「大切な物、大切な者、大切な藻の?」
ひらがな部分は漢字変換による格好のイジり場所。某所在住物書きは「もの」の予測をたどり、
パタリ手を止め、過去投稿分のお題を検索し始めた。
「喪の」では少々センシティブ。「Mono」はギリシア語由来の接尾辞で「ひとつの、唯一の」といった意味――先月「お金より『大事な』もの」を書いた。
「過去配信のお題の類似系か」
物書きは天井を見上げた。
先月「大切なもの」として書いたのは頭だった。
『ストレスでズッタズタになった頭は現代医学じゃ元通りにならない』と。
「……今回こそ『大切な藻の』書くか?」
あるいは無難に「大切な者」で安牌を切るか。
――――――
最近最近の都内某所、某職場、朝。
先月からの突然の異動によって新しい業務をさばく者がおり、名前を藤森、旧姓を附子山といった。
早めに部屋に入り、掃除を行い、ポットの湯を補充して灰皿を清めて観葉植物の枯れ葉を整理し、
最後に、消耗品たる来客用のティーバッグやインスタントコーヒー、茶っ葉の在庫等々を確認する。
クリスタルガラスの菓子器の中の、クッキーだのチーズあられだのが少し減ってきた。
じき「買ってこい」の一声がかかるだろう。
先月から藤森の上司となった緒天戸は、給料が給料ゆえに高級菓子も多々食うだろうに、しかしながらその辺のコンビニで買えるような安価を好んだ。
「はぁ」
藤森のため息が室内に溶ける。
緒天戸いわく、異動前の2月分と異動後の3月分では、藤森の給料は確実に後者の方が上がるという。
残業も早朝の労働時間外勤務も、すべて明確にし、正当な報酬を得よとのお達しであった。
が、しかし、藤森は首を傾ける。
「……観葉植物の世話だの菓子の買い出しだのに時間外労働を適用して、本当に大丈夫なのだろうか」
――「あ?何言ってやがる。『働いた分は貰う』、『時間外は申請する』、規則に書いてるだろう」
昼休憩、バナナおやつ論争の抑揚で「菓子の買い出しと観葉植物の世話は時間外労働に入りますか」と問われた緒天戸である。
「掃除、鉢植えの世話、ゴミ出し、茶とコーヒーの補充。ああいうのは『名前の無い家事』だ」
某じゃがべーのスナック菓子で、タバコの口寂しさを紛らわせながら、眉をしかめた。
「やらねぇやつは、一切やらねぇ。だが誰かがやらなきゃ全員が困る。れっきとした『仕事』だ」
お前のやってることは確実に「大切なもの」だよ。
緒天戸は付け加え、ポリポリポリ。じゃがべースナックをかじった。
「『名前の無い家事』、ですか」
「俺は昔それで女房に大目玉食らった。当時は『名前の無い家事』なんて言葉は無かったがな」
「ご家庭で?」
「『家事に協力してくれないなら時給制にします』、『夜8時以降のおつまみ用意は時間外ですので自分でやってください。それか夜勤手当として5千円頂きます』、『お皿洗ったら拭いて食器棚に戻しなさい』」
「はぁ」
「知ってるか。ゴミ出しってのはな、ゴミ袋の口を結んで集積場所に持ってくだけじゃねぇんだ」
「存じています。一人暮らしなので」
少しの掃除でも菓子の補充でも、それは大切なもの。大事な仕事だ。れっきとした「環境整備」だ。
覚えておけよ。
窓の外を眺めながら、緒天戸は呟いた。
過去を思い返しているらしく、何ともいえぬ表情をしている。それはさながらオヤジの悲哀である。
小さな仕事、名の無い業務、「誰でもできる」としてないがしろにされる作業を、しかしそれこそ大事と断言する緒天戸の信条は、何十年前とも知れないが、どうやら嫁との過去の云々が理由らしい。
(……といっても、職場で「掃除したんで時間外ください」は、現実的にはだな……)
それ、なかなか難しいし、勇気の要るハナシですよ。
藤森は緒天戸に伝えたかったが、
ため息ひとつ吐いて、それを胸に一旦しまった。
「で、藤森。例の地震と津波の続報、どうなってる」
「はい?」
「仕事しながら情報収集してたんだろう。スマホで」
「すいません。つい。
津波警報に関しては、注意報に切り替えられて、それから正午頃にすべて解除されたようですね」
「デカい動きがあったらすぐ教えろ。あの地域から来てるやつは、大切な客にせよ大事な従業員にせよ、双方、一定数いるからな」
「はぁ……はい」
4/3/2024, 1:02:50 AM