「赤、緑、青と言えば?」
黒板にチョークを走らせて振り返ると、ふたりの少年が元気に手を挙げた。
「光の三原色!」
「BTB溶液!」
「BTB溶液は違うだろ。黄、緑、青だよ」
「ふっ、無知めが。強酸だとBTB溶液は赤くなるんだぜ」
「何……しかし、光の三原色の方がお題に合った回答だろう。BTB溶液は斜め上に捻りすぎだ」
「光の三原色なんて、単純すぎるだろう」
「いや、BTB溶液の方が知識をひけらかしているようで、鼻につく」
「先生の前で、いい格好をしたいんだ。知識をひけらかして、何が悪い!」
少年たちが私の前で言い争いをしている。
やめて、私のために争わないで。
そう言いたかったけれど、言葉が出なかった。だって、BTB溶液の色なんて忘れていた。私が先生であることが、恥ずかしい。
でも、ここは科学教室じゃなく、お絵描き教室だから。思わず筆をぎゅっと握りしめる。
「君たちには素敵な才能があるんだね」
引きつった笑顔で、私はそう言うしかなかった。
濁った液をろ過しようとしたのに、注射器の先からは何も出てこない。押しても引いても一滴も出てこない。引いて出てこないのは、当たり前だけれど。
きっと、フィルターが詰まっているのだ。
私は注射器を逆さに向けて、液がこぼれないようにフィルターを交換した。そして、また注射器のヘッドをギュッと押した。けれど、やはり何にも出てこない。液がフィルターに染み込んで、ただ液量が少なくなるだけ。
こりゃ、駄目だ。
濁ったままで、どうにかしようとする根性がいけない。まずは、この荒んだ気持ちと濁った液をクリアにしないと。と、ぐうとお腹が鳴った。
「とりあえず、おいしいごはんでも食べようかな……」
食堂の日替わり定食は何だろうと考えながら、白衣を椅子に引っ掛けた。ちょっと、視界が明るくなった気がした。
8月31日、午後5時。
少し早いけど、もうこれで終わりにしよう。
私はキッチンに立って、包丁を取り出した。
「これで、もう解放される……」
思い切り包丁を振り下ろした。
まな板の上で、ニンジンが真っ二つに割れた。
しまった、浮かれて皮を剥くのを忘れていた。私はいそいそと、引き出しからピンク色のピーラーを出した。
「お母さん、今日のごはん何?」
次男がエプロンの裾を引っ張りながら、ジタバタしている。
「今日は豚こまのカレーよ」
「やったあ、カレーだ!」
彼は両手を上げて、テレビの前のソファに戻っていった。
この夏休みの頻出単語は、「ごはん何?」。
子供たちに野菜を摂らせようと大量に買ったキュウリは、瞬殺で消えた。
食費高騰に怯えて、自転車でスーパーを回って備蓄米を探した。
それもこれもみんな、振り返れば懐かしい思い出の日々。
全国のお母さん、おつかれさま。
A happy new term.
背中で聞こえる兄弟喧嘩のBGMすら、愛おしい。
さあ、明日から給食が始まるよ。
テレビ画面には、四人のおじさんが映っている。ステージの下から青い光に照らされているが、顔のシワは隠せなかった。
お母さんはリビングのソファに座り込んで、顎に手を添えながら、真剣な表情でおじさんたちを見つめている。
ボーカルは、細身の体にやや中年の丸みが乗ったシルエット。マイクの前で軽く息を吸うと、かすれた高い声が鳴り響く。顔の表情は真剣そのもので、汗が額をつたっている。
お母さんは、リモコンをまるでマイクのように握って、一緒に歌い出した。ボーカルと同様に、サビで目をつぶって歌に集中している。
☆
「カッコ良かった?」
歌唱が終わってもまだ、お母さんは胸に手を当てて、「ふー」と深い息を吐いている。
「カッコ良かった。最高……」
「……でも、ボーカル声出てなかったし、前より太って老けたよね?」
お母さんはパッと目を開け、背筋を伸ばして私の方を向いた。
「お母さんはね、昔の心の中の風景と、今の演奏を二画面で見てたの。だから、いいの」
「二画面?」
「一緒に歳をとったってこと。同じ時空を生きてくれてありがとう……」
お母さんは、顔の前で拝むように手を合わせた。中学生の私には、まだピンと来ない。
けれど、数十年先も、同じ人を同じように好きでいられる。それだけは、ちょっとした希望のような気もした。
目がかゆくて、鼻水が出る。
線路の両脇、陽光を浴びて夏草は密やかに茂っていた。風に吹かれるたび、ざわざわと波打つ草の列は、まるで海のようだった。自転車を漕いでも漕いでも、海は途切れない。
ここから花粉がやってきたのか。
暑いのにマスクしないとな……。
「というわけで、アレルギー検査をしようと思うんですよ」
そう言った私に、先輩は訝しげな顔をした。
「風邪じゃなくて、アレルギー?」
「はい。目がかゆいので、間違いないです」
「そっかあ……それたぶん、ブタクサだよ」
「えっ?」
ブタクサ。その葉はぎざぎざに尖ったアイツ。でも、ブタクサは秋の植物じゃないか。
「ブタクサには早いんじゃないですか?」
首を傾げる私を見た先輩は、ふっと笑って、カレンダーを指さした。
「8月29日。暑いけど、ブタクサは暑さ関係なくやって来るのよ。秋の暦が近づくとね」
秋の訪れはブタクサが教えてくれる。
全然、風流じゃない。けれど、鋭敏に。