営業成績は棒グラフによって高く高く積み上げられていく。私はこの棒グラフを虚しい気持ちで眺めていた。
同じ社員と競争しているように見せられて、毎月の結果に一喜一憂して、果たして給与明細の数字はここ5年間で何千円増えたというのか。棒状に積み上げられたものはダルマ落としの要領で崩すことができる。このオフィスが入っているビルもなかなか細長い棒である。どこかにいい槌はないだろうか。ウチの建設機械の技術ならそれくらい作れるんじゃないか。
ああいかんいかん。現実逃避破壊衝動終末思想がすぎる。私が疲れている訳ではない。この国のサラリーマンは一様に朝から疲れすぎている。よし、すべての疲労を国に転嫁できたところで気分がリセットした。
ゲームを途中でやめて最初からやり直すというこの比喩を肯定的に使うようになったのはいつの頃からか。どんな事象も否定から肯定に多数派が切り替わる瞬間はあるもので、市民権を得るまでにどんな苦労があってもやり続けることに意義はあるものだ。かつては不良のカルチャーと呼ばれた文化のどれだけが、今の日本でメインカルチャーになっているだろうか。
英文の日本語訳のように思考を続けるのはやめよう。水平思考をいくら続けても、営業成績が垂直方向に高く積み上がることはない。
「それではみなさん、今日も一日、元気にがんばりましょう!よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
朝礼を全く聞いていなかった。聞いても聞かなくても同じ朝礼なら毎朝全員の時間を拘束してやる意味があるのか。しかも始業時間前だぞ。この無為な朝礼こそが朝から疲れている原因の一つに違いない。
「タケヤマ、ちょっといいか」
部長から話しかけられてビクリとなる。
「はい。なんでしょう」
小さな会議室に促された。
「タケヤマ、いつも良くやってくれてありがとう。営業成績は毎月独走でトップだな」
あの縦軸の棒グラフを見て“独走”を連想するとは、部長はなかなか想像力が豊かなようだ。
「君に昇進の話がある。もちろん簡単な昇進試験もあるんだが、君なら心配ないだろう」
そうだ。営業成績を積み上げた先には昇進がある。さらなる高みへという訳だ。さすがに会社命令に逆らったら処分されるだろうし、昇進試験なんか目をつぶっていてもできるようなものをわざと落ちるのもすぐにバレそうだ。いっそ上にあがってこのくだらない会社の文化をぶち壊してやろうか。
そうか、その手があったか。すべての文化ははじめは否定される。私が変えればいいのか。やってやる、私はやってやるぞ——
「それではこれより、新たにCEOに就任されましたタケヤマ様より、ご挨拶を賜ります」
「みなさま、お集まりいただきありがとうございます。堅苦しい挨拶は抜きにして、こちらをご覧ください」
会場の大型スクリーンに巨大な機械が映し出される。キャタピラの上にドデカい鉄槌が水平に取り付けられている。会場から嘆声とざわめきが起きる。
「こちらが我が社の技術の粋を結集して作った次世代建機『超高速回転鉄槌〜ダルマ川落としPG〜」くんです」
ざわめきが激しくなる。
「この機械は高速に回転することで最大限のパワーとスピードを手に入れて、ビルの1階部分を安全にぶち抜くことが可能になりました。これにより、建ててしまったビルのレイアウトが気に入らなかった場合、2階を1階にすることができます。すべての階をぶち抜けば、カセット形式で自由に上下を入れ替えることも可能です!」
映像の中のダルマ川落としPGが高速で回転し始める。
「早速、我が社の新社屋から、1階をぶち抜いていきましょう!あはははは!」
ダルマ川落としPGは、社屋に向かってまっしぐらに進んで行った——
三件の営業を終えた頃には、もう空が赤くなっていた。それでも会社の終業時間までだいぶある。忙しなく移動した一日だったが、速やかに片付けば社内にいるより早く帰れるというのが営業のメリットだ。直帰という概念を作った先人に感謝したい。
念のため会社に連絡をして許可を取る。ただここは普段は来ない郊外の町。電車で戻る頃にはいい時間になっているか。
さっき軽食を摂った喫茶店の横を通ってその思い出に浸りつつ、帰路に着いた。
部屋に入ると同居人はすでに帰宅していた。私が営業で帰りの時間が読めなかったため、夕食当番は同居人がやることになっていた。
ただいま、と声を掛けると、キッチンから包丁を持ったまま駆け寄ってくる。
「おかえり〜!ねえ聞いて!聞いて!」
そのまま抱きついて来そうな勢いだったのを両手で制す。
「危ない!包丁!危ないから!」
相手は学校であったことを聞いてほしい子供のように無邪気に両腕をパタパタしている。
包丁、包丁。
とりあえずまな板の上に包丁を安置させて、話を聞く体制を整えた。キッチンの状況からして今夜はカツオのカルパッチョのようだ。割と手の込んだものを作りたがる。
「この前、コンペに出すデザインの話したじゃん、在宅のときに作ったやつ」
「あの失敗したって話してたやつか」
描き直しを食らったから夕飯を作れないって言われた日だ。よく覚えている。
「そう!それの結果が今日連絡来て。私のデザインが採用されたの!すごいでしょ!」
「そうか、やったね。おめでとう」
内情を知っているからか、自分のことのように嬉しい。
「しかもその案が、私が暴走して作って上司に怒られたヤツだったの!」
二人一緒になって笑う。
「上司がその案もちゃんと送ってくれてて。あの上司いいトコあんのよ」
「あれ、確かコルトレーンを聴きながら描いたデザインだろ?」
音楽を聴かなきゃ集中できないと、私のレコードを勝手に物色して引き当てたらしい。
「そうなの!しかも先方がね、『このデザインからはJAZZを感じる。このデザインにはマイルス・デイビスの血が流れている』って!」
二人は声を合わせた。
「惜しい〜!」
「じゃあ、明日の放課後、ここで待ち合わせね」
またあの日の夢を見た。最近よく見る夢だ。いや、このフレーズだけを思い出している。これは現実にあったことなのか。それさえもわからなくなっていた。
あの日の明日。何をしたんだっけ。その友達とは今も友達なんだっけ。
こんな記憶のために、子供の頃に住んでいた土地を訪れるのは、おかしいことだろうか。それでもここに来てしまったのは、私が今確かめなければいけないと思ったからなんだろう。
夢で聞く声からして、おそらく中学生。であれば行くべきは中学校。私は通っていた中学校から家までの道のりを歩くことにした。
毎日歩いていた景色なのに、すべての建物の背が少しずつ低いように感じられる。自分の目線の高さが上がっているのだ。少しの目線でこんなにも世界が変わるのか。身長が2メートルの人とは、生きている世界が違うんだろうな。
昔の生家にたどり着く直前、四つ角のところで記憶が舞い戻る。ここだ。あの日待ち合わせをしたのはこの交差点だ。
相手は友達の女の子。思い出してみれば、なんで今まで忘れていたんだろうという気持ちになる。そう、私は毎日のようにここであの子と待ち合わせをしていた。
たった一度の強い思い出ではなくて。習慣的な当たり前の約束だった。
じゃあ、あの夢は、私に何を知らせていたんだろう。人の記憶が脆弱で、大切なことを簡単に忘れるということ?日々の忙しさに追いかけられると、過去が消えてしまうということ?
あの子と毎日遊んでいたのは、中学2年生ぐらいのとき。行き先も決めず、とりあえず商店街まで歩いていって、本屋さんとかお菓子屋さんとか喫茶店とか。
ああそっか。「覚えてる」っていうことか。
私はこの記憶を覚えていた。思い出せるんだ。どんなに日々に押しつぶされそうになっても、覚えてるんだ。
なんでもないあの日々を、大切だったあの日々を。あの夢は、大丈夫だって知らせてたんだ。何も忘れてない。あなたの人生はあの日からずっと続いていると。
一人暮らしを始めるとき、なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンの買い方を。なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには、幅だけでなく、丈があるということを。
まぶしい。一週間の終わり、いつまでも寝ていたいのに、太陽が寝かせてくれない。
平日は日が出る前から起き出しているから、全然気にしないのに、週末に寝かせてくれない。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。目分量を信用してはいけないということを。窓の幅しか測ってなかったのに、なんで必要な丈を聞かれたときに、ちゃんと調べてきた振りをして適当に答えてしまったんだろう。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには窓の上の方で巻かれているロールカーテンがあるということを。あれなら丈を知らなくてもクルクルの長さだけで下まで届くのに。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。コロナ明けてもまだリモート会議があるということを。zoomをつなぐたびに青い水玉の寸足らずのカーテンが映り込んでしまうなんて。
買い直すのももったいない。布を継ぎ足すのも恥ずかしい。世の中って生きづらいなぁ。
そんなことを頭に巡らせながらまどろんでいたら、いつの間にか布団をかぶって二度寝していた。
あー眩しい。午前中はこの日差しとの戦いかー。会社に来るなり、ガラス張りのオフィスに悪態をつく。二日酔いにこの光度は堪える。なまじ管理職になってめっちゃ明るい壁際の席を用意されてしまった。
デザインの会社なんだからセンスのいいオフィスに入らなくちゃな!という社長の意向で数年前に移転したが、光の反射でPC画面が見えないだの、西陽で背中が焼かれるだのとクレームが相次ぎ、現役のデザイナーは直射日光の当たらない席に一斉避難している。管理職は逃げられなかった。
太陽を避けようと俯いて頭痛と格闘していると、目の前にデザイナーのカシマが立っていた。
「ナカガワさん、ちょっといいですか?」
「ああ、今日は早いな」
「まあ、最近ゆっくり来てたんで」
カシマは若手のデザイナーでフレックスタイムをフル活用して働く柔軟な性格だ。お昼ぐらいに出社することも多いが、月の労働時間はキッチリまとめてくる。
「あのー、転職サイトの案件なんですけど、メインビジュアルのことで聞きたいことがあって」
仕事に関しては真剣。クライアントの要望に応えることを最優先に考えている。
「このー『女性が目に涙を溜めている』ってところなんですけど、これ何の涙ですかね」
ん?ほう、はあ。
「いや、理由知りたいじゃないですか。打ち合わせのとき何か聞いてません?」
「いやー確かに。いや、聞いてないな、すまない」
そこわかんなきゃダメかな。うーんそうだよな、表情も変わってくるか。自分がデザインするんだもんな。
「そうっすか。ナカガワさん、なんだと思います?」
だよな。そりゃ聞かれるよな。打ち合わせに参加したの私だもんな。
「例えば、悔し涙じゃないかな。今の会社でつらいことがあって、転職して見返してやる!とか」
「でもクライアントは転職をプラスのものとしてアピールしたいんですよね。キャリアアップとか自己実現とか」
ホントに真面目だな。この感情を読み違えたらいいデザインが描けないと確信している。ついこの間も彼女の案について修正を依頼したら、意図を理解して的確に直したものを送ってきた。それだけじゃなく、自分でブラッシュアップした私の指摘とまったく違う変更案も同時に出てきたことがあった。自分のデザインを主張する気の強さも持っている。
「じゃあ、転職が上手くいかなくても諦めないっていう強い意志」
「それも考えました。負けないぞ!っていうのもありなんですけど、転職は簡単じゃないってわざわざ広告にメッセージとして入れるかなぁ」
言われてみれば。だんだん私も向き合わなきゃいけない気がしてきた。
「ナカガワさん、1番にお電話です。ディープランニング様からです」
「ああ、はい。すまん、電話だ。今の感じでラフ案をいくつか作っておいてくれるか?」
「はーい、わっかりましたー」
不承不承の様子で席に戻っていった。
「お電話代わりましたナカガワです。え?ホントですか、あ、ありがとうございます、本人にもすぐに伝えます!はい、ありがとうございます!」
吉報だった。ゆっくり受話器を置くと、私からカシマのデスクに走っていた。
「カシマ!この前のコンペ、君のデザインに決まったぞ!」
カシマは驚いた顔で立ち上がった。
「え?マジっすか。えっと、どの案でした?」
「君が勝手に描いてきたC案だ」
そういえば、あれを通したことを伝えてなかった。
「ナカガワさん、あれも通してくれてたんですか?うわ、嬉しい、やだ泣きそう」
言いながらカシマの頬に涙が伝っている。
「カシマ、それ、じゃないか?」
「え?なに?」
「その涙」
「やだ、泣いてないっす、あっ」
カシマの涙目が大きく見開かれる。そんな目でこっちを見るなよ。
「自分がやってきたことが報われた、やってきてよかった、そのときの涙なんじゃないか?転職広告の涙は」
「あは、そうだ、うわーすごいタイミングで実感しちゃったわ」
今度は泣き顔に照れた笑いが加わる。
「ナカガワさん、あたし、いいデザイン描けそうです」