名無しさん

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6/3/2024, 6:09:03 PM

『失恋キャンディ』
そんな大層な名前が印刷されたキャンディの袋が目の前にある。
自慢じゃないが自分は生まれてこの方、『失恋』というものを体験したことがない。
いや、ただしくは『恋』そのものを感じたことがないのだ。
だから友人たちが、やれアイドルの誰それはかっこよくてドキドキするだの、俳優の何某«なにがし»を見ると胸がきゅうっとするだの、そんなことをきゃらきゃらと話していても、さっぱり分からないのだ。
だが、ここにあるこの『失恋キャンディ』とやらを食べれば、自分にもそんな友人たちの気持ちの、ほんの僅かでも理解することが出来るのかもしれない。
私はある決意をすると、鞄から取りだしたスマホを立ち上げ、キャッシュレスアプリを起動した。

ありがとうございましたという店員の定型文を背に、例のキャンディ袋を手にした私は意気揚々とコンビニを出る。使命を果たしたスマホを鞄にしまってから、ビッとキャンディの袋を開けた。中を覗くと色とりどりの『失恋』たちが自分を選んでと私を見上げていた。
顔を上げ、袋を見ずにえいやと手を突っ込む。そして最初に触れた小袋をそっと摘み上げた。
藤の涙雨と印刷されているキャンディの小袋をあけて、中に入っていた薄紫色のアメをころりと手のひらの上に転がした。
そのまま少しだけころころと手のひらで転がしたあと、ぽいと口へ放り込む。
「……これが失恋の味?」
想像していたものと違って、すごく人工的なその甘さにガッカリした。そのあとも袋の中にあった『失恋キャンディ』はどれもこれも在り来りな味で、こんなものに少ないお小遣いの一部を使ってしまったことをちょっぴり後悔した。
そうして、最後の一粒を口に放り込んだ瞬間、私は気が付いた。
「ああ、そっか。たしかに失恋の味だ」
そう、私は『失恋』という憧れに、今この瞬間、失恋したのだから。

5/29/2024, 10:22:00 AM


『ごめんね』

そんな言葉が聞こえてきて、作業の手を止め振り返る。
だがそこには誰もいない。それもそのはずだ、この部屋にいるのはもう自分一人だけなのだから。
首をひねってから、また目の前の作業に戻る。
そうして二、三分もしないうちに、再びどこからか『ごめんね』という声が聞こえた。
さすがに二度目となると何だか気味が悪くて、作業の手を止めると声の出どころを探す。
しかし部屋中くまなく探したのに、その発生源は見つからなかった。
気味が悪い、そう思いつつも早く目の前のこれを始末してしまいたかったから、また作業に戻る。
パチンパチン、パチ、パチン、パチパチ。
思い出をひとつずつ丁寧に切り落として、箱に詰めていく。
楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹を立てたこと。
最後の一片を慎重に切り落として箱にしまうと、それを今度は鞄に詰め込む。そうしてバラバラになった『思い出』を連れて、この部屋に別れを告げた。

「ごめんね、痛かったでしょう?でもこれで……ずっと一緒だよ」

8/7/2023, 6:49:39 PM

#ところにより雨



 ざあざあと雨を降らせる曇天を睨めあげて、男は短く舌打ちをした。
 ついてないな。そうボヤいたところで事態が良くなるわけでもないが、ボヤかないとやっていられない、そんな最悪な気分だ。
 雨は一向に止む気配がない。それどころか遠くからは雷鳴すら聞こえてきた。今でさえかなり濡れているのに、これ以上の雨に降られたら下着までずぶ濡れになりそうだ。泣きっ面に蜂、悪い事には更に悪い事が重なるのは往々にしてあるが、何も今でなくてもいいだろうと胸宇で悪態をたれる。
 意を決し、いざと掛け声をかけて立ち上がるも、利き足の足首に走った激痛ですぐさま地面に座り込む羽目になった。どうやら馬の背から振り落とされた拍子におかしな捻り方をしたらしい。そうして気付けばあらためて強い痛みを覚え、腫れているらしい患部が熱をもっている気がしてきた。
 座り込んだまま利き足をそろそろと伸ばして、ブーツの編み紐を緩める。それから皮の部分をぐいと引き下げ足首を露わにすると、案の定そこは赤黒く腫れ上がっていた。
 最悪だ、と今度こそ隠しようのない弱音が声となって口から滑り出た。乗ってきた芦毛の馬は行方知れず、自分は足首を捻ってしまって立つことすらままならない、しかもそこへ持ってきてさらに悪天候、雷雨が重なってくる。これが弱音を吐かずにいられるか。
 こんなとこでくたばることになるなんて。それならせめてあの男の顔を拝んでから死にたかった、そう意味のわからない自暴自棄になりかけていた時だった。

「たかが捻挫くらいでヒトが死ぬわけないだろ。バカか、君は」

 心底呆れたような声が随分上から降ってきて、俯きかけていた顔が上がる。
 そこには主人たる自分を振り落とした芦毛の馬に跨り、こちらを見下ろす男がいた。漆黒の雨具に身を包むその姿は、他人から見ればさながら黄泉の国からの迎えのように見えるかもしれないが、その時の自分には何より心強い、そう覇王のように感じた。
「まったく、君らしくないね。そんな弱音を吐くなんて」
 馬上から降りたその男は、痛めた足の負担にならないようにこちらを立ち上がらせると、上手に馬の背へ乗せる。それから自身もそこへ乗り上げると、降りが一層激しくなり出した雷雨の中、疾く馬を駆る。
「……でも無事で良かったよ、本当に」
 びゅうびゅうと流れる風の音にまぎれるみたく、手綱を繰る男のそんな小さな声が聞こえたような気が、した――。

8/6/2023, 3:03:51 PM

#太陽


「やっぱり君を例えるなら太陽なんだろうね」
「いきなりどうしたよ?」
 傾けようとしたタンカードを置いて隣を見れば、こちらをじっと見つめているそいつと目が合った。
「いきなりってわけじゃないさ。君は君自身が考えている以上に色々な人の運命を照らしてる太陽なんだなって改めて思った、それだけさ」
「いやいや、そんな大袈裟なことしてねえし……てか、なんだお前さん、もう酔っ払ってんのか?」
 ちょうど吟遊詩人の歌が終わったらしく、ついで出てきたのはジプシーの楽団たちだった。彼らは一様に珍しい楽器を持っていて、その調律を念入りにしているらしい、ポロポロという弦楽器独特の音が酒場の賑やかさに上手く溶け込んでいる。
 そうして調整が終わった頃に、楽団から一人の若い踊り手がすっと出てくる。一見すれば華奢な男性のようにも見えるその人はしかし、よく見れば艶かしい肢体をもつ女性のようにも見えた。そんな人物が酒場にいる客全員へ向けて恭しいく一礼をすれば、纏う装飾がシャランと涼しく澄んだ音を立てる。
 それが合図なのか。打楽器の人物がリズムを打つと異国の不思議な曲が流れ出し、それに合わせ踊り手が華麗な踊りを舞い始めた。
「そう、だね。少し酔ってるのかも知れない」
 時折体をしならせ、激しくだが淑やかな舞踏を異国情緒あふれる音楽に合わせ踊る踊り手をじっと見つめたまま、そいつはまるで吐息づくみたくほろりと言葉を紡ぐ。
――その横顔が何故か知らない人間のように見えて、無意識のうちにチッと短い舌打ちを漏らしていた。
「人に意味深な話を振っときながら、テメェは綺麗な姉ちゃんみて鼻の下伸ばしてんじゃねえよ」
 そう言いながら持ち上げタンカードを傾け中身をぐびぐびと呷る。
 そんな自分の言葉を拾ったらしい奴はこちらに向き直すと、ふはっと小さく吹き出した。
「君、ほんっと面白すぎだよ」
「けっ、こっちはなぁんにも面白くねえっての」
 飲み干し空になったタンカードをいささか乱暴にテーブルに置いて、それから自分と奴の間にあるナッツの盛られた皿に手を伸ばすと、むんずと鷲掴みにした。そして掴み取ったナッツをポイと口に放り込みガリガリと噛み砕く。
「まったく、そういうところはまだまだ子どもか」
「へーへー悪ぅございましたねー」
 ヤキモチなんてみっともないと分かっていても、どうしてかこの男のあんな顔はあれ以上見ていたくなくて、子どもみたいな癇癪を起こして奴の気を引いた。やってることはガキがやるそれと変わらなくて、我ながらウンザリする。
「まあいいさ。君がそうするのは……、みたいだしね」
 だからその時、やつがボソリと呟いた言葉を拾い損ねた。しかも空きっ腹に火酒をかっくらったせいで、いつもより酔いが回るのが早い気がする。それでも何とかまだ呂律が回るうちに奴へ、何か言ったかと問うてみた。
「いや、何も。それよりここは君に貸しでも作っておこうかな?」
 それをさらりとかわした奴はカウンター内にいる店員に水を頼み、また自身も追加の酒を頼んでいた。
「らしくない酔い方をするんじゃないよ、君も」
「……悪ぃ」
 そう言って店員から渡された水の入ったグラスをこちらに手渡しつつ苦笑する奴の顔はいつもの奴で、それになんだか申し訳ないと思いつつも、どこかホッと安堵の息をついている自分もいたことは否めなかった。
 そうしてそれから自分と奴は互いの現況や、これからの事を話し合ってのち、東の空が白み始める少し前にその酒場をあとにするのだった――。

8/4/2023, 2:45:58 AM

#目が覚めるまでに



真っ黒な天蓋の中でひそひそと話す声がする。

それは今日見たものだったり、何年も前の昔ばなしだったり、まだ見ぬ未来の話だったり。

ひそひそと、しかしとても楽しそうな、密やかな会話があちこちから聞こえていた。

そんな会話を優しい眼差しで見守るのは、夜にあって天蓋唯一の母。

キラキラと瞬きながら話をする星々は、そんな穏やかな母のごとき月に見守られて、人々の目が覚めるまでにたくさんの会話をするのだろう。

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