忘れられない、いつまでも
(同性愛を匂わせる表現があります)
この間あった子は、サバサバしてて距離感が男友達みたいだった。ショートカットのよく似合う細身の背の高い彼女は、何食べたい?って聞いたら、ラーメンとか牛丼とか、なんならファミレスで良くね?なんて男まさりな口調で返して大きな声で笑う、朗らかで明るい子。ザ・女の子という感じの子が苦手な俺でも、気負わず話して遊んで、人付き合いの優先順位でも上位にくるような存在だった。
この間も、「ご飯作りすぎたから食べに来ない?」というメッセージを受け取って、俺はいつものテンションで通い慣れた彼女の家を訪れた。迎え入れられた部屋は、いつも通り綺麗に掃除されている、でも物が多くて雑然とした落ち着く空間だったし、何度も口にした彼女の料理も変わらず美味しかった。
缶チューハイをそれぞれ飲みながらだらだらと取り留めのない会話をしていると、不意に彼女がキスをしてきた。驚いた俺は彼女を押し退けて、「なにすんだよ」と睨みつけた。
「何って、わかるでしょ?」
「はぁ?」
「好き」
胸元を掴まれて、縋るように小声で「好きなんだもん」とつぶやかれた。普通なら、悪い気はしないなと思ったり、これはイケると思ったりするんだろうか。ぼうっと一般的な男の反応を想像できるほどに、俺の心は急速に冷えていく。泣き出しそうな彼女を見ても、さっきまでは友人として見ていた彼女であったというのに、今はもう全く違う気持ちの悪いものに見えてしまった。
「帰る」
強引に立ち上がり、振り返ることもなく部屋を後にした。玄関で靴をつっかけた時に、背後から「待って」という悲痛な声が聞こえたけど、俺はついぞ振り返ることをしなかった。
自分勝手であることは重々承知である。
「お前、それもうやめろよ」
「……なんだよ」
「男女の友情とか存在しねえから。何回目だよ、友達だと思ってた女に言い寄られて逃げ出すの」
喫煙スペースで2本目のタバコに火をつける同僚をぼうっと眺めていると、男は呆れ顔でそう言った。男は、俺の学生時代からの友人だ。出勤後、デスクで暗い顔をしていた俺を、昼休憩になるや否や、わざわざ会社外の人が寄りつかない喫煙スペースまで引っ張ってきて、男はタバコを吸いながら「今度はどんな女惚れさせたんだ?」と笑った。俺は舌打ちをして、胸ポケットからまだ中身の詰まったタバコの箱を出し、1本摘み出した。男は自分のタバコを咥えたまま顔を寄せてきて、俺もタバコを咥えて先端同士を近づける。軽く吸い込めば上手く火が移った。
紫煙を深く吸い込んで、俺は頭から説明した。サラサラのショートヘアで、うなじが白くて綺麗で、身長はお前と同じぐらいで、性格は、趣味は、最後はどうだったか。
「まじでやめろって。相手の子がかわいそう」
「別に俺はワンチャン狙って連んでんじゃねえの。出会いはそりゃ、アプリとかで会ったやつもいるけど。でも、友達として接してた奴が勝手に恋してきてるだけ」
「アプリで会う女なんて恋愛目的以外にないだろ。万が一恋愛目的じゃなかったとしても、お前が思わせぶりな態度とってんじゃねえの?マジでイイ性格してるよお前」
うはは、と男は声をあげて笑った。さらっとした細い髪が動作に合わせて揺れる。
「褒めてねえだろ」
「当たり前だろ。クソ野郎じゃねえか」
「お前に言われたかねぇよ」
「おい、俺は何もしてねえよ、奥さん一筋だわバァカ」
睨みつけても笑うばかりで相変わらず捕まえさせてくれない。酷い男だ。捕まえられないうちに別の人に捕まって幸せそうにしているんだからタチが悪い。
「まあ、昼飯ぐらいは奢ってやるよ。ラーメンな」
男はタバコを灰皿に押し付けて、ぽんぽんと俺の頭を撫でた。スキンシップが昔から多くて、なんだかんだ俺を最低だと罵るくせに甘くて、俺の悩みをわかってくれない、優しい男。
「……どーも」
「よし、行こうぜ。昼休み終わっちまうわ」
くるり、俺に背を向けて男は歩き出す。わずかに下に見える白いうなじには、ネックレスの留め具のゴールドがきらりと光っている。このチェーンには、男と、男を捕まえた最高にツイている女愛の証拠がぶら下がっているのだと思うと、口の中がタバコとは違う苦味で満ちる。
俺は男の後ろをついていきながら、しばらく用のなかったマッチングアプリを開いた。ショートカットの、背が高い、細身の女を探しながら、目の前を歩く初恋の男にまた舌打ちをした。
一年後
母が、煎餅が入っていた大きな空缶をくれた。中身は机の上に茶請けとして鎮座していて、私はそのうちの一つを手に取った。
「なんで急に?」
個包装の煎餅は、袋を破って齧り付くとばりんと小気味いい音を立てて崩れた。溢れてしまった破片を指に押し付けるように回収して袋の中に戻しながら、煎餅を咀嚼した。甘塩っぱい醤油の味がたまらない。
「なんか、懐かしくなっちゃって」
「何が?」
「幼稚園の頃、タイムカプセルを埋めたでしょう。あなたが覚えてるかは知らないけど、手紙やいろんなものを詰めて。あれ、開けるのは来年の予定なのよ。覚えてる?」
母は私と同じように煎餅を齧り、あつあつのお茶を啜った。
「ああ、あれねぇ」
ぼんやりとしか覚えていないが、子供の頃、ことあるごとにタイムカプセルを埋めたという思い出は残っている。校舎の側にあった小さな畑に銀色の缶を埋めたのは小学校だったか、幼稚園だったかは定かではないけれど。
「私はあなたが何を入れたかちゃんと覚えてるのよ」
「ええ、すごくない?私全然覚えてない」
「あっという間だったなぁ、こんなに大きくなって」
にこにこと笑う母に心がくすぐったく感じて、熱いお茶に口をつけて舌を火傷した。
「この缶、タイムカプセルにする?」
火傷した舌の先に押し付けるように氷を頬張りながら、私は何の気なしに呟いた。
「え?」
「お母さんと私の大切なものを入れておくの。10年後ぐらいに開けてみたらいいんじゃない?」
頬杖をついて母の方を向けば、一瞬眉根を寄せてからふっと微笑んで、「……面白いかもね」と呟いた。
「中身、お互いにわからないようにしとく?」
「いいじゃん。お母さん絶対にこっち見ないでよ」
「っていうか、10年って少し長くない?」
「あっという間だよ。私が35歳になったら開けよう。きっとすぐだよ」
結局、母も私も中身が見えないように小さな紙袋にそれぞれ思い思いの物を詰めて、一緒に缶の中にしまった。私は母への感謝の手紙と、母が行きたがっていた北海道旅行へ行けるようにと、貯金からお金を封筒に入れて、封筒にでかでかと「Go To SAPPORO」と書いた。
缶を埋めてしまって探せなくても困るので、実家の屋根裏に開ける日付を書いた紙を巻いてしまい込んだ。缶を屋根裏に押し込んだ母の顔は楽しそうで、どこかとても寂しそうだった。
まだ綺麗な封印の紙を破る。書類でとっ散らかってしまった机の上に雑に缶を置いた。開けるかどうしようか、悩んだ末に蓋に手をかける。
「……開けるよ、お母さん」
存外簡単に開いた缶の、上側にあった紙袋は私が詰めたものだ。手紙を取り出してそっと母の前に置いた。下に入っていた紙袋を取り出す。あの日、屋根裏で見た母の表情がまだ目蓋の裏にこびりついていた。
紙袋の中には、小さく折り畳まれたメモ用紙と、封筒。厚みのある封筒を先に手に取って中身をチラリと見る。「一緒に北海道に行こう!」とだけ書かれた付箋と共に、お札が何枚か顔を出した。
「……お母さん、なあに、これ」
私と同じこと考えてたんだね、そう思いながら今度はメモを開いた。手紙じゃなくて、本当に普通のメモだ。うさぎの絵が描かれた、キャラクター物の文房具などを置いていそうな店にあるような、ファンシーなメモ。
『黙っててごめんね、愛してる』
私はグシャリとメモを握りつぶした。
柄に似つかわしくない内容の文字は、間違いなく母の文字だ。半年前、病気の悪化で他界した、母の。
とっくに泣き尽くしたと思っていた私の目からぼろぼろと涙が溢れた。何も教えてくれなかった。通院をしていたのは知っていたけど、糖尿病の治療だと言っていた。私もそれを信じていた。悪性腫瘍があったとわかったのは、母が亡くなってからだ。こっそり治療していたようだが、完治することはなかった。あの日、あの一月後、私が実家を出た時にはもうすでに転移が進んでいたとか、なんとか。親戚たちは私がキャパオーバーにならないように、細切れに、残酷に、母の病のことを伝えてくれた。
「心配させたくなかったのよ」
この半年で聞き飽きた言葉だ。母はまるで死期を悟った猫のようだった。弱みを私に見せず、1人でずっと戦って、私にさよならさえ言わせてくれなかった。
ぐしゃぐしゃのメモを丁寧に伸ばして、仏壇の前に立つ。
「約束、守れなくてごめんね」
母に宛てた感謝の手紙を、お供物の一番上に置いた。たった一年じゃ、手紙の内容を忘れることもできなかった。
おりんを鳴らして手を合わせる。やっぱりあの日見た母の顔が過ぎって、頬を涙が伝った。
『お母さんへ』
『いつも、わたしのことを一番に考えてくれてありがとう』
『友達みたいなお母さんは、わたしの理解者で、憧れの人で、大事な人です』
『今まで与えてくれた愛を、これからは私がいっぱい返していくから』
『これからも元気でいてください』
目の前の彼女が柔らかく微笑む。なんてことはない普通の会話……「今日も暑いね」「明日は天気が崩れるらしいよ」程度の日常会話すら、きらきらと輝いているように感じる。ドキドキ高鳴る胸を押さえながら「最高気温は25度だって」「気圧が下がると頭痛がするから嫌だな」と、自分の持っている会話のパターンから、どうかキャッチボールが終わらないでほしいと願いながら選んだ言葉。彼女はまたふんわりと口角を上げた。
「じゃあ、これはお守りね」
彼女はカバンから可愛らしいポーチを取り出して、その中身をそっと差し出した。僕が手を出すと、ころりと手のひらには錠剤が入った1回分のシート。僕の家にもある、なんでもないただの鎮痛剤。
「いつも持ってるの。よかったら使ってね」
目を細めて彼女は今日一番の笑顔を浮かべて手を振る。「次の講義、あっちだから」と教室を後にした彼女に、僕はちゃんとお礼を言えただろうか。手の中のシートを、浮き立つ気持ちと一緒にぎゅっと握りしめる。好きだなあと思ったその瞬間、今までの僕ががらりと崩れる心地がした。