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9/10/2025, 1:26:01 PM

「赤、緑、青と言えば?」
 黒板にチョークを走らせて振り返ると、ふたりの少年が元気に手を挙げた。

「光の三原色!」
「BTB溶液!」
「BTB溶液は違うだろ。黄、緑、青だよ」
「ふっ、無知めが。強酸だとBTB溶液は赤くなるんだぜ」
「何……しかし、光の三原色の方がお題に合った回答だろう。BTB溶液は斜め上に捻りすぎだ」
「光の三原色なんて、単純すぎるだろう」
「いや、BTB溶液の方が知識をひけらかしているようで、鼻につく」
「先生の前で、いい格好をしたいんだ。知識をひけらかして、何が悪い!」

 少年たちが私の前で言い争いをしている。
 やめて、私のために争わないで。
 そう言いたかったけれど、言葉が出なかった。だって、BTB溶液の色なんて忘れていた。私が先生であることが、恥ずかしい。

 でも、ここは科学教室じゃなく、お絵描き教室だから。思わず筆をぎゅっと握りしめる。

「君たちには素敵な才能があるんだね」

 引きつった笑顔で、私はそう言うしかなかった。

9/10/2025, 7:43:27 AM

 濁った液をろ過しようとしたのに、注射器の先からは何も出てこない。押しても引いても一滴も出てこない。引いて出てこないのは、当たり前だけれど。

 きっと、フィルターが詰まっているのだ。

 私は注射器を逆さに向けて、液がこぼれないようにフィルターを交換した。そして、また注射器のヘッドをギュッと押した。けれど、やはり何にも出てこない。液がフィルターに染み込んで、ただ液量が少なくなるだけ。

 こりゃ、駄目だ。

 濁ったままで、どうにかしようとする根性がいけない。まずは、この荒んだ気持ちと濁った液をクリアにしないと。と、ぐうとお腹が鳴った。

「とりあえず、おいしいごはんでも食べようかな……」
 
 食堂の日替わり定食は何だろうと考えながら、白衣を椅子に引っ掛けた。ちょっと、視界が明るくなった気がした。

8/31/2025, 11:24:07 AM

 8月31日、午後5時。
 少し早いけど、もうこれで終わりにしよう。
 私はキッチンに立って、包丁を取り出した。
「これで、もう解放される……」
 思い切り包丁を振り下ろした。

 まな板の上で、ニンジンが真っ二つに割れた。
 しまった、浮かれて皮を剥くのを忘れていた。私はいそいそと、引き出しからピンク色のピーラーを出した。

「お母さん、今日のごはん何?」
 次男がエプロンの裾を引っ張りながら、ジタバタしている。
「今日は豚こまのカレーよ」
「やったあ、カレーだ!」
 彼は両手を上げて、テレビの前のソファに戻っていった。

 この夏休みの頻出単語は、「ごはん何?」。
 子供たちに野菜を摂らせようと大量に買ったキュウリは、瞬殺で消えた。
 食費高騰に怯えて、自転車でスーパーを回って備蓄米を探した。

 それもこれもみんな、振り返れば懐かしい思い出の日々。

 全国のお母さん、おつかれさま。
 A happy new term.
 背中で聞こえる兄弟喧嘩のBGMすら、愛おしい。
 さあ、明日から給食が始まるよ。

8/29/2025, 12:45:07 PM

 テレビ画面には、四人のおじさんが映っている。ステージの下から青い光に照らされているが、顔のシワは隠せなかった。

 お母さんはリビングのソファに座り込んで、顎に手を添えながら、真剣な表情でおじさんたちを見つめている。

 ボーカルは、細身の体にやや中年の丸みが乗ったシルエット。マイクの前で軽く息を吸うと、かすれた高い声が鳴り響く。顔の表情は真剣そのもので、汗が額をつたっている。

 お母さんは、リモコンをまるでマイクのように握って、一緒に歌い出した。ボーカルと同様に、サビで目をつぶって歌に集中している。



「カッコ良かった?」

 歌唱が終わってもまだ、お母さんは胸に手を当てて、「ふー」と深い息を吐いている。

「カッコ良かった。最高……」
「……でも、ボーカル声出てなかったし、前より太って老けたよね?」
 お母さんはパッと目を開け、背筋を伸ばして私の方を向いた。

「お母さんはね、昔の心の中の風景と、今の演奏を二画面で見てたの。だから、いいの」
「二画面?」
「一緒に歳をとったってこと。同じ時空を生きてくれてありがとう……」
 お母さんは、顔の前で拝むように手を合わせた。中学生の私には、まだピンと来ない。

 けれど、数十年先も、同じ人を同じように好きでいられる。それだけは、ちょっとした希望のような気もした。

8/29/2025, 3:43:57 AM

 目がかゆくて、鼻水が出る。

 線路の両脇、陽光を浴びて夏草は密やかに茂っていた。風に吹かれるたび、ざわざわと波打つ草の列は、まるで海のようだった。自転車を漕いでも漕いでも、海は途切れない。

 ここから花粉がやってきたのか。
 暑いのにマスクしないとな……。

「というわけで、アレルギー検査をしようと思うんですよ」
 そう言った私に、先輩は訝しげな顔をした。

「風邪じゃなくて、アレルギー?」
「はい。目がかゆいので、間違いないです」
「そっかあ……それたぶん、ブタクサだよ」
「えっ?」

 ブタクサ。その葉はぎざぎざに尖ったアイツ。でも、ブタクサは秋の植物じゃないか。

「ブタクサには早いんじゃないですか?」
 首を傾げる私を見た先輩は、ふっと笑って、カレンダーを指さした。

「8月29日。暑いけど、ブタクサは暑さ関係なくやって来るのよ。秋の暦が近づくとね」

 秋の訪れはブタクサが教えてくれる。
 全然、風流じゃない。けれど、鋭敏に。

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