一人暮らしを始めるとき、なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンの買い方を。なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには、幅だけでなく、丈があるということを。
まぶしい。一週間の終わり、いつまでも寝ていたいのに、太陽が寝かせてくれない。
平日は日が出る前から起き出しているから、全然気にしないのに、週末に寝かせてくれない。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。目分量を信用してはいけないということを。窓の幅しか測ってなかったのに、なんで必要な丈を聞かれたときに、ちゃんと調べてきた振りをして適当に答えてしまったんだろう。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。カーテンには窓の上の方で巻かれているロールカーテンがあるということを。あれなら丈を知らなくてもクルクルの長さだけで下まで届くのに。
なんで誰も教えてくれなかったんだろう。コロナ明けてもまだリモート会議があるということを。zoomをつなぐたびに青い水玉の寸足らずのカーテンが映り込んでしまうなんて。
買い直すのももったいない。布を継ぎ足すのも恥ずかしい。世の中って生きづらいなぁ。
そんなことを頭に巡らせながらまどろんでいたら、いつの間にか布団をかぶって二度寝していた。
あー眩しい。午前中はこの日差しとの戦いかー。会社に来るなり、ガラス張りのオフィスに悪態をつく。二日酔いにこの光度は堪える。なまじ管理職になってめっちゃ明るい壁際の席を用意されてしまった。
デザインの会社なんだからセンスのいいオフィスに入らなくちゃな!という社長の意向で数年前に移転したが、光の反射でPC画面が見えないだの、西陽で背中が焼かれるだのとクレームが相次ぎ、現役のデザイナーは直射日光の当たらない席に一斉避難している。管理職は逃げられなかった。
太陽を避けようと俯いて頭痛と格闘していると、目の前にデザイナーのカシマが立っていた。
「ナカガワさん、ちょっといいですか?」
「ああ、今日は早いな」
「まあ、最近ゆっくり来てたんで」
カシマは若手のデザイナーでフレックスタイムをフル活用して働く柔軟な性格だ。お昼ぐらいに出社することも多いが、月の労働時間はキッチリまとめてくる。
「あのー、転職サイトの案件なんですけど、メインビジュアルのことで聞きたいことがあって」
仕事に関しては真剣。クライアントの要望に応えることを最優先に考えている。
「このー『女性が目に涙を溜めている』ってところなんですけど、これ何の涙ですかね」
ん?ほう、はあ。
「いや、理由知りたいじゃないですか。打ち合わせのとき何か聞いてません?」
「いやー確かに。いや、聞いてないな、すまない」
そこわかんなきゃダメかな。うーんそうだよな、表情も変わってくるか。自分がデザインするんだもんな。
「そうっすか。ナカガワさん、なんだと思います?」
だよな。そりゃ聞かれるよな。打ち合わせに参加したの私だもんな。
「例えば、悔し涙じゃないかな。今の会社でつらいことがあって、転職して見返してやる!とか」
「でもクライアントは転職をプラスのものとしてアピールしたいんですよね。キャリアアップとか自己実現とか」
ホントに真面目だな。この感情を読み違えたらいいデザインが描けないと確信している。ついこの間も彼女の案について修正を依頼したら、意図を理解して的確に直したものを送ってきた。それだけじゃなく、自分でブラッシュアップした私の指摘とまったく違う変更案も同時に出てきたことがあった。自分のデザインを主張する気の強さも持っている。
「じゃあ、転職が上手くいかなくても諦めないっていう強い意志」
「それも考えました。負けないぞ!っていうのもありなんですけど、転職は簡単じゃないってわざわざ広告にメッセージとして入れるかなぁ」
言われてみれば。だんだん私も向き合わなきゃいけない気がしてきた。
「ナカガワさん、1番にお電話です。ディープランニング様からです」
「ああ、はい。すまん、電話だ。今の感じでラフ案をいくつか作っておいてくれるか?」
「はーい、わっかりましたー」
不承不承の様子で席に戻っていった。
「お電話代わりましたナカガワです。え?ホントですか、あ、ありがとうございます、本人にもすぐに伝えます!はい、ありがとうございます!」
吉報だった。ゆっくり受話器を置くと、私からカシマのデスクに走っていた。
「カシマ!この前のコンペ、君のデザインに決まったぞ!」
カシマは驚いた顔で立ち上がった。
「え?マジっすか。えっと、どの案でした?」
「君が勝手に描いてきたC案だ」
そういえば、あれを通したことを伝えてなかった。
「ナカガワさん、あれも通してくれてたんですか?うわ、嬉しい、やだ泣きそう」
言いながらカシマの頬に涙が伝っている。
「カシマ、それ、じゃないか?」
「え?なに?」
「その涙」
「やだ、泣いてないっす、あっ」
カシマの涙目が大きく見開かれる。そんな目でこっちを見るなよ。
「自分がやってきたことが報われた、やってきてよかった、そのときの涙なんじゃないか?転職広告の涙は」
「あは、そうだ、うわーすごいタイミングで実感しちゃったわ」
今度は泣き顔に照れた笑いが加わる。
「ナカガワさん、あたし、いいデザイン描けそうです」
マキエに誘われてカラオケに行ったあの日から、少しだけ気分は晴れていた。これまで歌を聴きながら踊ったことのなかった私が、あの日はマキエが歌うのに合わせて夢中で踊っていた。気の置けない親友がいることがありがたかった。
あれから部屋で音楽を聴いていても、ついつい体を動かしてしまう。その度にあの日のことが思い出される。
でもなぁ。「ディ・ファントム」の曲、カラオケに入ってなかったなぁ。
音楽ユニット「ディ・ファントム」は知る人ぞ知るジャジーヒップホップのグループで、世の中的には認知度の低い。あまり音楽に詳しくない私がなんで知っているかというと、その、一度深夜のアニメでエンディングテーマをやっていたのを聴いたからだ。
もちろんその曲が大好きで、サブスクサービスで毎日リピートしていた。
なんてことを思いながら、カフェでマキエが来るのを待っていた。いつものことだが、マキエは遅刻していた。マチビトハキタラズ。
ふと店内のBGMがなじみのある音色に変わる。
え?うそ?「ディ・ファントム」じゃない?
思うより先に心が踊る。気づくと私は勢いよく立ち上がっていた。ガタッという椅子の音に店内の視線が集まる。店員さんが近寄ってきて、どうしましたか?と声をかけてきた。
「え、あ、その…」
なんでもないです、なんでもないです。心の中で唱えるが頭と口は気が動転している。
「この、この曲っ、じゃなくてBGMって何をどこから流れてるんですか?」
なに聞いてるんだよ、有線だよ、そんなん有線に決まってるじゃん。いや有線で流れてても嬉しいけど。
「あ、え、もしかしてディ・ファントム知ってるんですか?実はこれ、私が選曲したものをプレイリストにして流してるんですよ。なんか嬉しいなー、ありがとうございます」
わ、え、え、こんなニッチな部分で趣味が合う人に出会えるなんて。しかもたまたま待ち合わせに指定されたカフェで。心が躍り続けている。
この店員さん、見た目もさわやかな好青年だし、ちょっと運命めいたものを感じてしまう。
「あの、ディ・ファントムってすごくメロディがポップなんですよね。JAZZがベースなのにかわいいアレンジで…」
やば、立ったまま話し込んでる。でも止まらない。
「そうそう、また歌詞が日本語にこだわってるっていうのもカッコいいんスよね」
この時間がずっと続けばいいなどと、シンデレラのような気持ちになる。
しかし12時のベルは無情にも鳴り響く。ディ・ファントムの曲が終わると、轟音のヘビーメタルが店内に鳴り響いた。
わー、多彩な趣味をお持ちなんですね。
ガラスの靴は砕けて散った。
柄にもなく少しイライラしている。理由はわかっている。お腹が空いているんだ。営業が朝から二件続いて、訪問先も離れていた。電車移動が長かったのもあって、昼食の時間を逃してしまった。
遅れてはまずいから三件目の駅までは着いておきたい。まずは電車に乗ることにした。
外出は社内にいるより気楽でいいが、食事のタイミングを逃すとモヤモヤする。電車内で飲食できない環境も変えられないのか。かといってOKと言われてもあまり食事をしたい環境ではないか。人目がある中で自分だけ食べているのも目立ってしまう。
駅に着くともう2時を回っており、定食屋のランチは軒並み終わっていた。まいったな。お昼を決めるのも得意ではないし、あれこれ散策する余裕もない。目に付いたお店に入るしかないか。
キョロキョロしていると、路地に入った所で白壁とレンガをまとったいかにも昭和な喫茶店が現れた。わかっている。創業はたぶん平成だ。
一も二もなく直感でここと決める。扉を開けるとカランカランとイメージ通りのベルがなる。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
ひげ面のマスターは恰幅がいい。他のお客さんはいないようだ。店内は木製の調度品で統一されていて、暖かみのある灯りが広がっていた。メニューを見るとコーヒー500円。これでも安い方かぁ。
お冷を持ったマスターがやってきたので慌ててしかめた眉を戻す。
「軽食もありますよ。セットならお安くなります」
「え?セット?」
マスターがメニューを手にページをめくると、サンドイッチやナポリタンといった喫茶店ランチがこちらに手を振っている。しかもコーヒーとセットで1000円とは!
「お昼逃しちゃったんでしょう?お食事すぐ出せますよ」
完全に言い当てられてきょとんとしているとマスターはさらに続けた。
「この時間にこの店に入るのは営業の昼食難民。この立地で20年以上やってれば一目でわかります。お客さんスーツ着てるしね」
なるほど。職業病みたいなヤツだ。私はサンドイッチとミルクコーヒーを頼んだ。
食事は2分と待たずに出てきた。
「ごゆっくり」
マスターの好意があたたかい。サンドイッチは玉子とベーコンとレタスが挟んであり、私の胃袋を満たすには十分だった。ミルクコーヒーも芳醇で優しい。束の間の休息には最高の空間だった。
時計を見ると次の約束まで時間がない。慌てて準備をしてマスターに会計をお願いする。
「はい、ありがとね。気をつけていってらっしゃい」
「はい、あの、また来ます!」
気づいたら口から出ていた。また来ます。うん、この駅に着いたら、また来よう。
束の間の休息を求めて。
筆ペンを持つ手が震えている。A3の紙はあと一枚。これ以上失敗するわけにはいかない。軽い気持ちで引き受けたわけではない。何度も断ろうとした。でも一度引き受けたからには、やり遂げなければならない——
出勤時間にバイトが全員集められた。そこで店長から通達があった。ハロウィーンのキャンペーン開始に向けて、スタッフを強化したい。シフトを追加できる人は申し出てほしいという。さらにバイトの人員を増やすというのだ。
パン屋さんってハロウィーンにイベントやるんだ、などと考えていると、
「それからヤマノさん、キミ、書道の経験があるって履歴書に書いてあったよね?」
「ふぁ、は、はい」
みんなの前で名指しされて変な声が出る。
「バイト募集の貼り紙を書いてほしいんだ。お願いできる?」
「え、や、ちょっと自信ないです」
業務内容にそんなこと書いてなかったはず。あ、軽作業あったか。お手軽に書きやがって。
「ぜんぜん、上手くなくていいから」
「パソコンとかでも、デザインできるんじゃないですか?」
「手書きがいいのよ。温度を感じた方がいい人が集まってくるから」
私はWEBの求人から応募したけどな。ぜんぜん手書きじゃなかったけどな。
「ね、読めればいいから」
じゃあ私じゃなくていいでしょ。
とはいえ、これ以上の押し問答は他のバイトの前では憚られる。仕方なく引き受けることにした。
「A3の紙、今これしかないから。まあ6枚もあれば大丈夫でしょ」
突如私のライフは6になった。A3コピー用紙にフリーハンドで文字を書くカンタンなお仕事。書くべき内容はご丁寧にA4コピー用紙に印刷されている。
「これ貼ればいいじゃん!」と小声でツッコんだが誰にも聞かれてないよね。
最初はみんなに注目されて、まったく集中できなかった。一文字書くごとに「おお!」「いいね!」「ああキレイ!」などと囃されて、途中【時給10000円】と桁数を間違えたところでため息と笑い声が同時に起こった。
人の失敗を見られて満足したのか、聴衆は去っていった。いや、自分の仕事に戻っただけだ。
「時給一万だったらアタシもっかい面接受けるわ」だの「ヤマノちゃんがんばってー」だの言いながらプレッシャーをかけてくる。
一人になっても緊張は変わらなかった。ライフが少ないと知っていると余計に手元が狂う。業務と関係のない特技など履歴書に書くべきではなかった。
【休憩】の部分を2回続けて【体憩】と書いた時には恥ずかしくて焼き窯に飛び込みたくなった。「体」でミスしてるのをわかっているのに「憩」まで書いてしまうのは何故なのだろう。この習性に名前を付けてほしい。
気づけばあと一枚。ライフは1。ここでミスればゲームオーバー。アーサーもパンツ一丁だ(世代がバレる)
もう一度自分を奮い立たせ、筆ペンを持つ手に力を込めた——
【バイト暮集】
オワタ。いきなりの誤字。あーあ。クビだクビ。
タイミングを見計らったかのように店長がひょっこり顔を出す。
「修正テープあるよ」
〜〜〜店長!💢