「私の名前」が今日のテーマだ。自分が親からもらった名前は、とても良い名前だと思うが、今の自分に似合っているかというと、あまり似合っていない気がする。綺麗な名前のとおりの綺麗な人間になれなくて申し訳ないが、名前なんてその程度のものだ、とも思う。3年前に自分の子供が生まれたときは、とにかく健康に長生きしてほしいと思い、それを表す漢字を名前に入れたが、成長した本人がそれを気に入るかどうかは分からない。人はみんな自分の名前を他人に決められているのだと思うと、なんだか不思議なものだ。
「視線の先には」が今日のテーマだ。自分は他人の視線が苦手だ。人前に立って発表やプレゼンをするのは大嫌いだし、それどころか、職場の同僚と話すときすら、あまり相手の顔を見ずに話している。どうしてかはよく分からないが、相手の顔をみるのがちょっと怖いというか、億劫というか、抵抗があって、とにかく顔を見ないで声だけで対応するほうがずっと楽なのだ。もちろん、それが良くないことだとは分かっている。相手から見れば、ちょっと失礼で、不審で、気持ちの通じない人間に見えるだろう。それにこちらにしても、相手の表情をしっかり見たほうが、読み取れる情報が増えるに違いない。
いつまでもこのままではいけない、と決意して、実は先月の初めから、ある作戦を実行している。教育現場で頻用される「ごほうびシール作戦」である。1日のうち1回でも、会話中にしっかり相手の顔を見たり目を合わせたりできたら、スケジュール帳のその日の欄に丸い紫のシールを貼る(家族は除外)。ついでに、誰かに名前で呼びかけることができたときも、丸い緑色のシールを貼る。人の名前を呼ぶことも苦手で、いつも「あの〜」とか「すみません〜」とか声をかけてばかりだからだ。
これらの作戦は、少しは効果を上げている。仕事中に「あっ、今がシールチャンスだ」と思ったときに、意識的に相手の顔を見たり名前を呼んだりできる、こともある。それでも、やっぱり疲れていたり落ち込んでいるときは無理だ。小さな丸いシールなんかよりも、「顔を見たくなさ」のほうが圧倒的に勝ってしまう。まだまだ修行が必要だ。1年間くらい続ければ、少しは変わるだろうか。
「優越感、劣等感」が今日のテーマだ。自分の場合、日常のなかで優越感や劣等感を感じるタイミングは、たいてい仕事中だ。例えば、後輩が自分よりも仕事で有能だったり勤勉だったり勉強家だったりすると、ひどい劣等感に襲われる。自己嫌悪で死にたくなるほどだ。逆に後輩の仕事ぶりがイマイチだと、自分の立ち場が安泰になったようで安堵する。我ながらひどい性格である。しかし仕事以外の場面では、そういった優越感や劣等感を感じることは少ない。例えば、自分よりもおしゃれで美しい人や、自分よりもお金持ちや、自分よりも体を鍛えている人と接しても、「ふーん」と受け流せる。「自分はもともと、その競技にはエントリーしていないし」という気持ちだ。もとから競技に参加していないのだから、負けようがない。逆に言うと、自分は「どれだけ勤勉に勉強して知識を蓄え、有能に仕事をするか」という競技に、いつの間にかエントリーしたことになる。いったい、いつエントリーしたのだろう。塾に通って必死に中学受験の勉強をした小学生時代だろうか。なんの競技にもエントリーせず、競争と無縁に生きられたら、さぞかし心が楽だろうな。
「私の当たり前」が今日のテーマだ。「私の当たり前」が「世間の当たり前」と違った、というのはよくある話だと思う。自分は子供の頃、全ての会話を議論だ思っていた、というか、会話と議論の区別がついていなかった。例えばこんな具合だ。
「私、リンゴが好きなんだよね」
「リンゴかあ、でも皮を剥くのが面倒じゃん」
「それはだいだいの果物がそうじゃん」
「バナナとかミカンは手で剥けるじゃん」
「でもリンゴのほうが(以下略)」
これは、別に相手のことが嫌いなわけではないし、機嫌が悪いわけでもない。相手の発言に対してなんとなく反論することで会話が続いていく、軽いディベートようなものだ。自分には姉と弟がいたが、家での兄弟の会話はたいていこのノリだった気がする。両親がふたりとも理系だった影響だろうか。
ところが中学生くらいになると、周りの女子達の会話は全然違う。
「私、リンゴが好きなんだよね」
「わかる。リンゴ美味しいよね」
「みためも赤くてツヤツヤしてて綺麗だし」
「いつでも売ってるし、値段も高くないしね」
「そう! イチゴとかブドウは高いもんね」
相手の発言を決して否定せず、ひたすらひとつの方向に進んでいく。とにかく同意と共感が大事。これがガールズトークというやつである。大人になった今では、この形式の会話にもなんとか乗れるようになったが、中学生の頃の自分はひたすらポカンと聞いているか、つい反論をして周囲から浮くかだった。あまりにも自分の「当たり前」と違う、異文化だったのだ。
「街の明かり」が今日の作文テーマだ。大学生の頃に、部活のメンバーでちょっとした山の上から街の夜景を見下ろしたことがある。街の明かりは宝石のようにキラキラと輝き、とても綺麗だった。その明かりのひとつひとつは、どこかの家庭の窓の光だったり、オフィスビルの蛍光灯の光だったり、店舗の看板を照らす光だったりしたはずだ。「この夜景の光が、人間が作ったものだと考えると、汚く思えるか、むしろさらに美しく思えるか、で性格が分かれそうですね」というようなことを、そのとき自分は言った気がする。それに対して部活の仲間達がなんと答えたかは覚えていない。たぶん、軽く流されたんだと思う。その頃も今も、自分は「汚く思える側」だけど、「美しく思える側」になりたいなぁと思っている。人間の営みを愛せるような人間に、いつか、なりたい。