行かないでと、願ったのに
あなたは今ある幸せを捨てた。
そして誰も手の届かない遠い遠い場所へひとり行ってしまった。
……ごめんなさい。わたしのせいでごめんなさい。
あなたの運命を大きく狂わせてしまった。
わたしはやっぱり疫病神だ。
うっすらと目を開けば小さな光が見えた。
それにそっと手を伸ばすと輝くなにかが指先に触れる。
――――あなたが残した懐中時計だ。
そっと懐中時計をなぞりながらあなたと過ごした時間を思い起こす。
どれも陽だまりのように優しくて穏やかで、どこか甘い。
あなたがわたしの肌に触れるたびにあなたの温度を感じて心が安堵した。
でももうそれもなくて。
『愛』を知らなかったわたしはこれが『愛』と知ってしまった。
贅沢なことにわたしのようなモノが『永遠の愛』というものに焦がれてしまう。
当然に『愛』はわたしに振り向くことはなかった。
それでもあなたといたいと思うのは我儘ですか?
モノクロ
色のない世界を彷徨い続けてどのくらい経ったのだろう?
だけど3110日目で数えるのを辞めた。
どこまでも続く白と黒の世界。
きっと死ぬまで延々と続くモノクロの世界。
諦めて光のない住人になったほうが楽と感じた。
手放したら意外と居心地がいいことに気づいた。
過去も未来もどうでもいいと思っていたのに。
塵のような小さな希望も捨てたのに。
それなのにきみが現れて魔法をかけていく。
白と黒の世界に色が付き始める。
青、黄、赤。
そしてそれらが混ざり合って橙、緑、紫と色が増えていった。
遥か昔に希望を捨ててきた僕。
捨てた場所は覚えてない。
見つけだして拾おうとも思ってない。
だからきみは僕を惑わす魔女にしか見えなかった。
コーヒーが冷めないうちに
白く霞がかった月がぼんやりと姿を隠して夜明の訪れを知らせにきた。
ピピピ……と繰り返される控えめな音。
それを細く長い指が止める。
「んーー……。もう朝ですか。準備しましょうか」
毎朝起床したらまずやること。
それは豆から挽く一杯の至福(コーヒー)。
ぼんやりしながら麻袋を開ける。スケールで生豆を測る。そして豆を挽きドリップペーパーを湯通しと、手際良くこなしていく。
ティーカップに注がれる淹れたてのコーヒー。そっと口づけて。
ふわりと漂う芳しい香りを楽しみながら。
一日が始まる合図。
時計の針が重なって
時計の針が重なっても非日常がやってくるわけではない。
時計の針が重なっても世界は別に変わらない。
時計の針が重なったとき誰かが死ぬ。
時計の針が重なったとき誰かが生まれた。
そう。時計の針が重なってもいつも通りの日常が回り続けている。それだけ。
でもふと目にしたとき、時計の針が重なっているとなんか嬉しくなる。
一時間に一度しか重ならない特別な時間。
その特別な時間に予定を入れよう。
キミの柔らかい部分をゆっくりと刻んで生き血を啜る特別な時間に。
僕と一緒に
聖夜の夜に舞い降りた一人の天使。
「僕と一緒に運命を変えてみない?」
フランス人形のような端正な顔立ちをした少年は甘く微笑みかけて。
彼女の指先をそっと取り手の甲に口づけをする。
そして艶やかな唇をゆっくりと動かして詠うように言葉を紡いでいく。
「君は選ばれたんだ。運命をまるごと変えるという魔法の切符を手にしたんだよ。それを使うか使わないかは君次第だけど。でもこのチャンスを棄ててしまえば君は一生檻の中で過ごすことになると思うけど。嫌じゃないの? こんなチャンスはもう二度と訪れない」
柔らかく微笑むその表情はまるで太陽のように輝く天使様にしか見えない。が、ぶるりと体が震える。この得体の知れない少年からとてつもない恐怖を感じるのだ。すぐに逃げ出さなくては、と本能が警鐘を鳴らす。
どこか歪で剣呑な光を宿す美しい少年。
このまま甘くにっこり笑む天使の手を取ってしまえば引き返せないのは明白だ。
だが……。
「うんうん。それでいい。いい子だね」
ふわりと微笑む天使は乾燥してる彼女の頬を優しく触れた。そして彼女のひび割れた唇と重ね合わせて。
「契約成立〜。じゃあ変えようか」
一縷の光は彼女に奇跡を起こした。