「いつの、何の別れ際。どこで誰との別れ際。
別れ際に何をするとか、どこに行くとか……?」
5月頃に、「突然の別れ」ってお題は書いた。
某所在住物書きは過去配信分のお題を確認しながら、ぽつり、ぽつり。
現代・日常ネタ、続き物の連載風で文章を投稿しているため、「別れ」そのものは何度か書いている。
今回の題目は「別れ際」。
日常的な別れから、セーブデータ誤削除等による悲劇、恋愛沙汰、人生最大の際まで、執筆可能なネタは幅広い。広いのだが。
「恋愛沙汰と閉店ネタは去年書いたし、セーブデータご削除の別れ際なんざ俺のトラウマなんよ……」
当分、執筆作業は始まりそうにもない。
――――――
食材の買い出しで近くのスーパーに行ったら、
ちょっと昔の数週間〜1ヶ月くらい前にプチバズしてた、地方のお菓子が入荷してた。
たしか私の先輩の故郷のお菓子だ。伝統の餅菓子に、チョコをコーティングしたやつ。
バズった本家の正規品じゃなくて、ジェネリックお菓子の方らしく、名前も包装も違う。
でも気になった。 おいしいらしい。
ただジェネリックのくせに値段が高い。
(プラボトル約100g入りで700円税別)
『藤森の故郷の伝統お菓子のジェネリック??』
付烏月さん、ツウキさん。ふたりして半額づつ出してスイーツを一緒に食べようよ。
休日の曇天、ちょっと涼しい昼下がりに、同じ支店で仕事してる同僚さんに通話相談。
『なに、後輩ちゃん、食べたいの?』
付烏月さんは最近お菓子作りがトレンド。スイーツバイキングとかのお誘いは基本乗ってくれる。
基本、乗ってくれるハズなんだけど。
『あのね、今別れた嫁に売られて行方不明だった息子の救出ミッション中なの。ごめんねぇ』
ガッツリ独身でぼっちの付烏月さんが言った。
要するに今日は都合が悪いらしい。
仕方無い。故郷の先輩本人を誘おう。
『私の故郷の、伝統菓子のジェネリック?』
せんぱい、藤森先輩。ふたりして半額づつ出してスイーツを一緒に食べようよ。
同僚の付烏月さんとの割り勘計画、ゲホゲホ!
スイーツのシェア相談が決裂したので、今年の2月まで一緒の本店で仕事してた先輩に通話相談。
『ジェネリック「を」、食いたいのか?それともジェネリック「しか無かった」のか?』
先輩はあまり糖質を欲しがらないけど、故郷のものは大好きで、そういう誘いは基本乗ってくれる。
基本、乗ってくれるハズなんだけど。
『すまない。実は今、
……え? ……は? ………はぁ、分かった。
すまないが高葉井。今娘を売っ払った、夫?の浮気現場?の確保と、お別れ会?の最中、らしい』
ガッツリ独身かつ、最近恋愛トラブルが綺麗さっぱり解決したばっかりの先輩が言った。
つまり、今日は都合が悪いらしい。
これ確実に先輩と付烏月さん一緒に居るよね。
何してるんだろう。
「ジェネリックスイーツに700円は、うーん」
本家本物とほぼ同額を、「実際に食べたい方」じゃない方に使うのはちょっと、私としてはヤダ。
他のお客さんが「ジェネリックでも話のネタとしては十分だよ」って、プチバズスイーツのボトルをひとつ、ふたつ、持っていく。
ひとり、またひとり、また1個2個。
ポツポツ減っていくボトルに、私は値段を一番の理由に、さよならバイバイした。
別れ際に40代男性が一気に伝統菓子ボトルを3個カゴに突っ込んだのを見て、
一瞬「やっぱ買っといた方が良いのかな」って気持ちがバチクソに揺らいで売り場に戻ったけど、
やっぱり、値段が値段だったから、結局やめた。
半額の加熱用野菜セット、半額のお肉、食べたことないライ麦食パンとパッキン便利ないちごジャム&マーガリンなんか突っ込んで、お会計。
帰りにふと雑貨屋さんを見たら、
息子の救出中らしい付烏月さんと
浮気相手処理中の先輩が
ふたりしてディスプレイされてるコタツの前でなにやら熱心に議論と相談とを繰り広げてた。
別れ際に付烏月さんと目が合ったけど、どっちのコタツを買おうとしてたのかは分からなかった。
「『雨』もね。3月から数えて5例目なのよ……」
どの「雨」が何月何日に出題されたかは、8月27日投稿分「雨に佇む」の上部にまとめてあるから、気になったらどうぞ。某所在住物書きはポツリ、降雨の外を気にしながら言った。
「物語に出てくる『通り雨』も、3月24日あたりの『ところにより雨』に似たところが有る気がする」
つまり、一部地域にしか降らない筈が、まさしくその「一部地域」に、自分が居るシチュエーション。
二番煎じが無難かと、物書きはため息を吐く。
雨、空、恋愛ネタ、年中行事のお題が比較的多いこのアプリである。今後も「雨」は続く。
去年は11月に「柔らかい雨」なるお題が来た。
12月からは「雪」になる。降り続く降雨降雪によるネタ切れの風邪に、注意しなければならない。
――――――
最近最近の、おはなしの前座。
コウハイ、高葉井という元物書き乙女の社会人が、夜の通り雨のイタズラに、服を濡らしながら家路を急いでおったのですが、
パタリ、視線の先の一点に目を留めて、数秒ないし十数秒、立ち止まったのでした。
「先輩?」
ナイトカフェのオープンテラスのパラソルの下。
高葉井の職場の先輩が、ひとり、座っています。
メニューボードを見る佇まいはどこか空虚。
先輩は名前を、藤森といいます。
何かあったらしい。
藤森と長い付き合いの高葉井、後輩の勘です。
何があったのだろう。
高葉井が先輩のパラソルに相席したところから、
本編・本題の、はじまり、はじまり。
…――「酒でも飲んで、酔いつぶれて、勢いで暴言でも送ってやれば良いのか、と思ったんだ」
別に思い詰めてる風でもない藤森は、ただ平静。
「縁を完全に切った筈の例の『初恋の人』から突然メッセージが来たんだ。『元気ですか』と」
あぁ、「例の初恋の人」。
後輩の高葉井、すぐ思い当たります。なんなら高葉井自身も初恋さんから迷惑を被ったのです。
藤森には約10年前、恋人がいました。
その恋人は自分から藤森の心魂をズッタズタのボロッボロにしたくせに、
いざ藤森が恋人さんから逃げると、約10年後の今更になって、「ヨリ戻して」と追ってきました。
藤森と高葉井はその他約2名と結託して、
今年ようやく、完全に、恋人と藤森の縁を完全にバッサリ切り離すことに、成功したのでした。
だいたいのことは過去作5月25日投稿分参照ですがスワイプがバチクソ面倒なので気にしない。
ともかく、藤森の悪しき初恋さんが、縁切ったのに1通メッセージを送ってきたのです。
藤森としては完全に寝耳に水。
傘無しの通り雨、夕立ち、ゲリラ豪雨。
いつも通り未読スルーすべきか、それこそ暴言でも吐いて今度こそ完膚無きまでに縁を断つべきか。
藤森、考えておったのでした。
「先輩、お酒飲んでも酔わないし寝ちゃうじゃん」
後輩もとい高葉井、藤森が見てるメニューボードを引っ手繰り、通り雨の雨宿りに丁度良いノンアルコールとおつまみとスイーツを少し注文。
雨が止むまで居座る魂胆です。
「慣れないことしないの」
そもそも先輩の心を傷つけたやつのことなんか、ブロック&スルーの一択で良いのに。
高葉井はそう付け足して、藤森が勝手に高度数のお酒を頼まないように、自動的にコーヒーを1杯。
藤森のために、勝手に頼みました。
「なんで先輩、わざわざ自分を傷つけた相手にまで真面目に誠実に対応するのさ」
「そのような意図や魂胆は無い」
「だって事実そうして、向き合ってるじゃん」
「今度こそ関係の息の根を止めるためだ」
「はいはい。悪役のフリしないの」
「嘘は言っていない。事実だ」
「本音でも本心でもないでしょ。はいはい。ケーキセットが届いたから一緒に食べよ」
「夜の糖質は太るぞ」
「あーあー聞こえない。耳圏外。電波障害」
相変わらず先輩は真面目なんだから。
通り雨の雨宿り目当てで、ナイトカフェのパラソルに相席した高葉井は、大きなため息ひとつ。
そのまま藤森の話を聞いて、共感して、飲酒の無茶したがるのを全力で阻止して、
最終的に通り雨が通り過ぎる頃、初恋さんがメッセージを送ってきた捨てアカウントに律儀に、誠実に返信して、ブロックしてから、
夜の背徳スイーツと洒落込みましたとさ。
「『春爛漫』、『夏』に続いて、ダイレクトな季節ネタのお題。絵文字付きは初よな」
今年の「春」は山椒の葉と桜の塩漬け、去年の「夏」は虫刺されの薬とホタル見に行く話書いた。
某所在住物書きは過去作を辿り、昔々の記事へのアクセスが相当困難であることを再認識した。
インストールが去年の春である。現在秋だ。
4月11日投稿の「春爛漫」など何ページ前か。
「で、夏日真夏日残る時期に、何だって?」
ところで「秋」の花といえば彼岸花。
ネット情報ながら、彼岸花の花が一斉に、似た背丈で咲き揃いやすいのは、「春」のソメイヨシノ同様、彼等・彼女達がクローンであるためだという。
日本の北限は秋田付近。そこより北では「田んぼの畦道に彼岸花の赤帯」は非常に珍しいとか。
なおマイナーな秋花としてはセンブリが――
――――――
カレンダー上は秋の東京、残暑残る都内某所、防音防振整った某アパートの一室、夜。
部屋の主を藤森というが、18時頃は少なくとも月の見えていた窓を背に、
新米で作られた餅を置いたテーブルを挟んで座り、
「げんせーな、シンサの結果、」
向かい側では、不思議な不思議な子狐が、
コンコン、言葉を喋っている。
「今年の『狐のお嫁さん』は、おとくいさんに決定となりました」
テーブルの上の餅を、商品として持ってきた子狐は、ご利益豊かな稲荷神社の神使。
善き化け狐、偉大な御狐となるべく、餅を売り、人を学んでいる最中。
藤森はこの不思議な餅売りの、唯一の得意先である。
目の前で狐がものを言う珍事に、藤森はいつの間にか慣れてしまった。
しかしそれでも解せぬのが、今晩の単語。
「狐のお嫁さん」とは。
「……」
素っ頓狂な藤森の、開いた口は開きっぱなし。目はパチパチ、まばたきを繰り返す。
「秋の夜長」なる言葉がある。
「秋の夢」なる季語もあるという。
自分はいつの間にか、夜長の夢の中にストン、落ちていたのだろうか。 違う。違う筈である。
「ユイショ正しい、古くから伝わるギシキなの」
コンコンコン。子狐の補足は相変わらず意味不明。
「秋のおまつりなの。狐のお嫁さんは、ウカノミタマのオオカミサマの化身役なの」
なんなら本人、本狐もよく理解していないのだ。
小さなメモ帳の、明らかに大人が書いたであろう文字を、目で追いながらのコンコンであったから。
「稲刈りが終わりに近づく、9月最後か10月最初の満月の次の日、十六夜の夜に、キツネのととさんと、ケッコンするフリするの」
藤森の理解と状況把握を置き去りに、子狐はただ、しゃべる、しゃべる。
「稲荷神社で、ケッコンして、誓いのおさけ、イッコン傾けるの。ウカサマの化身役のお嫁さんは、たくさんのお料理と踊りで、オモテナシされるの。
お料理と踊りで満足したウカサマ役は、最後に『来年も、商売繁盛、五穀豊穣』って言うんだよ。
ヨシュクゲーノ、『予祝芸能』っていうの」
理解が迷子。説明が為されているのに脳内が静寂。
藤森はただポカンであった。
「何故私なんだ」
「げんせーな、シンサの結果なの」
「狐の、『お嫁さん』だろう」
「狐のお嫁さんは、美人さんなの」
「私のどこが『美人さん』だって?」
「あのね、おとくいさん。
おとくいさんは、去年3月1日の1作目投稿から今日の最新作まで、たったの1回も『男』と明言されてないし、『女』とも断言されてないし、『彼』とか『彼女』とかも、一切特定されてないんだよ。
だから男かもしれないし、女かもしれないんだよ」
「は……?」
駄目だ。理解が追いつかない。こういう時に振るという◯◯値チェック用のダイスとやらは何処だ。
藤森は完全に頭の中がパンク状態。頭を抱えて、大きなため息を吐く。
「謹んで、辞退させて頂く」
ただ選任拒否を述べ、再度息を吐いて、思考タスクの過負荷で重くなった頭と視線を子狐に向けると、
「じたい……?」
今度は子狐の方が、口をパックリ開け、固まった。
おいしいお料理、いっぱい、食べないの……?
驚愕に見開かれた狐の目が、声無く藤森に訴える。
双方無言が続き、藤森の部屋は再度静寂に包まれた。
防音防振・都内の部屋に、秋の虫は響かない。
「部屋の窓、車窓、潜水艦の窓に監察窓、
ネットの検索窓とか窓際族とか、心の窓もあるな」
他には?某所在住物書きはそれこそ「検索窓」から、「窓」の1文字を持つ言葉を検索して、結果としての景色を確認している。
7月2日のお題が「窓越しに見えるのは」だった。
あの日は狐の窓を取り扱った筈である。
「そうだ、絵本……」
絵本は子供が世界を見る身近な窓。
ページをめくるたびに見えるファンタジーでお題回収が可能かもしれない。物書きはひらめいたが、
この物書き、絵本ネタは6月16日頃のお題「好きな本」で既に投稿していたのだった。
で、どうしよう。 検索窓の景色を再度見る。
――――――
本は極めてアナログながら、文字だの絵だの写真だので様々な世界を見せてくれる、一種の窓です。
図鑑は遠く離れた地の狐の寝姿を、
絵本はかつて昔の日本を舞台にしたおとぎ話を、
専門書はどこかの裁判官が下した判決の根拠を。
めくるページを窓にして、見せてくれるのです。
今回物書きがご用意したおはなしは、本を窓に見立ててお題回収するおはなし。
最近最近のおはなしです。都内某所のおはなしです。広めの貸し倉庫を図書館のように本棚と書籍で整えた藤森という雪国出身者がおりまして、
娯楽文学ゼロ、雑誌も写真集もナシ、ただ専門書と実用書とお高めの図鑑なんかが置いてあるそこは、
図書館用語で言うところの、「7類と9類がスッポリ抜けた開架書庫」。
つまり芸術と文学に限りなく乏しいのです。
で、そんな藤森のプチ倉庫図書館に、本日ひとり来館者がお見えになりまして。
「バチクソ久しぶりにね、アナログのスケジュール手帳に、日記とか予定とか手書きしてるの」
彼女はこの倉庫図書館の館長たる藤森の、職場の後輩。藤森とは長い付き合いでした。
「『マジメ』って書こうとして、漢字忘れて、
『真 自 面』って書いちゃったの。
なんで『真 面 目』って書くんだろ、って」
気になっちゃってさ。藤森の後輩はそう付け足して、辞典の見開き、文字の窓から見える景色をパラパラ眺めておりました。
「ネットで調べれば、すぐだろう」
館長の藤森、せっかく倉庫の鍵を開けたので、庫内の掃除などホウキでサッサカ、さっさか。
「『元々仏教用語、シンメンボク』と」
何故か肩に遊び盛りの子狐が乗っかっています。
おててとあんよでバランスとって、カジカジ、噛み噛み。自分から伸びるハーネスだの藤森の髪の毛だのにイタズラする子狐は、稲荷神社の子狐。
藤森、散歩をお願いされたのです。
仏教ネタに稲荷のコンコンとはこれいかに。
「それそれ。シンメンボク。
そこから他の仏教ネタが気になったの」
「『他の仏教ネタ』?」
「仏の顔も三度とか、仏頂面とかは知ってるけど、実は八ツ橋もたくあんも仏教にゆかりアリって」
「それで?」
「なんか一気に気になっちゃって『先輩ならバチクソ分かりやすい仏教用語辞典持ってそう』って」
「何故そうなる」
「だって事実」
「まぁ、1〜2冊程度は、ひょっとしたら。仏教系も興味半分で購入した……気がしないでもない」
「ほら事実」
ぎゃぎゃっ、きゃんきゃん、くわぁーっ!
藤森に乗っかっている子狐、突然尻尾をビタンビタンして、そこそこ大きめの声で鳴きます。
仏教だけでなく神道、特に稲荷系の書籍も買え!
と言っているのでは、ないのです。
料理の本を見つけたのです。しかも背表紙においしそうな、鶏肉料理が描かれています。
くわぁー、くわぁあーん!
狐は雑食寄りながら、お肉がとっても大好き。
コンコン稲荷の子狐、美味しい肉を見たいのです。
「子狐すまない、さすがに耳元の至近距離でお前に吠えられるとだな。……子狐、こぎつね?」
困り顔で掃除を続け、美味しそうな背表紙の本を通り過ぎた藤森の無慈悲な仕打ちに、子狐コンコン、十数秒ほど鳴き続けました。
「仏教カフェ?」
子狐の声もどこ吹く風。藤森の後輩は『無神教にも分かりやすい仏教語辞典』なる本を手繰って、
ぱらり、ぱらり。ぱらぱら、パラリ。
書籍の見開き窓から見える仏教の景色をチラ見。
「ぶっきょうかふぇ……?」
自分の知らない世界が目について、なんならそれの所在地まで載っておりましたので、
後輩、一瞬で目が点になってしまって、
それは狐につままれたようであり、あるいは、荼吉尼天様にイタズラされたような顔でもあったとさ。
「『無形』文化財、『無形』資産、『無形』商材、それから仏教用語の『無形(むぎょう)』。
……意外と『形』が『無い』って多いのな」
ぶっちゃけ「目に見えないもの」も「無形」と定義するなら空気も無形だし、液体は確実に形無いし。
まぁ、まぁ。自由度はそこそこ高いわな。
某所在住物書きは、「無形」の検索結果を辿りながら、どれが書きやすいだろうと首を傾けた。
「仏教用語ネタは4月頃、『無色の世界』ってお題を『ムシキの世界』って読んで一回使ったわ」
二番煎じが無難だろうか。「形を持たぬ」と「形が定まらぬ」は異口同音であろうか。
物書きは云々悩み、今日もネタ探しを開始した。
――――――
最近最近の都内某所、某アパートの一室。
近々最高30℃台が再来する予報ながら、ようやく最低気温の予測に20℃以下が登場し始めた頃。
寒い。
と感じて覚醒した部屋の主、藤森は、ベッドから薄手の毛布が1枚、落ちていることに気が付いた。
今藤森を包んでいるのは、やや厚手のタオルケットだけ。枕元のスマホ、天気予報ウィジェットは珍しく外気温18℃を示している。
窓を開けているので、ほぼ同温の周囲であろう。
20℃未満の数字は、彼に秋の到来を予告していた。
真冬の8℃や10℃、それどころか最高零下でさえ、どうということもないのに、
この時期、暖から寒へ変わろうとしている転換期の冷涼、15℃だの16℃だのは、幼少時を雪国で育った藤森とて、苦手としているところである。
ましてや朝のタオルケットの中とあっては。
(朝飯、どうしよう)
毛布床に落ちているとはいえ、タオルケットの中はそこそこ快適な温度を、すなわち涼しさと温かさの中間を保持していた。
おお、形の無いものよ、日中の残暑と朝夕の冷涼との寒暖差よ。すなわち四捨五入10℃の開きよ。
汝の名は数値であり、季節の境目であり、
つまり暑さに慣れてきた体への無慈悲である。
(……さむい)
外に出たって寒々しいだけだよ、中にいなよ。
文字通り「涼しげな」ささやきで誘惑する室温は、藤森を二度寝のまどろみに押しやる。
通勤のために部屋を出る必要のある時刻までは、まだ間がある。こんな寒いさむい時間帯から活動せずとも良いじゃないかと。
(どうせこれから、日中は暖かくなる。
シリアルで十分か?それとも、久しぶりにこの室温だし、温かい茶を淹れて、茶漬けでも?)
タパパトポポトポポ。
ティーポットから、茶香と湯気たつ不定形の、確固たる形持たぬ、80℃90℃程度の平和が、
低糖質にして炊飯の手間無きオートミールで代用されたカップと、海苔茶漬けの素の上に注がれる想像。
きっと至福であろう。
それを食うためであれば、眠気に抵抗し、微妙な寒さを跳ね除けて、タオルケットの外へ出てゆくのも、やぶさかでない。
「……」
勇気を出して、タオルケットから右手を、肩を出す。
頭上の枕をつかみ、僅かに外へ体を出してみる。
「さむい」
しつしつしつ、と下りてきた19℃が、適温の安全地帯から逸脱した手を、腕を、何より背中を包んだ。
藤森はそれに抵抗することなく、もそもそ、ぬくもりの中へ退却した。 無条件降伏であった。
(なぜこの時期の20℃未満はこんなに寒いんだ)
そういえばエアコンのスイッチはどこだったか。
藤森はベッドの上から周囲を見渡した。
眠気酷い目に映るのは、綺麗に整えられた室内。
目標物はテーブルの上で無造作に鎮座している。
テーブルまでは少々距離があり、
それはつまり、室内を温めたいなら一度寒い思いをしなければならぬという世の不条理を示していた。
不条理に異を唱えるか、
寒気に身を晒すか、
タオルケットの温かさに服従するか。
「……」
悶々5分ほど毛布の中で悩んで、
最終的に、藤森はそのまま意識を手放してしまった。
その日の無形・不定形の平和は、結局80℃90℃の温かいほうじ茶ではなく、5℃から10℃程度の柚子入り冷茶になったとさ。