俺は埠頭で釣り糸を垂らしていた。
今日は仕事は休み。晴れた青い空がどこまでも続いている。
水平線との境目が怪しくなるほどのまばゆい青に包まれ、時間の感覚を忘れる。
のどかだった。
この町で、除染作業員として暮らしてはや5年。少し、こちらの土地の方言にも慣れた。
でもまぁ、そろそろ。
潮時だろう。
なんの潮時か、自分でもよくわらかなかったが、それでも俺は思った。そろそろこの町から動いた方がいいかも知れない。
もっと、北へーー
ぴくりとも動かない釣り糸を眺めて、そんなことをつらつら考えていた時、背後から声をかけられた。
「釣れますか」
俺は前を見据えたまま、答えた。
「全くだめですね」
「……お魚、釣れないとドラ猫を追いかけられないね」
風に攫われそうな声。微かに震えていた。
それでも俺は振り向かなかった。
怖いーー再会が怖かった。この5年あまりで俺は変わった。見かけも、中身も。もう教師じゃないし、前科もついた。
君が好きだった俺じゃない俺を、見せるのが怖いと思った。
ああ、でも懐かしい。ずっと聞きたかった君の声だ。
「まだ見てるのかい、サザエさん」
「うん、オープニングでね、みんなが笑ってる〜、お日様も笑ってる〜、のところになると毎回泣きたくなる、先生を思い出して、堪らなくなってたよ」
「……もう先生じゃない。失職した」
「教師じゃなくてもいいよ、あなたがあなたなら、それで」
埠頭に腰を下ろした俺の背に、ふわっと暖かいものが触れた。
彼女の額だと気づくのに時間がかかった。
「会いたかった。ずっと」
探していたのと囁いた。
その一言にどれだけの覚悟と、辛い思いを押し隠していたのか、どれだけの涙を重ねてきたのか、5年以上の歳月を思うと、胸が塞がれそうになった。
「まだーー」
君が好きだよ、ずっと君だけを想ってる。
言おうとして、言葉にならない。
でも、今俺がここに、この町にいることが、全部の答えであるような気がした。
彼女は頷いた。うん、と。
大人になったーー成人した、というのではなく、俺に言葉での気持ちの開示を迫らなくなった。ただ受け止められる、女の人になった。
俺は俺の腰のあたりのシャツを握る彼女の手に、自分の手を重ねた。ぐ、と、彼女の喉が鳴った。
俺の目にも青が滲んだ。
君が泣き止んだら、釣りを辞めて埠頭から離れよう。そして、二人でゆっくり話せる場所へ移るんだ。
それまではもう少し、青に浸っていたい。そう思った。
#どこまでも続く青い空
「空が泣く 完結」
もっと読みたい500❤︎ありがとうございます
「お疲れさん」
「お疲れした」
俺は、更衣室で除染服を脱いで、私服に着替えた。
今日の勤めを終える。
これから、宿に戻り、風呂に入って簡単に飯を済ませる。テレビは持っていないから見ない。図書館から借りた本を読んで、眠くなったら眠る。
眠れない夜はまんじりともしない。
刑期を終えて、出所した俺は全てを失っていた。
元の仕事に戻れるはずがなかった。高校教師の俺は懲戒免職になった。
教え子に手を出した淫行教師。ロリコンエロ野郎。人でなし。
ネットが俺に与えた罪状だ。
俺は街を離れた。食い詰めてたどり着いた先は、原発事故の深手が残る海沿いの場所だった。
日雇い労働者として、除染作業を行うことで、食い扶持を稼いだ。
ここでは誰も、俺が教師だったと知らない。なんでここで働きだしたのか、理由を追及する者もいない。気楽だった。
犯罪者は北へ向かう。どこかで読んだ一文を思い出す。
ーーああ、でも俺はやはり無意識に、彼女のことを追いかけているのかも知れない。
刑務所に送られてくる彼女からの手紙を、俺は読まなかった。封を開けて中を見るのが怖かったのだ。
裏面の差出人の住所が北の、原発事故の起こった地になっていたのだけは、確認していた。お母さんが福島の生まれだといつか聞いたことがある。たぶんそちらへ身を寄せているのだろう。
針の筵にいる訳ではないと思うとほっとした。
彼女の人生に関わってはいけない。これ以上。
でも俺の記憶は蘇る。ベッドで、俺の背をなぞりながら、先生の背中に星座があると囁いた甘い声が。
擬人法を教えてくれたねと、サザエさんの歌を口ずさむ彼女が、海浜に寄せる波のように繰り返し、繰り返し。
俺を狂おしく揺さぶるのだ。
#衣替え
「空が泣く5」
先生が、未成年に対する淫行で捕まった。
私が高校生で、先生の教え子だったから。先生のアパートに出入りしていたのを、同じ高校の生徒に見咎められて、SNSに晒された。
日常の崩壊は、あっという間だった。本名を、現住所を、職場をネット警察に公開されて、私たちはまともに外に出られなくなった。
先生は交際を認め、逮捕された。父親は激怒し、母親は悲嘆に暮れた。
「転校させよう。お前の実家に預けて、苗字も変えさせるんだ」
父親は策を弄した。泣きくれる母親に手続きを取るように命じた。
私は反発した。断固拒否したけど、携帯も解約され、先生と連絡も取れず二進も三進も行かなくなった。
ーーどうして? 好きな人と一緒にいたかっただけよ。それがたまたま高校の先生だっただけ。
世の中には10も歳が離れた人たちが沢山お付き合いしてるのに、どうしてだめなの?
声が枯れるまで、両親と何度もやり合った。でも誰も答えを私に差し出してくれなかった。
そんなのおかしい。絶対に、私は諦めない。
先生を待つ。刑期を終えて、出所する彼を待つの。
その頃には、私はもう高校を卒業してるはず。
誰にも、邪魔されることはないはずよ。
強制的に転校させられ、預けられた母親の実家から、先生の元へ私は手紙を書いた。それしか手段がなかったから。
でも、一度も先生からの返信はなかった。
#声が枯れるまで
「空が泣く4」つづく
「ご馳走様、美味しかった~」
朝食を完食して、花畑は手を合わせた。朝からいい食いっぷり。
昨夜、俺のうちに泊まっていった。俺たちは付き合いだした。
「どういたしまして。今日の予定は?」
食器をキッチンに下げた花畑に俺は訊いてみる。
「面接があるの。正社員枠でね、行ってみるよ」
「派遣会社、辞めるの」
「うん、なんか、腰を落ち着けて働くのもいいかなって。藪さんがあたしに仕事のしかた仕込んでくれたし」
「そうか……」
懐かしい思いがこみ上げる。うちの会社に来たはじめはいつもさぼること、手を抜くことしか考えてなかったようなやつなのに。
付いたあだ名は「おはなばたけ」ちゃん。だったのに。
変わった。ーーといえば、俺も大分変わったが。
こいつへの想いが。
「なあ、本気でここで一緒に暮らさないか。何回も言ってるけど」
ダメもとで言ってみる。でも、花畑の答えはいっしょだった。
「やですよ、そんな扶養家族でもないのに」
「扶養家族になればいい」
プロポーズ。何回も結婚しよう、一緒に暮らそうと申し出ている。しかし、「んー、それはまだいいかな」と花畑は素っ気ない。
「まだってな」
俺は脱力する。
「ずるずるになるの、やなんだ。折角藪さんが一から育ててくれたんだもの。力、試してみたい」
きっぱり言う。迷いのない目をしている。
俺はやれやれとため息を宙に溶かした。後頭部を掻く。
「俺は保留扱いか……。仕事なんか教えるんじゃなかった」
「後悔してる? 藪さん」
「いやーーぜんぜん。お前、いまかっこいいよ」
最高にな、と言ったところに、キスが来る。花畑がつい、と俺に近づいて掠めるように唇を重ねてきた。
「お」
目を白黒させてしまう。出し抜けだったから。
「じゃあ、行ってきます。面接、うまくいくように祈っててね」
鏡の前で髪を整え、身づくろいをして花畑は言った。
「わかった。今夜も一緒に食わないか」
「うん。楽しみにしてる」
俺は片目をつぶって、「行ってきます」と部屋を出ていく花畑を見送った。
俺に満開の花を見せる女。笑顔ひとつで。
……俺が育てたんじゃないよ。元から、能力はあったんだよ。質の高い仕事、ずっとやりたかったんだよ、お前は。
本来の姿なんだ。だから今、そんなキラキラしてるんだな。
とても嬉しくて、少し寂しいよ。本音を言えば。
「行ってらっしゃい」
パタンと閉じた玄関のドアに向かって俺は呟いた。
がんばれ、という思いといっしょに。
END
「やぶと花畑・完」愛読ありがとうございました
#はじまりはいつも
ピンポーン。
「はーい」
俺が、玄関のドアを開けると、ちんまりとした女の子がいた。
お隣さんーー遠山さんだ。こないだ、でかい地震があったとき、停電が続いた中お互いにチャッカマンとろうそくを貸し借りしてお近づきになった。
「良かったー、西門さん、なかなか居なくて」
やっと渡せる。と笑顔になった。
「ごめん、すれ違いだった? 俺夜もバイト入れてるから」
「いいの、これこないだのお礼。アロマキャンドル、ありがとうございました。おかげで停電でも助かりました」
そう言って、俺に手にしていた紙袋を渡す。結構嵩がある。なんだ?中身は。
と思ったが、「別に気にしなくても良かったのに。アロマだったんだね、あれ。どおりでいい匂いすると思った」と言った。
「彼女さんの趣味? 助かっちゃった」
ニコニコしながら遠山さんが言う。
「彼女なんていないよ。まぁとにかく、ありがとね」
俺もニコニコしながら改めて礼を言って、別れた。
アパートのお隣同士。すれ違って、目礼する程度の関係だったのが、地震というハプニングで俺たちは互いの名前を名乗り、大学生同士だと知った。
部屋に戻り、紙袋から中にある物を取り出した俺は目を丸くした。
「ーーお礼って、これ?」
出て来たのは卓上コンロだった。スペアのボンベも2本添えられている。
俺は笑った。言った、確かに言ったけど。ガスが止まって煮炊きも出来ねえなと、地震の時。あれを覚えていてくれたのかーーでもそれにしたってお礼が卓上コンロって! 助かるけど。
「やっぱ最高だなぁ彼女。遠山さん。遠山なぎささん。おもしれー、さすがは俺が見込んだだけはある」
色気のかけらもない実用的な日用品をテーブルに置き、俺は彼女のアパートのほうの壁を見つめた。
壁一面には、隠し撮りした物を紙焼きに印刷した遠山さんの写真が山ほど貼られている。隙間も見えないほどびっしりと。
大学へ出かける遠山さん、バスを待つ遠山さん、部屋着でゴミを出す遠山さん、彼氏に振られ泣き腫らした目の遠山さんーー
彼女が隣に越して来てからずっと見守って来た。盗聴器を仕掛け、部屋の中の様子や会話をチェックして来た。
郵便物も、中を見たかったけど、発覚するリスクが高いので諦めた。表書きで俺は名前をとっくに知ってた。
遠山なぎささんーー
もうすぐ、もう少しで君は俺のものになる。
彼女のことを聞いて探りを入れてきてるのが、その証拠だ。俺に興味を持ち始めた。
優しい隣人の俺に。
俺は卓上コンロを見下ろした。地震に感謝だなとほくそ笑んだ。
#すれ違い
「柔らかな光2」