冷たい頬に手を添える。何度も触ってきた肌触りなのに、残酷のように冷たいそれにまた絶望する。
どれほど想ったって、もうこの人には何にも届かないのに僕は相変わらずまた考える。君を思い出す。
「死んだ人ってギリ耳は聞こえるらしいよ。人は一番最初に死んだ人の声を忘れるのに、声を拾う器官は最後まで生きるなんてどうなってるんだろね?」
脳内になるこの声は、明らかに目の前の人の声で、僕の脳内にまだこの声が残っていることに安心してしまった。思い出したのは、平日の昼の何気ない一言だった。高らかな笑い声と共に飛び出した言葉は、ちょっとしたうんちくのようなものだ。
「すきだったよ、すきだよ、なぁ、すきなんだよ、」
その言葉を信じて、僕は耳元で囁いた。派手な事故で鼓膜は破れているかも知れないけれど、今の僕にはそんな事どうだってよかった。
僕は、この人が堪らなく好きだった。
/届かないのに
初めて来た家の電気を勝手につけていた。暗闇の中当たり前のように手を伸ばした先にスイッチがあったのだ。そしてなぜだか懐かしいにおいがした。
「あれ…」
海馬がぶっ壊れてから数ヶ月。ここがどこだか、分からないけれど何か知っていて、知らないけれど何かわかる気がした。
「きおく、もどった?」
長年友人だという人の家に初めて来たはずなのに。目の前の人は目をまんまるにして希望を込めてそう言った。
耳鳴りがする、眩暈がした。
ビリビリになった記憶の地図が一枚になろうとしている。頭の中がぐちゃぐちゃとうるさい。知らない、初めて来た家なのに。トリガーは電気のスイッチだったなんて、ぼくは、おれは、お前は、そして、あの時は、
全ての破片が繋がった音が、僕の頭の中に爆風を蹴散らして響き渡った。鼻がツンとした。
/記憶の地図
祖母は、大人しそうな顔立ちとは相反して派手な色を好む人だった。
黄緑の服と祖母が幼い私には不釣り合いに見えて、思わず聞いてしまったことがある。
「おばあちゃんは何で茶色とか白い服を着ないの?」
祖母はいたずらっ子のように微笑んで、黄色のマグカップに入ったアッサムティーを口に含んで言った。
「好きな色と、似合う色は違うのよ。たくさん生きたご褒美に、私は好きな色に囲まれる生活を手に入れたの」
小学生の私はその意味がわからなかったけれど、不敵に笑う祖母の顔と派手な色が初めて綺麗にはまったと思った。カチッと音がした。それは私にとっての魔法だった。
孫にそんな話をしながら、私はビビットピンクのハンカチーフを取り出して孫の頬を拭くのだった。
/マグカップ
「もし、私が男の人だったら好きになってた?」
上手く息が吸えなかった。
「男顔だったら私、それなりにモテそう〜」
目の焦点が合わなかった。
「私は、君のこと好きだし」
彼女は楽しそうに笑いながら、ずっと傷付いたような顔をしていた。
「…ごめん、気持ちに応えられなくて」
「ううん、いいの。ちなみにさ、もしも、本当にもしもだよ?もしも君が、女の子にときめいてくれたらなぁ」
出来ない妄想や現実味のない話は得意じゃない。俺はこうしてまた一歩、俺を好きでなくなっていくのだった。
/もしも君が
美しく散ったのは、春の桜で、潔く諦めたのは、冬の僕だった。今でも時より夢を見る。
美しい君の隣を僕が歩いて、そうっと手を繋ぐ。緩やかにカールした黒髪の隙間から僕を見る笑った顔。
あるはずもない妄想だけが上手くなってゆく。
僕は散った桜より、往生際が悪かった。
/美しい