二軒目に連れて来られたお店は地下にあった。カウンターの後ろのお酒が並べられた棚が裏側から光っているような、そんな感じのバーだ。
店内は薄暗く、食事をおいしく食べるお店ではなさそうだ。私はこの店に連れて来られた人なら誰もが発する、月並みでありきたりなセリフを吐いた。
「なんか雰囲気のあるお店ですね」
連れてきた人はその凡庸な文句をたいそう気に入ったらしく、ニンマリとした笑みを浮かべた。
「マスター、2人。カウンターは?あ、空いてない。しょうがないな」
カウンターは2人並べる席が空いてないようで、男は渋々ボックス席に座った。こういうお店はカウンターに座ってこそなんだろうか。
間接照明のやわらかい光がいくつもゆらめいている。ぽつんと座ったテーブルで、私は落語の「死神」の場面を思い浮かべていた。
ろうそくがたくさん並んでいる場所って、このぐらいの明るさなのかな。
「ねえねえ、これから進めていく僕のプロジェクト、どのぐらいの規模だと思う?」
男は私の対面ではなく、上家側に座った。
「え、ちょっとわかんないです」
「50億だよ。50億!48億6,500万」
ほな50億とちゃうやんけ!…。はさすがに言いがかりか。
なんでそんな細かい端数まで覚えてんねん!そこらへん、為替でなんぼでも変動するやろ!…ぐらいかな。
「どう?ちょっとは僕に興味沸いた?」
んー48億6,500万はちょっとだけ良かったけど。ちょっと興味沸いたけど。いやそんなこと口に出すなよ!そもそもキモいねん。
「あ、ここのパテ、絶品だから!絶対食べて!」
ここではウイスキーをオススメしろよ!食いもん頼む店ちゃうやろ!お前がキープしてる極上のウイスキー飲まして来いよ!
「あ、この後ホテル予約してあるんだけど、どうかな?」
いやどのタイミングで行ける思たん?もともと予約しちゃってるから誘わなきゃ損だし、…で誘うなよ!
「ちなみにアパホテル」
絶っ対 いま そこじゃないよね!アパはないよね!事前にアパホテルって言われてて、やったーじゃあ行く〜、はないよね!ポイントいくら貯まってるんか知らんけど。
———
「っていうエピソードなんだけど。間接照明が好きな男ってどう思う?」
「んー、そんな肘とか膝とか光ってるやつ見たことないけどな」
「いや関節が照明のやつの話してないわ」
「あとお前がツッコミのときだけ関西弁になるのもキモいよ?」
「それは言わんといてー、もういいよ」
「おーい、まだ決まらないの?」
会社帰りに合流した僕たちは、駅前のスーパーで買い出しをしていた。お酒とつまみはだいたいカゴに詰めたが、まだ一人、悩んでいるやつがいた。
カズミはさつまチップスの棚に鋭い眼差しを向けている。
「ねえ、うすしお味とやきみそ味、どっちがいいかな?」
やきみそ?焼き味噌?!あまり聞かないが食べたくなる。臼花屋もチャレンジングな商品を出してくる。
「あ、明太マヨ味もあるよ、決められないな〜」
「と、とりあえず焼き味噌は入れといて」
カズミの意識がそれる前に確保しておこう。もう食べたくて仕方がない。こっちはしばらくかかりそうだから放っておいて、もう一人は…。
「あ、いたいた、会計まだ?ちょっと先に外出てていい?油売ってくるわ」
言いながらモッチは酢昆布をカゴに入れた。おつまみのチョイス小5の駄菓子屋か。なんだこいつら。その割には「油売ってくる」とか古風な言い回し使いやがって。ヤニ入れてくるだけだろ。
「今夜のお供はこれに決定!」
カズミはさつまチップスのやきみそ味と明太マヨ味をカゴに入れる。
「はい、もういいな、じゃあレジ行くぞ」
「ちょ、ちょ、ちょ!こっちだよ、ヨッちゃんも来て!」
え?まだあんの?
「最後はアイスでしょ!秋はマロンの季節デス!限定味をチェックなのデス!」
またこいつの鋭い眼差しに付き合わなきゃいけないのかよ。
「ちなみにモッチからはすでにオーダーいただいてマス!」
あいつ、そこまで見越して先に出たな。
営業成績は棒グラフによって高く高く積み上げられていく。私はこの棒グラフを虚しい気持ちで眺めていた。
同じ社員と競争しているように見せられて、毎月の結果に一喜一憂して、果たして給与明細の数字はここ5年間で何千円増えたというのか。棒状に積み上げられたものはダルマ落としの要領で崩すことができる。このオフィスが入っているビルもなかなか細長い棒である。どこかにいい槌はないだろうか。ウチの建設機械の技術ならそれくらい作れるんじゃないか。
ああいかんいかん。現実逃避破壊衝動終末思想がすぎる。私が疲れている訳ではない。この国のサラリーマンは一様に朝から疲れすぎている。よし、すべての疲労を国に転嫁できたところで気分がリセットした。
ゲームを途中でやめて最初からやり直すというこの比喩を肯定的に使うようになったのはいつの頃からか。どんな事象も否定から肯定に多数派が切り替わる瞬間はあるもので、市民権を得るまでにどんな苦労があってもやり続けることに意義はあるものだ。かつては不良のカルチャーと呼ばれた文化のどれだけが、今の日本でメインカルチャーになっているだろうか。
英文の日本語訳のように思考を続けるのはやめよう。水平思考をいくら続けても、営業成績が垂直方向に高く積み上がることはない。
「それではみなさん、今日も一日、元気にがんばりましょう!よろしくお願いします!」
「よろしくお願いします」
朝礼を全く聞いていなかった。聞いても聞かなくても同じ朝礼なら毎朝全員の時間を拘束してやる意味があるのか。しかも始業時間前だぞ。この無為な朝礼こそが朝から疲れている原因の一つに違いない。
「タケヤマ、ちょっといいか」
部長から話しかけられてビクリとなる。
「はい。なんでしょう」
小さな会議室に促された。
「タケヤマ、いつも良くやってくれてありがとう。営業成績は毎月独走でトップだな」
あの縦軸の棒グラフを見て“独走”を連想するとは、部長はなかなか想像力が豊かなようだ。
「君に昇進の話がある。もちろん簡単な昇進試験もあるんだが、君なら心配ないだろう」
そうだ。営業成績を積み上げた先には昇進がある。さらなる高みへという訳だ。さすがに会社命令に逆らったら処分されるだろうし、昇進試験なんか目をつぶっていてもできるようなものをわざと落ちるのもすぐにバレそうだ。いっそ上にあがってこのくだらない会社の文化をぶち壊してやろうか。
そうか、その手があったか。すべての文化ははじめは否定される。私が変えればいいのか。やってやる、私はやってやるぞ——
「それではこれより、新たにCEOに就任されましたタケヤマ様より、ご挨拶を賜ります」
「みなさま、お集まりいただきありがとうございます。堅苦しい挨拶は抜きにして、こちらをご覧ください」
会場の大型スクリーンに巨大な機械が映し出される。キャタピラの上にドデカい鉄槌が水平に取り付けられている。会場から嘆声とざわめきが起きる。
「こちらが我が社の技術の粋を結集して作った次世代建機『超高速回転鉄槌〜ダルマ川落としPG〜」くんです」
ざわめきが激しくなる。
「この機械は高速に回転することで最大限のパワーとスピードを手に入れて、ビルの1階部分を安全にぶち抜くことが可能になりました。これにより、建ててしまったビルのレイアウトが気に入らなかった場合、2階を1階にすることができます。すべての階をぶち抜けば、カセット形式で自由に上下を入れ替えることも可能です!」
映像の中のダルマ川落としPGが高速で回転し始める。
「早速、我が社の新社屋から、1階をぶち抜いていきましょう!あはははは!」
ダルマ川落としPGは、社屋に向かってまっしぐらに進んで行った——
三件の営業を終えた頃には、もう空が赤くなっていた。それでも会社の終業時間までだいぶある。忙しなく移動した一日だったが、速やかに片付けば社内にいるより早く帰れるというのが営業のメリットだ。直帰という概念を作った先人に感謝したい。
念のため会社に連絡をして許可を取る。ただここは普段は来ない郊外の町。電車で戻る頃にはいい時間になっているか。
さっき軽食を摂った喫茶店の横を通ってその思い出に浸りつつ、帰路に着いた。
部屋に入ると同居人はすでに帰宅していた。私が営業で帰りの時間が読めなかったため、夕食当番は同居人がやることになっていた。
ただいま、と声を掛けると、キッチンから包丁を持ったまま駆け寄ってくる。
「おかえり〜!ねえ聞いて!聞いて!」
そのまま抱きついて来そうな勢いだったのを両手で制す。
「危ない!包丁!危ないから!」
相手は学校であったことを聞いてほしい子供のように無邪気に両腕をパタパタしている。
包丁、包丁。
とりあえずまな板の上に包丁を安置させて、話を聞く体制を整えた。キッチンの状況からして今夜はカツオのカルパッチョのようだ。割と手の込んだものを作りたがる。
「この前、コンペに出すデザインの話したじゃん、在宅のときに作ったやつ」
「あの失敗したって話してたやつか」
描き直しを食らったから夕飯を作れないって言われた日だ。よく覚えている。
「そう!それの結果が今日連絡来て。私のデザインが採用されたの!すごいでしょ!」
「そうか、やったね。おめでとう」
内情を知っているからか、自分のことのように嬉しい。
「しかもその案が、私が暴走して作って上司に怒られたヤツだったの!」
二人一緒になって笑う。
「上司がその案もちゃんと送ってくれてて。あの上司いいトコあんのよ」
「あれ、確かコルトレーンを聴きながら描いたデザインだろ?」
音楽を聴かなきゃ集中できないと、私のレコードを勝手に物色して引き当てたらしい。
「そうなの!しかも先方がね、『このデザインからはJAZZを感じる。このデザインにはマイルス・デイビスの血が流れている』って!」
二人は声を合わせた。
「惜しい〜!」
「じゃあ、明日の放課後、ここで待ち合わせね」
またあの日の夢を見た。最近よく見る夢だ。いや、このフレーズだけを思い出している。これは現実にあったことなのか。それさえもわからなくなっていた。
あの日の明日。何をしたんだっけ。その友達とは今も友達なんだっけ。
こんな記憶のために、子供の頃に住んでいた土地を訪れるのは、おかしいことだろうか。それでもここに来てしまったのは、私が今確かめなければいけないと思ったからなんだろう。
夢で聞く声からして、おそらく中学生。であれば行くべきは中学校。私は通っていた中学校から家までの道のりを歩くことにした。
毎日歩いていた景色なのに、すべての建物の背が少しずつ低いように感じられる。自分の目線の高さが上がっているのだ。少しの目線でこんなにも世界が変わるのか。身長が2メートルの人とは、生きている世界が違うんだろうな。
昔の生家にたどり着く直前、四つ角のところで記憶が舞い戻る。ここだ。あの日待ち合わせをしたのはこの交差点だ。
相手は友達の女の子。思い出してみれば、なんで今まで忘れていたんだろうという気持ちになる。そう、私は毎日のようにここであの子と待ち合わせをしていた。
たった一度の強い思い出ではなくて。習慣的な当たり前の約束だった。
じゃあ、あの夢は、私に何を知らせていたんだろう。人の記憶が脆弱で、大切なことを簡単に忘れるということ?日々の忙しさに追いかけられると、過去が消えてしまうということ?
あの子と毎日遊んでいたのは、中学2年生ぐらいのとき。行き先も決めず、とりあえず商店街まで歩いていって、本屋さんとかお菓子屋さんとか喫茶店とか。
ああそっか。「覚えてる」っていうことか。
私はこの記憶を覚えていた。思い出せるんだ。どんなに日々に押しつぶされそうになっても、覚えてるんだ。
なんでもないあの日々を、大切だったあの日々を。あの夢は、大丈夫だって知らせてたんだ。何も忘れてない。あなたの人生はあの日からずっと続いていると。