「ねえねえ!さっき何があったの?」
部屋に入ってすぐにマキエから詰問された。
待ち合わせしたカフェでマキエが後から到着したとき、私は男性の店員さんと直立して向かい合っていた。マキエは変な気を遣ってしばらく話しかけてこなかったが、あまりにフリーズしたままなので見かねて声をかけてくれた。
「やーあのときは助かった。ありがとう」
あのカフェにいる間、店員さんに気まずくて言えなかった感謝をようやく伝えられた。マキエは話の流れでまたカラオケルームに連れてきてくれたのだ。
「実はあのとき、流れてたBGMがたまたま知ってる曲で、思わず立ち上がって店員さんに話しかけちゃったの、なんでこの曲流れてるんですか?って」
細かい部分は端折って要点だけ伝える。でも説明足りてないか。
「やば、普通聞く?さすがに有線じゃないの?ていうかあのヘビメタ?」
「違くて、あのヘビメタの前に掛かってた曲があって、『ディ・ファントム』っていうグループの曲なんだけど知ってる人少ないと思ってたから」
話したらあの店員さんが選曲したらしい。
「マジ?それで運命感じてフリーズしちゃったの?」
それだったらまだいい。
「それでしばらく『ディ・ファントム』の曲の話が続いたの。話ができて嬉しいなーって思ったのは事実。そこはこの際否定しないよ」
そういえばマキエとこういう話はあまりしたことがない。私には男っ気が全くないし、マキエは早くに結婚している。こいつニヤニヤして。
「で、話してたらあのヘビメタ。さすがに趣味合わなさすぎて何もしゃべれなくなっちゃった〜!」
マキエがどひゃーと体をのけ反らせてゲラゲラ笑う。もう!
「悪いことしたなぁ、失礼だよね。恥かかせちゃったかも」
マキエとカフェにいる間、目を合わせられなかった。
「まあ個人の趣味だもんね。でもあのカフェにヘビメタBGMもどうかと思うよ」
マキエはまだ笑いをこらえている。
「せっかくカラオケ来たんだから、そのぉ『ディ・ファントム』? 歌えばいいじゃん」
「前に来たとき探したけどなかったんだよ」
マイナー歌手のファンはカラオケでもマイノリティだ。
「でもこの部屋、たしかJ-Studioが入ってるはず。ほらやっぱり」
「ジェイスタジオ?」
ここのカラオケそんな名前だったっけ?それとも知らないグループの名前か?
「カラオケの機種!J-Studioはマイナーな曲も結構入ってるからね。アニメの主題歌ならあるかも、ほら、探して!」
ウソ?カラオケって機種の違いでそんなのあるの?知らなかった。マキエに言われるままに探してみる。
「あった!」
信じられない。気がついたらもう予約を入れていた。
「あ、やばっ」
「やったね!ほら、立って!」
しまった。歌う準備できてない。今日もマキエが歌うのに合わせて身体を動かすだけのつもりだったのに。うまく乗せられていた。
「歌い始めれば楽しいから!」
イントロが流れ出す。やっぱイイ曲〜!ええいままよ!
…歌い出すが30年以上全く使っていない喉はか細い声しか出てこない。音程もぐちゃぐちゃだし、恥ずかしい。「ディ・ファントム」に申し訳ない。
「ヘイ!ヘイ!」
構わずマキエは盛り上げてくれる。手で拍子を取りながら踊ってくれている。
「大丈夫!最後まで歌おう!」
そうだ、せっかく入れたんだから、最後までがんばろう。「ディ・ファントム」のためにも。
「だいぶ声出るようになったんじゃない?」
ウソつけ。もう声出てないよ。気がつけばマキエと交代で何度も歌っていた。私だけ同じ曲を。それこそ声が枯れるまで。
「これからは一緒に歌えるね。もっと歌いたい曲、見つけてきなよ。それが次までの宿題」
乗せられているようで悔しいけど、結果として前より人生を楽しんでいる自分がいる。ありがとう。
「ほらあのヘビメタとかいいんじゃん?」
こらえ切れずに笑い出す。こいつマジで…!
はじまりはいつも部屋の掃除だった。毎週やっている掃除とは別に月に一回、今日はここと決めて、普段やらない場所の埃を払う。
キッチン上の収納、食器棚、小物入れ、テレビ台の裏などなど。いつの間にか埃が溜まっているところ、いつの間にかモノが増えているところ、捨てられないところ。これを毎月場所を区切ってやっておけば、大掃除をがんばらないで済む。そう思っていてもできないことはままあるけれど。
今日は押し入れの一角。買って一回使ってもういいやってなったけど、捨てるのは忍びなくてしまったものが詰まっている。とりあえずで闇に沈めた逸品がいくつもある。
ここを開けるが最後、一日が終わる。その覚悟を持っていなければ、押し入れの掃除はできない。
奥行きにして一畳ほどしかない空間が深淵にも感じる。フリードリヒ・ニーチェの言葉が脳裏に過ぎる。『深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』
ゆっくりと最初の箱を取り出す。それはダンボールではなく、蓋のないカゴだった。もちろんよく覚えている。とりあえずのときにすぐ入れちゃうあのカゴだ。
まずは取り出した跡の床を拭く。案の定、雑巾は埃にまみれた。早速カゴの中をあらためる。
すぐ手に取ったのは100均で買った光るコースターだ。グラスを置くとライトが当たってプリズム効果でショーアップされる代物。最初は楽しんで使っていたが、電池が切れたときに、これは金がかかると思って食卓を追われた。だが捨てるのも悔しいとここにしまったのだ。記憶に新しい。これは捨てない。とりあえず埃は拭いておこう。
次のこれはなんだ?ビニールのちっちゃい袋に入っている。フィクサーコーヒーのペットボトルに付いていたオマケのボトルキャップ! 映画『グレンジャーズ』シリーズとのタイアップで付いていたやつだ。映画を知らないからぜんぜんいらなかったけど、捨てるのもと思って以下同文だ。んー、未開封ってところが自分にとっての不要さを強調している。捨てよう。最近の人はフリマアプリで売るのか?
そしてこれは、紙袋。カゴの中に紙袋。老舗デパートハカマダ堂の紙袋。捨てられない。たぶん使わないけど何かに使える紙袋。フリマアプリならたぶん売れる紙袋。いちおう埃は払っておく。
すでに気づいているけどコレ、収拾つかない。
どこまでやってもオチがつかない。
ひとまずそっと奥の方にしまっておいても、埃だけはつくのにね。
私から言い出した朝の散歩だったけど、二人してずいぶん長いこと歩いていた。なんの予定もない休日に、何も決めずに外出する、自由でしょ。
「ノープランの逃避行…かな」
少し早めのお昼は駅の近くのパスタ屋さんに入った。座って話し始めたら、ナオが言ってきた。
「逃避行って何から逃げてるの?悪いことしてないよ」
私は反論する。
「休日だし、逃げると言ったら現実逃避でしょ」
別に逃げたい現実なんてないけどな。仕事だって楽しいし、お休みの時間もナオと一緒ならなんでもできるって思う。
「ナオは、仕事とかから逃げたいって思う?」
“とか”のニュアンスに保険を張ってしまった。
「あー、お客さんと上手くいかなかったりするとね。営業やってると、人を見て言葉遣いが変わる人とか、よく出会うし」
「あー、それわかるかも。あたしは見た目 振り切ってるから、どう見られてもしょうがないっていうか、この見た目が強みにもなるデザインの仕事やれてるけど、普通にこのカッコしてたら接客業ムリって思うもん」
誰に言われても自分のスタイルは変えたくない。そこが理解されない職場は確かにつらいかな。
「うん、カナデほど極端ではないけど、身長とか、性別とか、髪の色とか、そういうのでナメてくる大人はいるんだよね」
「そんなの自分じゃどうしようもないじゃん」
「そう、でもね、そういう偏見って必ず自分にもあるの」
そんなことない、って思いたい。
「例えば、街ですれ違った人が、『あっ、この人キレイ』とか『いい男だなぁ』とか思うのも、ベクトルは違うけど偏見なんだよ」
うー、そう言われると…。
「でもそういう美意識ってカナデのデザインの中には必ず表れてくるわけ。だから、それは必要なんだよ」
そう、なの、か。でもそれじゃ、
「でもそれじゃ、ナオはそのつらさから解放されないじゃん」
そう言ったタイミングで二人が頼んだパスタが運ばれてきた。
「そ。だからそういうときは…」
ナオはジェノベーゼをフォークに絡める。
「おいしいパスタを食べるのです」
太陽の強烈な日差しから隠れるように過ごしていた時期が嘘のように、朝の空気はひんやりとして心地よかった。朝食のバターブレッドとともに休日を噛みしめる。
「お散歩行かない?」
珍しくカナデから提案があった。散歩か、いいじゃないか。私は二つ返事で了承した。
「気持ちいいな、久しぶりの感覚だよ」
「でしょ〜、ふふ。歩くのって頭の整理にちょうどいいんだよ」
通勤のために歩くときは、仕事に行くつもりで気怠さばかりが頭を占めている。目的なくただ歩くことなんか久しくしていなかった気がする。
「休みの日にちょっと出かけるのって散歩だったの?」
「あ、そうだよ。買い物じゃないときはお散歩。平日もひとりの時はたまに行くよ」
カナデは在宅ワークを存分に楽しんでいる。クリエイターにとってアイデアを考える時間は勤務に当たるのか。拡大解釈のような気もするが、会社が許しているならOKなのだろう。
休日の午前中、町は静かだ。そう思っていたけれど、ランニングをしている人や犬の散歩をする人など、すれ違う人は多いと気づいた。いつもと違う行動をすると、町は違う顔を見せてくる。営業で知らない町に行ったときのように。
しばらく歩いていると、隣を歩くカナデが話しかけてこないことに気づいた。あちこちに顔を向けながら、自分の中で思索を巡らせているのだろうか。一緒に歩いているのにまったく別のことを考えている。そのことが、どこかおかしく、どこか心地よい。
なんとなく、歩くことの意味に気づいてゆく。メディアに触れることなく、自分の目で耳で身体で触れたものだけを感じる時間。歩く速さで、自分という器のペースで思考することは、自分の内側に入っているものだけを取り出せるということだ。等身大の思考とでも言おうか。
きっとこのままカナデに話しかければ、二人の等身大が混ざり合う。二人だけの思考が生まれる。
少し前を歩くカナデについて行ったら、公園にたどり着いていた。
もし、いまカナデが考えていることが、自分にわかったとしたら、それはとても尊く、奇跡のような結び付きになるかもしれない。
「ねえ、カナデ」
「ん、なあに?」
「いま何考えてた?」
「え?恥ずかしいから言わない」
「当てようか?」
「えー?じゃあせーので言う?」
「いいよ」
二人は立ち止まって声を合わせた。
「せーの」
「お昼なに食べよう」
「お昼どこに行こう」
大人二人が公園の隅でゲラゲラ笑う。コイツとなら上手くやれそうだ。
昼から降り始めた雨が、涼しい風を運んできた。うっすら開けた窓から、湿った雨の匂いとともにキンモクセイの香りが鼻を差した。
ああ、この匂いだ。雨に混じるキンモクセイの香りは、思い出したくもないあの記憶と結びついている。毎年この時期になると嫌でも思い出してしまうのだ。
こんなことなら、あんな日にデートなんかしなきゃよかった。
———
あの日も雨が降っていた。彼との待ち合わせは、駅前のフラワーモニュメントの前だった。休日の朝、待ち合わせらしき人たちは他にも何人もいて、それぞれ傘を差しながら携帯をいじっていた。
少し待っていると、私は彼がいつも着ているブルーのジャケットを認めて大きく手を振った。なかなか気づいてもらえないから、名前を呼びながら近寄っていくと、全然知らない人だった。
一瞬目が合った気がしたけど、私は手を振りながらそのまま素通りした。思い出したくもない。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
彼はその10分後にやってきた。デートスポットまでの道を歩きながら、彼は新しく買ったイエローのシャツを自慢してくれた。私は「だから今日、雰囲気違うんだね」とだけ言っておいた。
キンモクセイは香りだけを運んできた。
一緒に入ったオシャレなカフェでのまったりとした時間。なかなか予約の取れない人気店で、オリジナルのパンケーキが人気だった。彼の話を聞きながら、ぼーっと抹茶ラテの入ったプラスチックカップをストローでクルクルさせていたら、勢いがついて彼の方にカップを倒してしまった。なみなみ入った抹茶ラテは彼のイエローのシャツをまっちゃに染めた。
「ホントにおっちょこちょいだな」
と彼は笑ってくれたけど、私は本当に申し訳ないと思いながらも、内心ではいいから早くそのシャツ脱いでくれよ、と叫んでいた。
そこでもキンモクセイは香りだけを運んできた。
あの人とは、程なくして別れた。二度と思い出したくない、顔から火が出るほど恥ずかしい記憶…。
———
メッセージが入る。
「もう家出た?仕事終わらなくて、5分ぐらい遅れます」
いつものことじゃない。私は笑いながら返事をする。
「了解!」
そのメッセージを合図に家を出た。雨とキンモクセイの混じった香りは、より一層強く、全身を包む。
でも、そんな嫌な思い出も今日でサヨナラ。新しい楽しい思い出が、この匂いとともに刻まれるんだから。
玄関のレンガ階段を軽快に下りる。最後の一段を踏むやいなや、オシャレして履いたブーツがスコーン!
こんな日にデートなんかしなきゃよかった。