「やぶと花畑1」
この苗字のおかげで、だいぶ仕事の手を抜いていられる。
はなはた、というのだけど、みんな私をはなばたけちゃん、と呼ぶ。花畑ちゃん、お茶出してくれない?花畑ちゃん、コピーお願い。etc…etc
はあいと笑って言われた通りしていれば、お局さまにも睨まれないし、みんなに可愛がってもらえる。派遣ちゃんと呼ばれ、無理目の量の仕事振られてこき使われるよりはずっといい。
お給料に見合わない仕事はしない。これ、鉄則。
そんなあたしにも苦手な上司はいて。
薮さんと言う30前半の人。キッチリ仕事できて、部下には公平。厳しいけれど、いざという時は責任取ってくれる。独身でかなりモテる。
薮さんはあたしには当たりがキツイのだ。みんな、てきとうな仕事しか頼まないのに。割と大事なプレゼン資料の作成とかを振ってくる。
なんで何だろう。気が抜けない。
「はなはた、このデータパワポに落としてくれ、明日までな」
「あ、明日、ですか」
「薮さん、ちょっと無理目じゃないですか、はなばたけちゃんですよ?」
「出来るよ、この子。それにはなばたけじゃなくて、はなはた、な」
取りなしてくれた山田さんは、あ、という顔をしてごめんなさいと謝った。
いえ、それはいいんですけど……。何で?
何でバレてる? あたしのスキル。
薮さんは、メガネの奥からあたしを見てふっと笑った。
「俺はやぶだけど、人を見る目は節穴じゃないよ。ーーはなはたは、出来る」
そう断言して、デスクに向き直った。
あたしはむむ、と言葉に詰まる。
ドキドキしていた。不覚にも。
この上司、いや、この男……あなどれない。なんか! やぶのくせにやばいかも!
#花畑
「みんなが笑ってる お日様も笑ってる るーるるるるー 今日もいい天気ー」
「なんで『サザエさん』?」
「いやなんか、今にも雨が降り出しそうな空模様だからさー」
窓辺から曇り空を見上げるあたしの隣に、マグカップを持った彼がやってくる。同じ角度で空を見上げて、ああと目を細めた。
「あなたが教えてくれたんだよね、擬人法。去年の授業で。サザエさんの主題歌を歌ってさ、音痴だったなー」
「失礼だなー。まぁ否定しないけど」
「……授業そっちのけであなたばかり見てたな。声がね、好きだったのね、最初。顔は後から。よく見ると、カッコいいかもって」
彼は苦笑する。音痴だけどねと自嘲し、
「よく覚えてるよ。なんでこの子、俺をガン見するんだろって。睨んでるようにも見えたし」
と微笑む。
「睨んでないよ、見惚れてたの」
好きだったなぁと言うと、
「過去形で言わないで。現在形だろ?」
と突っ込まれた。
マグの中身を溢さないようにかがみ込み、彼はあたしにキスをした。
「……そうだね、好き」
「よくできました」
「そろそろ授業行くね、古文始まっちゃう」
あたしは椅子から立ち上がる。さっき昼休み終了のチャイムが鳴ったばかり。
「前園先生、開始早いからな。行っといで」
「ん。ねぇ先生、今日アパートで待っててもいい?」
戸口で聞くと、彼はちょっと考え、いいよと頷く。
「プリント作って帰るから、少し遅くなるかもだけど」
「わかった。ーー空が泣き出しそうだから、本降りになる前に帰ってきてね」
そう言うと、それはそれは甘く、うん、と笑った。
まるで彼の方が年下の生徒みたいに。あたしはじゃと手を振って国語科教官室を出た。
#空が泣く
ーー元気?
ーー元気だよ
ーーこっち、まだ暑いよーうだるー
ーー海あるからいいじゃん!海行きてええええ
ーー海は泳げなくなったよ、君のおばーちゃんのおでん食べたいなぁ
ーーUberしよか、俺
ところで海開きの反対って、なんて言うの
ーーさあ? 海、閉じ……?
ーー語呂悪っ
ーーじゃシークローズ
ーーかっこよ
「……何見てんの」
あたしが聞くと彼はぱっと携帯から顔を上げた。慌てたそぶりも見せずにLINEのアプリを閉じる。
笑顔で
「何も、明日の天気どうかなぁって」
と言う。
「……どうだった?」
「晴れ」
「そ、か。良かった」
明日、おばあちゃんとこにご挨拶だものね、婚約の。お天気はいい方がいい。そう言うと、
「会うの、楽しみにしてるよ。俺の選んだ人に間違いはないって、君に会う前から断言してるし」
「うわー、ハードル上がるなぁ」
緊張すると言うあたしの肩を優しくぽんぽんとしてくれる彼。
……あたしは気づいている。
10年前、彼が高校の時田舎のおばあちゃんちで出会った女の子と、当時やりとりしていたLINEの履歴を今でも消せていないこと。
たまに見返しては、切ない顔をしてること。
古いアルバムの写真のページをめくったときのように。
まさか、あの後、交通事故で亡くなってしまうなんて誰が想像しただろう。
真夏の海風と健康的な笑顔の残像と初恋の熱だけを彼の胸の内に焼き付けて、その子は去った。はるか遠いところへ一人で。
彼と再会することは叶わないままーー
……彼のLINEから、この先、その女の子とのやりとりは消えることはないだろう。
それでもいい。あたしは切ない夏の初恋を懐きながら、時折切ない目をする彼を愛すると決めた。
これから先、ずっと。
この10年、そうしてきたように。彼の一番近くで。彼より先に逝かないと、もうあんな風に悲しませないと心の中で誓いながら。
「おばあちゃんにご挨拶するとき、手を握っていてね。緊張するから」
お願いすると、彼は「もちろん」と笑った。
#本気の恋 の続編です。
#君からのLINE
「ねえ、俺たち、命が燃え尽きるまで一緒にいようね」
ひどくロマンティックなセリフ。状況が状況じゃなければ。
いまこの場所が、ここじゃなかったら。うっとりと目を閉じ、彼の胸に身を預けるのに。
「……そのセリフさ。本気で言ってるの」
あたしは思わず隣を見た。
彼はにいっと歯を見せて笑った。「もちろん」
この人、肝が太いと思った。さもなきゃ心臓に毛が生えてるのか。
こんな状況で、そんなこと、言う? 言える?
彼は続けた。
「君と一緒なら怖くないよ。たとえこの身が燃え尽くされようとも」
「だから、しゃれにならないって。そーゆーの口にすんのやめてよ。不謹慎じゃない」
「でも黙って待つだけなんて焦るからさ。俺が話してたら、ちょっとでも気がまぎれるかと思って」
「それはそうだけどォ」
煙い。刺激臭が鼻を刺す。むせる。
これはマジでやばいかもしんない……。こほこほと咳込んでしまう。
あたしはハンカチで口と鼻を押さえる。彼も服の袖で口元を隠しながら「まじでさ、ここを無事で出れたらすぐに結婚式場に行こうぜ。グダグダしてる暇なんかないってわかったよ、ようやく」とくぐもった声で言う。
「け、けっこんしきじょう?」
「ああ。いつ君にプロポーズしようか悩んでたけど。今日こんなことになってケツに火がついたっていうか、あ、これも不謹慎か」
「~~ったくあんたってばもう~」
涙が出てくる。それはマンションを覆う黒煙のせいかもしれない。
そうじゃないかもしれない。ごほごほ。
彼の自宅で休日、まったりすごしていたら。階下から出火。 あたしたちは高層マンション火災に巻き込まれた。
あっという間に煙が充満して火力が増して退路を断たれた。いま、消防のはしご車の到着と窓からの救急脱出を待っているさなか。
絶体絶命の中、彼がプロポーズをしてくれた。
大喜利みたい、冗談みたいなプロポーズだけど、その後、なんとか五体満足で救出されて、あたしたちはまっすぐ市役所に出かけて婚姻届けをもらい、入籍の手続きをした。
結婚式場より先にこっちよねと、あたしが軌道修正したかたちになった。
火事場の馬鹿力で無理やり。笑
#命が燃え尽きるまで
よくさ、夜明け前が一番暗いとかいうじゃない?
ああ、聞いたことあるね。コロナが猛威振るっていた時とか。
何かの比喩っていうか、ことわざなのかなぁ。
明けない夜はない、みたいな。
うん、ーーあれほんとかどうか、確かめない?二人で。
え? 早起きするの? 明け方窓辺で見張って?
君意外と研究肌なんだねえ。
ん、まぁ……そういう自由研究みたいなのじゃなくてさ。
? こんど明け方の空の観察しようってことじゃないの?
…できれば継続的に、というか、これって俺たちの人生についての話、なんだけど。
伝わってる?
??
「って言う具合に、あなたのお父さんからのプロポーズはそれはそれはひどく分かりづらいものでした。
だからあなたは若いうちから国語をしっかり勉強してほしいと思うの」
そう言って笑う母は今でも父とラブラブな夫婦だ。
#夜明け前