好きだよ:
こういうのは伝えたいと思ったそのときに伝えるのがいいものだと、ふとした瞬間に聞こえてくる。
次に会った時は言おうだとか思っていようものならその“次”が永遠に来ないことなんてざらにあるのだから、と。
痛く共感する。言えないまま来ない“次”を待ち続けている言葉はいくらでもある。
だからこそ伝えたい気持ちはなるべく言葉にしたいというのに、なかなかどうして出来やしない場合もある。
突然にかつての思い出が過って腹の底から沸き立つようなこの気持ちだとか、どうしようもなく草臥れてしまって縋るように抱いたあの感情だとか。言いたい時に限って届けたい相手はそこにいない。
現代ならではの手法こそあれど、これだって一筋縄にはいかないのだ。脈絡もなく会話の流れを切れないだとか、向こうからの返答を待たず一方的に送り付けられないだとか。
知ったことかと一蹴してしまえたらどんなに気が楽になるだろう。とはいえこういった暗黙の了解じみたものはそこかしこにあるし、それに倣うことで我が身を守ることができるというもの。
硝子細工を持たされている気分だ。そのくらいがちょうどいいのだろうけれど。
繊細で美しいそれを壊してしまわぬように、しまいこんで埃を被らせぬように、両手で大切に包み込んでは誰かへ差し出す。こんなにも愛おしいことが他にあろうか。
言葉で、態度で、持てる全てで伝えたあと、花束のようになったそれを抱えて笑うあなたの隣にいたいと願うことを、どうかこれからも許してほしい。
またね!:
なあ、それは再会の約束ではなかったのか?
街灯の少ない郊外の道端、すっかり暗くなって辺りが黒々としているそんな夜、君と交わした言葉が頭の中を回る。
確かに、たしかにそう言ったのだ。否、自分にとって都合の良いように書き換えた記憶なのだろうか。今となってはどちらも自信が持てない。
夢見月の三月、君は桜も咲かぬうちに、それこそ夢のごとく立ち消えてしまった。
届いた封筒の丁寧な文字のうえを目が滑っていく。春眠暁を覚えずとはよく言ったものだが、そんなに眠りたかったのかい。
それから今年で何度目の春だろうか。
私はまだ、眠れないでいる。
春風とともに:
心が不安定になっているのを感じる。
意識していないと呼吸が浅くなるし、音や文字、映像などの情報に囲まれていないと思考の隙間に良くない考えが浮かんできてしまう。
こうなるともう動けない。立ち上がることもできず、気分を変えるべきだと思っても、黒いもので占拠された思考は制御を取り戻すのが困難だ。
嫌な考えが、言葉が、脳に刻まれていく。
それは本来些末なものだったのか、それとも水面下の氷山が想像よりずっと大きかったのか、あるいは長らく抱えていたせいで重さに耐えかねているのか、今の自分には判断できない。どれも有り得るパターンだ。
深呼吸。肺に酸素が届ききらない。
汗が滲む。いや涙か?分からない。
指先が冷たい。耳鳴りがする。恐ろしい。
もう一度深く、ふかく息を吸う。縮こまった肺を無理矢理に押し拡げて咳き込んだ。その合間の息継ぎに、花のにおいがした。
ふと見れば窓が少し開いている。そんなことにさえ気が付かなかった。切り取られた空は明るく、どこまでも青い。
そうか、春なのか。
安堵か、感動か、絶望か。
分からないけれど、あれだけ苦しかった胸がどうしようもなくからっぽになった。
小さな幸せ:
気付けたら素晴らしいけど、意識して探すと結構難しいとも思う。
たとえば、一日じゅう天気が良くてあたたかいとなんとなく嬉しい。
だけど、花粉症が年々ひどくなるあの人を思うと少し複雑な気持ちになる。
あるいは、いつもより少し早く起きられると不思議と自分が立派に思える。
だけど、何も気にすることなく好きなだけ寝ていられるのも大いに贅沢だ。
今日という日があなたにとって良い日でありますように。
七色:
雨上がり、瞳の中の色彩に宇宙を見た。
星雲のような虹彩に取り巻かれた吸い込まれる暗闇の瞳孔、その奥で光を受ける水晶体が映す景色は本当に自分が見ているそれと同じなのか、まるで信じられなかった。
覗き込んでしまえば、この身が落とす影でその形も変わるだろう。それがひどく魅力的に思われながらも、凪いだ湖面に映る己を認めるのは躊躇われ、ただ見つめることがやっとだった。
瞬きのたび、射し込む光が反射している。
かすかに震えるしなやかな睫毛が穏やかな木漏れを思わせながら伏せられていき、水膜を湛えてまた陽光に向き合う。
「見て、虹が出てる」
横目に見れば確かに滲んでぼやけたような橋があったが、それよりもずっと近くにある瞳の宇宙から目を離したくなくて、中身のない相槌で誤魔化した。