「3月28日に、『見つめられると』ってお題が配信されたばっかりだし、多分『目』にせよ『瞳』にせよ今後何度かお題として遭遇するんだわ……」
先月の「安らかな瞳」に「見つめられると」、それから去年7月の「澄んだ瞳」に「目が覚めると」、あるいは「空を見上げて心に浮かんだこと」。
空ネタのほどじゃねぇが、視覚関係もある程度、このアプリのお題の常連よな。
某所在住物書きは過去のお題を辿りながら呟いた。
視覚は多いのに、聴覚は少ない。
お題の偏りが物書きのネタの枯渇に関与しており、
ゆえに、ある意味それらは「いかに類似のお題を別視点から切り取るか」の訓練になり得ている。
「去年は『君の目を見つめると本当のことを話しづらい』ってネタで書いた」
物書きは言った――今回、どうすっかな。
――――――
今年の3月に忙しい本店からチルい支店に異動になって、早くも1ヶ月と1週間が経過した。
2月29日まで一緒に仕事してた先輩は私と別の部署に異動になって、未だにどこに居るか分からない。
原因は先輩の元恋人さん。
8〜9年前に先輩の心をズッタズタにしたくせに、
かつ、それが元で先輩に逃げられて、去年やんわり先輩から縁切り宣言されたのに、
その元恋人さんが、ウチの職場に就職してきて、それと入れ替わりに先輩と私が異動。
元恋人さんは加元、先輩は旧姓を附子山、今は藤森っていう名前だ。
支店でお仕事するにあたって、先輩のかわりに私とタッグになったのが、「自称旧姓附子山」。
付烏月、ツウキっていうひと。
このひとがとんでもないスキル持ちで、
ともかく自家製スイーツが美味しい、
もとい、人の表情だの脳内だのにバチクソ詳しい。
じっと相手の目を見つめて、順番にケーキの名前を列挙していくだけで、そのひとの好きなケーキだの嫌いなケーキだのを言い当てる。
独学だと付烏月さんは言う。脳科学の応用らしい。
心理学とは、違うのかな。
「視点の違いだろうね〜」
「してん?」
桜満開の東京は、例の感染症が5類に移行してから爆発的に国内外の観光客が増えてきて、
今年は天気も悪いし、宅飲み&宅花見で我慢してる。
久しぶりに先輩のアパートに、お酒とから揚げ棒と塩こんぶ持って遊びに行ったら、
先輩の姿は無く、自称旧姓附子山の付烏月さんがキューブのレモンケーキを作ってた。
から揚げ棒のから揚げと、塩こんぶと春キャベツとスモークサーモンとおしゃれオイルで、即席のおつまみを作ってくれた付烏月さんに、聞いてみた。
『なんで目を見つめるだけで心が分かるの』と。
『脳科学って言ってたけど心理学じゃないの』と。
……視点の違い is なに。
「例えばね、後輩ちゃん」
春キャベツを追加しながら、付烏月さんが言った。
「俺が、君の目を見つめるとする。
『更にミラーリングすると、より好意を引き出しやすいでしょう』、『タッチングは相手に安心感を与えやすいでしょう』。人と人の関係が心理学。
『目を見つめることで、相手も自分もオキシトシンが増えます』、『オキシトシンは、絆の強化にも攻撃性の強化にも繋がるので、場合によっては不快に思われます』。相手の頭の中だけで完結するのが脳科学」
まぁ、独学の付け焼き刃な素人のオキモチだけどね。
付烏月さんはそう言って、私の目を見つめて、
右の唇の端を、吊り上げた。
「俺、今作り笑いしてるよ。どう見える?たとえば、顔の左右でどう違う?」
「右だけ口角上がってる」
「そう。作り笑いは、意識しないと左右の対象性が崩れちゃうことが多いの。脳が意図的に顔の筋肉動かして、本能と違う表情を作ってるから。
特に『本当は嫌いなのに』の『嫌い』は、顔の左側に残りやすいとされてるよん」
「はぁ」
「ちなみに今後輩ちゃんは、『そんなことどうでも良いから塩こんぶキャベ食べたい』って思ってる」
「それも私の目を見つめて分かること?」
「単純にさっきからキャベツちらちら見てるから」
お客様、階下の桜とキンキンに冷えたお酒をどーぞ。
作り笑いを解いた付烏月さんがフッて顔を綻ばせて、冷蔵庫からチューハイとビールを持ってきた。
相手の目を見つめるとして、作り笑いが左右非対称だっていうなら、
きっと今の私は完璧な左右対称のニッコリだと思う。
「『星』は今後、複数回のお付き合いなんだわ……」
先月3月15日にも、「星が溢れる」ってお題が来てたわな。あと近いうちに流れ星が来て、数カ月後に「星空」と「星座」なんよな。
星か。某所在住物書きは呟いた。星が複数回、月も2回程度、「空」が付くものはたしか10くらい。すなわちこのアプリにおいて、単純計算として月に1回は星だの空だののネタが来るのだ。
その中でいかにネタを枯渇させずに書ききるか。
物語投稿者には、ひとつの試練と言えよう。
「去年は星を花に見立てて乗り切ったわ」
物書きは言った。
「つまり、星じゃなくて空の方だが、去年やらかしたのよ。『空』のお題に対してストレートに空をメインに据えたハナシ書いて、段々ネタが枯渇して……」
――――――
最近どうも雨ばかりの東京です。そもそも地上が明るくて、「星空の下で」というより「星空を下にして」日々を歩き続けている人間の住む東京です。
LED照明、液晶看板、高層建築へのプロジェクションマッピングに、満開を迎えた桜のライトアップ。
光、ひかり、ヒカリ。東京は、光に溢れています。
そんな最近最近の都内某所、某稲荷神社の昼を舞台に、不思議な子狐のおはなしです。
この某稲荷神社、都内にしては結構深めな森の中にありまして、人間に化ける妙技を持つ化け狐の末裔が、家族で仲良く暮らしておりました。
そのうち末っ子の子狐は、善き化け狐、偉大な御狐となるべく、絶賛修行中。
稲荷のご利益と狐のおまじないをちょっと振ったお餅を売ったり、たまに郵便屋さんごっこをしたり。
昨日は大好きな大好きなお得意様に、お得意様の後輩からのお手紙を届けました。
今日はお得意様の後輩の部屋に、お得意様から後輩へのお返事を届けました。
配達料として貰ったお稲荷さんは、子狐のお気に召したらしく、秒で胃袋に収容されました。
『相変わらず先輩、手紙が報告書か社内文書』
そういえば後輩さん、こんなことを言っていました。
『総務課異動が「当たらずも遠からず」……?』
コンコン子狐、子供だし狐なので「ソームカイドー」を知りませんでしたが、
お稲荷さんのテイクアウトを追加で貰ったので、ぶっちゃけ、気にしませんでした。
さて。
郵便屋さんごっこのひと仕事を終えた子狐です。
テイクアウトのお稲荷さんを手土産に、参拝客ゼロな曇天の神社の敷地内、山桜の咲く木の下で、近所の猫又子猫と化け子狸も呼んで、お花見を始めました。
「総務課っていうのは、給料高い人のことよ」
雑貨屋さんをしている子猫又が言いました。
「お店のまとめ役だもの。きっと、給料いっぱい貰ってるに違いないわ」
今ウチで、新生活応援キャンペーンしてるの。紹介しといてちょうだい。
しっかりものの子猫はニャーニャー、子狐に自分の名刺とお店のチラシを渡しました。
「給料、たかい、」
「総務課だもの。備品の管理とか郵便の仕分けとか、ともかく、すごく大事なことをしてるの。だからいっぱいお金を持ってるのよ」
「ホントかなぁ」
「だって、ウチのゼネラルセクション、社長室の隣にあるもの。間違いないわ」
「ぜねらるせくしょん?」
「正しくはゼネラルアフェアーズだったかも」
「わかんない」
「要するに偉いの。いっぱいお金があるの。今度一緒に営業に行きましょ」
コンコン、ニャーニャー、稲荷神社の子狐と雑貨屋の子猫は2匹して、人知れず、秘密の業務提携。
総務課や庶務課の位置づけは業種によって微妙に違うから、イチガイに「皆給料高い」は難しいんじゃないかなと、化け子狸は言いたそうですが、
結局言葉にできず、口をキュッとして、かわりに温かい狭山茶の2煎目を淹れます。
星空のように満開の山桜は、ホンモノの星のように輝きこそしませんが、薄桃色の5枚花弁を美しく開き、
その下でお花見なり業務提携の密談なりをする子狐と子猫と子狸を、静かに見下ろしておりました。
薄桃の星空の下で宴会ができるのも、あと1週間。
それが終われば東京も、そろそろ春の終わりと夏の始まりの、境界線が見えてくる頃です。
「『それでいいですか』、『それでいい加減手を打ってくれ』、『それでいいすぎ、とはさすがに言わない』『それでいいように丸め込まれました』。……他には?『それで飯田橋にはいつ着きますか』とか?」
個人的には、せっかく都内の現代風で連載モドキ書いてるから、「それで飯田橋には」書きてぇけどな。
某所在住物書きは地図アプリやネット検索とにらめっこしながら、せっかくの桜シーズンなので、「満開の桜と東京」を執筆すべくアレコレ云々している。
「『それで飯田橋』、飯田、千代田区、神田川……」
物書きは呟いた。
「観光客、マナーとルール……」
外人邦人にかかわらず、ここ数年、撮影を目的とした危険行為を、よく見かけるようになった気がする。
自分の暴挙で事故り自爆したところで、それは個人の自業自得だが、それで、いいのだろうか。
――――――
せっかく桜も満開になったのに、天気予報がイジワルで、向こう数日雨雨々。いかがお過ごしでしょうか。
晴れだろうと雨だろうと花粉気になる物書きが、こんなおはなしをご用意しました。
最近最近のおはなしです。都内某所のおはなしです。
某稲荷神社は森の中にありまして、
そこはなんと、不思議な狐のチカラと、御神木の花粉知らずなヒノキのご利益で、スギの花粉もヒノキの花粉も、勿論イネ科もブタクサなんかも、悪い花粉は全部、ちっとも悪さをしなくなるのでした。
稲荷神社の敷地内にソメイヨシノはありませんが、代わりに今の時期は、山桜やスミレなんかが見頃。
ニリンソウやフデリンドウも、そろそろでしょう。
花粉症持ちにとって、そこは貴重なオアシス。
セイヨウタンポポとニホンタンポポは、互いに互いを害することなく仲良く並び、花粉症から一時的に自由になった参拝者を、静かに観察しておったのでした。
「都合が良過ぎる」?それでいいのです。
「非科学的過ぎる」?それでいいのです。
所詮フィクション。細かいことは気にせぬのです。
さて、そんな稲荷神社の敷地内に、一軒家がありまして、そこでは人間に化ける妙技を持つ化け狐の末裔が、家族で仲良く暮らしておりまして、
そのうち末っ子の子狐は、去年まで餅売りをして、
善き化け狐、偉大な御狐となるべく、一生懸命修行をしておったのですが、
最近になりまして、郵便屋さんごっこも始めた次第。
詳細は過去作3月5日投稿分参照ですが、ぶっちゃけスワイプが面倒。こちらも気にしない、気にしない。
稲荷神社在住のコンコン子狐、久しぶりに郵便屋さんごっこサービスの対象者さんからお手紙受け取りまして、郵便屋さんコスなポンチョを羽織り、郵便屋さんコスなバッグをお腹にマジックテープでくっつけて、
丁度神社に参拝に来てる「送り先さん」へ配達。
送り先さんは、名前を藤森といいました。
冒頭あれだけ花粉花粉と書きましたが、雪国出身の藤森は、何の花粉症も持っていませんでした。
びゅーんと突撃して、くぅくぅ甘えて吠えて、子狐はコテン、藤森にお腹を見せます。
そこにはお手紙入りのバッグがちょこん。なかなかよくできたポンチョです。
「後輩からの手紙か」
藤森は恋愛トラブルチックな諸事情で、自分の職場に先月就職してきた元恋人相手にかくれんぼ中。
長年一緒に仕事をしてきた後輩に危害が及ばないよう、その後輩にも異動先や居候先を告げず、
3月から新しい部署、新しい部屋で、仕事なり生活なりをしておりまして、
後輩とはグループチャットと、このコンコン子狐郵便サービスで、連絡を取り合っておったのでした。
「どれどれ。……『拝啓先輩 先輩もしかして今総務課? 敬具』?」
相変わらず、手紙というより、チャットの中身のような文章だな。短い文章を見て穏やかに笑う藤森。
手紙を届けてくれた子狐の腹と頭を撫でます。
支店在籍の後輩は、昨日全支店・全部署向けに送信されたのメールの、「誰がその文章を作成したか」に気付いたのでしょう。
本店総務課から来たメールに「藤森」を感じ取り、藤森のかくれんぼ先を総務課と予想したのでしょう。
「それでいい。当たらずも、遠からずだ」
かくれんぼの元凶たる「藤森の元恋人」とのトラブル解消はまだ遠く、藤森に手紙を寄越した後輩となかなか会えない日もまだ続きますが、
それでも、後輩が「自分の先輩は、だいたいこの部署近辺に飛ばされた」と勘付き始めた。
それでいい。藤森は穏やかにため息を吐きました。
今はそれでいいのです。トラブルが解消して、かくれんぼの必要が無くなれば、そのときこそ全部「実はな」と笑って暴露できるのです。
「少し待っていろ。返事を書くから」
尻尾をビタンビタン振り回す子狐に、藤森は優しく語りかけました。
チャットの中身のようだと茶化した後輩の手紙に対して、藤森は明朝体のような筆跡と真面目さで、
手紙というより報告書だの引き継ぎ書だの、社内文書だののようなお返事を書きましたとさ。
「去年の3月1日から、1つだけずっと続けてる縛り設定といえば、登場人物約1名の『性別を明確にしない』なんだわ。面倒だけど、まぁまぁ、楽しいぜ」
最初は「こいつを男にするか女にするかまだ決めてない」だったんだがな。1年経って、今はもう意地な。
某所在住物書きは過去作を辿りながらポツリ。
現代ネタの連載風として書き続けてきた人物の、これまで一度もHeもSheも決めていないことを、今更ながら再認識している。
「他に投稿のとき自分で決めてる縛りといえば、『指示語等々を多用しないこと』かなぁ」
物書きは言った。
「『彼』、『彼女』、『アレ』、『それ』。指示語は結構便利だから、多用しちまうのよ。あと『◯◯と言った』、『◯◯と鳴った』の『と』とか。
……まぁ結局頼り過ぎちまって、執筆後に大量に削る作業が残るワケだけど」
――――――
せっかく桜が咲いたのに、東京は今日も曇り空。
明日は雨予報だし、土日も雨か曇りだし、
呟きックスのフォロワーさんの中には、東京を脱出して晴れ空の桜を撮りに行くんだって、今後の予定をポスってる人までいる。
私はといえば、今日も明日も、明後日の午前中も、仕事しごとシゴト。
3月から支店に異動してきて、そこが来客のバチクソ少ないチルな支店で、
私はモンスターカスタマー様からも、おクソ上司様からもフリーな職場で、本店に居た時とほぼ同じような仕事を、ストレスフリーに捌いてる。
1つだけ不満があるとすれば「先輩」だ。
3月にこの支店に異動になるまで、ずっと、数年間仕事を一緒にしてた、藤森っていう先輩だ。
先輩も3月でどこかに異動になって、でもその「どこか」が分からない。
先輩の異動にはアレコレ云々、去年の夏頃から続く一連の面倒があるんだけど、ここでは割愛する。
メタいハナシをすると過去投稿分、3月30日と31日頃のやつを参照すると面倒の一端が垣間見えると思うけど、まぁまぁ、気にしない。
ともかく、長年一緒に仕事してた先輩が行方不明。
これだ。1つだけ不満があるとすれば、これなのだ。
「後輩ちゃん後輩ちゃん。本店の総務課からメール来てるよ。印刷しといたよ」
「ヘイ付烏月さん面倒だから読んで」
「ピロン。俺附子山だよ後輩ちゃん」
「それ言ったら私あなたの後輩じゃないですけど、そこんとこどうなんですかツウキさん」
「本日の自家製おやつ、1つだけ選べるとしたらプチレモンタルトとプチタルトタタン、どっち?」
「レモンタルトください附子山さん」
もうすぐお昼休憩の頃。
私が2月まで居た本店の、同じ階の奥、いわゆるトップ直属ともいえる総務課からメールが届いた。
どうせ「今年もノルマもとい、営業目標達成目指して頑張りましょう」とかでしょ、
と思ったら、
昨日の例の地震と、今日の11時の東京23区震源の小さな揺れに関連付けて、近日中に少し防災訓練と、防災用備蓄の点検を行うって内容だった。
『大きな地震は、いつか必ず来ます』
そのメールの文面にすごく見覚えがあった。
『今回の訓練が、あなたの、あるいは、あなたの同僚やご家族の被災時の手助けになるかもしれません』
テンプレート・ナニソレな文章、小難しい表現を極力取っ払った言葉選び、
なにより、総務課特有の隠しきれないバチクソ小さな「俺等、お前等より偉いんだぜ」が無い。
『ご面倒と思いますが、ぜひ積極的な参加とフィードバックのご協力をお願いします』
それは2月まで一緒に仕事してた先輩が、本店から支店にメールを送るときの文面に、よく似てた。
先輩は総務課に居るのかもしれない。
トップ直属の総務課に。
「ハイ後輩ちゃん、タルトどーぞ」
「……」
「後輩ちゃん、こーはいちゃん?」
「……このメールのコピー貰うね」
「へ?」
先輩の文面によく似た、総務課から来たメール。
私にはそれが、今どこに居るとも知れない先輩の居場所を知るための、ただ1つだけの手がかりに見えた。
「あの、後輩ちゃん、見ましたのハンコ、サイン」
「ハンコならそっから持ってって」
「そーじゃなくて、あのね、それ社内文書……」
「大切な物、大切な者、大切な藻の?」
ひらがな部分は漢字変換による格好のイジり場所。某所在住物書きは「もの」の予測をたどり、
パタリ手を止め、過去投稿分のお題を検索し始めた。
「喪の」では少々センシティブ。「Mono」はギリシア語由来の接尾辞で「ひとつの、唯一の」といった意味――先月「お金より『大事な』もの」を書いた。
「過去配信のお題の類似系か」
物書きは天井を見上げた。
先月「大切なもの」として書いたのは頭だった。
『ストレスでズッタズタになった頭は現代医学じゃ元通りにならない』と。
「……今回こそ『大切な藻の』書くか?」
あるいは無難に「大切な者」で安牌を切るか。
――――――
最近最近の都内某所、某職場、朝。
先月からの突然の異動によって新しい業務をさばく者がおり、名前を藤森、旧姓を附子山といった。
早めに部屋に入り、掃除を行い、ポットの湯を補充して灰皿を清めて観葉植物の枯れ葉を整理し、
最後に、消耗品たる来客用のティーバッグやインスタントコーヒー、茶っ葉の在庫等々を確認する。
クリスタルガラスの菓子器の中の、クッキーだのチーズあられだのが少し減ってきた。
じき「買ってこい」の一声がかかるだろう。
先月から藤森の上司となった緒天戸は、給料が給料ゆえに高級菓子も多々食うだろうに、しかしながらその辺のコンビニで買えるような安価を好んだ。
「はぁ」
藤森のため息が室内に溶ける。
緒天戸いわく、異動前の2月分と異動後の3月分では、藤森の給料は確実に後者の方が上がるという。
残業も早朝の労働時間外勤務も、すべて明確にし、正当な報酬を得よとのお達しであった。
が、しかし、藤森は首を傾ける。
「……観葉植物の世話だの菓子の買い出しだのに時間外労働を適用して、本当に大丈夫なのだろうか」
――「あ?何言ってやがる。『働いた分は貰う』、『時間外は申請する』、規則に書いてるだろう」
昼休憩、バナナおやつ論争の抑揚で「菓子の買い出しと観葉植物の世話は時間外労働に入りますか」と問われた緒天戸である。
「掃除、鉢植えの世話、ゴミ出し、茶とコーヒーの補充。ああいうのは『名前の無い家事』だ」
某じゃがべーのスナック菓子で、タバコの口寂しさを紛らわせながら、眉をしかめた。
「やらねぇやつは、一切やらねぇ。だが誰かがやらなきゃ全員が困る。れっきとした『仕事』だ」
お前のやってることは確実に「大切なもの」だよ。
緒天戸は付け加え、ポリポリポリ。じゃがべースナックをかじった。
「『名前の無い家事』、ですか」
「俺は昔それで女房に大目玉食らった。当時は『名前の無い家事』なんて言葉は無かったがな」
「ご家庭で?」
「『家事に協力してくれないなら時給制にします』、『夜8時以降のおつまみ用意は時間外ですので自分でやってください。それか夜勤手当として5千円頂きます』、『お皿洗ったら拭いて食器棚に戻しなさい』」
「はぁ」
「知ってるか。ゴミ出しってのはな、ゴミ袋の口を結んで集積場所に持ってくだけじゃねぇんだ」
「存じています。一人暮らしなので」
少しの掃除でも菓子の補充でも、それは大切なもの。大事な仕事だ。れっきとした「環境整備」だ。
覚えておけよ。
窓の外を眺めながら、緒天戸は呟いた。
過去を思い返しているらしく、何ともいえぬ表情をしている。それはさながらオヤジの悲哀である。
小さな仕事、名の無い業務、「誰でもできる」としてないがしろにされる作業を、しかしそれこそ大事と断言する緒天戸の信条は、何十年前とも知れないが、どうやら嫁との過去の云々が理由らしい。
(……といっても、職場で「掃除したんで時間外ください」は、現実的にはだな……)
それ、なかなか難しいし、勇気の要るハナシですよ。
藤森は緒天戸に伝えたかったが、
ため息ひとつ吐いて、それを胸に一旦しまった。
「で、藤森。例の地震と津波の続報、どうなってる」
「はい?」
「仕事しながら情報収集してたんだろう。スマホで」
「すいません。つい。
津波警報に関しては、注意報に切り替えられて、それから正午頃にすべて解除されたようですね」
「デカい動きがあったらすぐ教えろ。あの地域から来てるやつは、大切な客にせよ大事な従業員にせよ、双方、一定数いるからな」
「はぁ……はい」