていなかった気がする。
「休みの日にちょっと出かけるのって散歩だったの?」
「あ、そうだよ。買い物じゃないときはお散歩。平日もひとりの時はたまに行くよ」
カナデは在宅ワークを存分に楽しんでいる。クリエイターにとってアイデアを考える時間は勤務に当たるのか。拡大解釈のような気もするが、会社が許しているならOKなのだろう。
休日の午前中、町は静かだ。そう思っていたけれど、ランニングをしている人や犬の散歩をする人など、すれ違う人は多いと気づいた。いつもと違う行動をすると、町は違う顔を見せてくる。営業で知らない町に行ったときのように。
しばらく歩いていると、隣を歩くカナデが話しかけてこないことに気づいた。あちこちに顔を向けながら、自分の中で思索を巡らせているのだろうか。一緒に歩いているのにまったく別のことを考えている。そのことが、どこかおかしく、どこか心地よい。
なんとなく、歩くことの意味に気づいてゆく。メディアに触れることなく、自分の目で耳で身体で触れたものだけを感じる時間。歩く速さで、自分という器のペースで思考することは、自分の内側に入っているものだけを取り出せるということだ。等身大の思考とでも言おうか。
きっとこのままカナデに話しかければ、二人の等身大が混ざり合う。二人だけの思考が生まれる。
少し前を歩くカナデについて行ったら、公園にたどり着いていた。
もし、いまカナデが考えていることが、自分にわかったとしたら、それはとても尊く、奇跡のような結び付きになるかもしれない。
「ねえ、カナデ」
「ん、なあに?」
「いま何考えてた?」
「え?恥ずかしいから言わない」
「当てようか?」
「えー?じゃあせーので言う?」
「いいよ」
二人は立ち止まって声を合わせた。
「せーの」
「お昼なに食べよう」
「お昼どこに行こう」
大人二人が公園の隅でゲラゲラ笑う。コイツとなら上手くやれそうだ。
昼から降り始めた雨が、涼しい風を運んできた。うっすら開けた窓から、湿った雨の匂いとともにキンモクセイの香りが鼻を差した。
ああ、この匂いだ。雨に混じるキンモクセイの香りは、思い出したくもないあの記憶と結びついている。毎年この時期になると嫌でも思い出してしまうのだ。
こんなことなら、あんな日にデートなんかしなきゃよかった。
———
あの日も雨が降っていた。彼との待ち合わせは、駅前のフラワーモニュメントの前だった。休日の朝、待ち合わせらしき人たちは他にも何人もいて、それぞれ傘を差しながら携帯をいじっていた。
少し待っていると、私は彼がいつも着ているブルーのジャケットを認めて大きく手を振った。なかなか気づいてもらえないから、名前を呼びながら近寄っていくと、全然知らない人だった。
一瞬目が合った気がしたけど、私は手を振りながらそのまま素通りした。思い出したくもない。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
彼はその10分後にやってきた。デートスポットまでの道を歩きながら、彼は新しく買ったイエローのシャツを自慢してくれた。私は「だから今日、雰囲気違うんだね」とだけ言っておいた。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
一緒に入ったオシャレなカフェでのまったりとした時間。なかなか予約の取れない人気店で、オリジナルのパンケーキが人気だった。彼の話を聞きながら、ぼーっと抹茶ラテの入ったプラスチックカップをストローでクルクルさせていたら、勢いがついて彼の方にカップを倒してしまった。なみなみ入った抹茶ラテは彼のイエローのシャツをまっちゃに染めた。
「ホントにおっちょこちょいだな」
と彼は笑ってくれたけど、私は本当に申し訳ないと思いながらも、内心ではいいから早くそのシャツ脱いでくれよ、と叫んでいた。
そこでもキンモクセイは香りだけを運んできた。
あの人とは、程なくして別れた。二度と思い出したくない、顔から火が出るほど恥ずかしい記憶…。
———
メッセージが入る。
「もう家出た?仕事終わらなくて、5分ぐらい遅れます」
いつものことじゃない。私は笑いながら返事をする。
「了解!」
そのメッセージを合図に家を出た。雨とキンモクセイの混じった香りは、より一層強く、全身を包む。
でも、そんな嫌な思い出も今日でサヨナラ。新しい楽しい思い出が、この匂いとともに刻まれるんだから。
玄関のレンガ階段を軽快に下りる。最後の一段を踏むやいなや、オシャレして履いたブーツがスコーン!
こんな日にデートなんかしなきゃよかった。
二軒目に連れて来られたお店は地下にあった。カウンターの後ろのお酒が並べられた棚が裏側から光っているような、そんな感じのバーだ。
店内は薄暗く、食事をおいしく食べるお店ではなさそうだ。私はこの店に連れて来られた人なら誰もが発する、月並みでありきたりなセリフを吐いた。
「なんか雰囲気のあるお店ですね」
連れてきた人はその凡庸な文句をたいそう気に入ったらしく、ニンマリとした笑みを浮かべた。
「マスター、2人。カウンターは?あ、空いてない。しょうがないな」
カウンターは2人並べる席が空いてないようで、男は渋々ボックス席に座った。こういうお店はカウンターに座ってこそなんだろうか。
間接照明のやわらかい光がいくつもゆらめいている。ぽつんと座ったテーブルで、私は落語の「死神」の場面を思い浮かべていた。
ろうそくがたくさん並んでいる場所って、このぐらいの明るさなのかな。
「ねえねえ、これから進めていく僕のプロジェクト、どのぐらいの規模だと思う?」
男は私の対面ではなく、上家側に座った。
「え、ちょっとわかんないです」
「50億だよ。50億!48億6,500万」
ほな50億とちゃうやんけ!…。はさすがに言いがかりか。
なんでそんな細かい端数まで覚えてんねん!そこらへん、為替でなんぼでも変動するやろ!…ぐらいかな。
「どう?ちょっとは僕に興味沸いた?」
んー48億6,500万はちょっとだけ良かったけど。ちょっと興味沸いたけど。いやそんなこと口に出すなよ!そもそもキモいねん。
「あ、ここのパテ、絶品だから!絶対食べて!」
ここではウイスキーをオススメしろよ!食いもん頼む店ちゃうやろ!お前がキープしてる極上のウイスキー飲まして来いよ!
「あ、この後ホテル予約してあるんだけど、どうかな?」
いやどのタイミングで行ける思たん?もともと予約しちゃってるから誘わなきゃ損だし、…で誘うなよ!
「ちなみにアパホテル」
絶っ対 いま そこじゃないよね!アパはないよね!事前にアパホテルって言われてて、やったーじゃあ行く〜、はないよね!ポイントいくら貯まってるんか知らんけど。
———
「っていうエピソードなんだけど。間接照明が好きな男ってどう思う?」
「んー、そんな肘とか膝とか光ってるやつ見たことないけどな」
「いや関節が照明のやつの話してないわ」
「あとお前がツッコミのときだけ関西弁になるのもキモいよ?」
「それは言わんといてー、もういいよ」
「おーい、まだ決まらないの?」
会社帰りに合流した僕たちは、駅前のスーパーで買い出しをしていた。お酒とつまみはだいたいカゴに詰めたが、まだ一人、悩んでいるやつがいた。
カズミはさつまチップスの棚に鋭い眼差しを向けている。
「ねえ、うすしお味とやきみそ味、どっちがいいかな?」
やきみそ?焼き味噌?!あまり聞かないが食べたくなる。臼花屋もチャレンジングな商品を出してくる。
「あ、明太マヨ味もあるよ、決められないな〜」
「と、とりあえず焼き味噌は入れといて」
カズミの意識がそれる前に確保しておこう。もう食べたくて仕方がない。こっちはしばらくかかりそうだから放っておいて、もう一人は…。
「あ、いたいた、会計まだ?ちょっと先に外出てていい?油売ってくるわ」
言いながらモッチは酢昆布をカゴに入れた。おつまみのチョイス小5の駄菓子屋か。なんだこいつら。その割には「油売ってくる」とか古風な言い回し使いやがって。ヤニ入れてくるだけだろ。
「今夜のお供はこれに決定!」
カズミはさつまチップスのやきみそ味と明太マヨ味をカゴに入れる。
「はい、もういいな、じゃあレジ行くぞ」
「ちょ、ちょ、ちょ!こっちだよ、ヨッちゃんも来て!」
え?まだあんの?
「最後はアイスでしょ!秋はマロンの季節デス!限定味をチェックなのデス!」
またこいつの鋭い眼差しに付き合わなきゃいけないのかよ。
「ちなみにモッチからはすでにオーダーいただいてマス!」
あいつ、そこまで見越して先に出たな。