〈懐かしく思うこと〉
公園の砂場でダイヤだと騒いで硝子の小さな欠片を集めたあの日。蝉の抜け殻を見つけてブローチのように胸に付けて遊んだ日。「三時に公園集合な」と声をかけたのに、誰も来なくて、一人でブランコを漕いだ夕暮れ。
あの夕陽の中で、僕は君に出会った。
「何年生?」
透き通るような肌をした女の子。僕はあんまりこのへんで見たことのない子だな、と思った。
彼女は首をかしげて、しばらく答えなかったので、「ぼくは四年生だけど」と口早に言った。
じゃあ、同じだね。
彼女の口が滑らかに動く。朱をさしたような唇が色白の肌のせいで、より際立って見えた。
「え、何組? 同じ学校?」
見たことないけどなあ、と言うと、彼女は少し微笑んで、おばあちゃんの家に遊びにきているの、と言った。
だから、おんなじ四年生だよ、と。
当時の僕は、空気の読めないクソガキで、虫と恐竜とゲームにしか興味がなかったので、こんなに綺麗な女の子と話しているのに、あんまり重大なことだと思っていなかった。僕はズボンのポケットをまさぐって、さっき拾った匂い付きペンを握りしめた。これをあげたら喜ぶだろうか、と。
目の前で手をぱっと開くと、彼女はふわっと笑った。
「インクは出ないけど、においがするんだよ。せっけんのにおいなんだ」
得意げにガラクタを説明する僕に彼女が不思議そうな顔をする。ちょっと迷ったように周りを見渡してから、お返しに、と手を差し出した。
彼女の手にはいつの間にか、青白く光る小さな石があった。いままで見たことのない綺麗な石だった。
愛してる。ずっとあなたを想っている。さよなら、愛しい子。
優しそうな女性の声。何度も繰り返した想像。赤子だった僕は、実際のことは覚えているはずがないのに、いつのまにか質量を持って、色鮮やかに蘇る。
なんだか、体温まで本物のように。
愛されている、と思いたかった。泣く泣く、僕を手放したのだと。きっとなにかどうしようもできないような切羽詰まった事情があったに違いないのだ。今でも僕の写真を大事に持っているのだ。赤ちゃんだったころの。
今はこんなに立派になったよ、と再会し、思わず抱きしめる想像も欠かさない。会ったら、すぐにわかるはずだ。この人が母親だと。そして、僕があの離れ離れになった愛しい息子なのだと。泣いている母をぎゅっと抱きしめる。そして、一緒に暮らすのだ。きっと、二十年の空白はすぐには埋められないけれど、それでいい。ゆっくりやり直せばいい。
本当に? と言う声が暗い底から聞こえる。
本当に愛されていた?
ただ捨てられただけじゃないのか。望まぬ妊娠の末に、生まれただけじゃないのか。殺すぐらいならと、手放しただけ。僕はたまたま生きていただけ。
そんな考えに僕は頭を振る。いや、僕は愛されていたのだ。生まれたときは、祝福されていたのだ。愛しているよ、と。
行かないで。
僕が手を伸ばしてもそこには母はもういない。僕は呆然と、ただ玄関ドアを見つめる。母の外出後はいつもこうだ。もう帰ってこないような気がする。不安が襲う。仕事に行っただけだと、いくら考えてもじわっと涙が出てくる。のどの奥がぐっと痛む。ふっと息を吐いて、立ち上がる。大丈夫。僕がしっかりしないと。我慢しないと。
大人になっても、僕はどこか寂しさを抱えている。いつかの昇華されなかった気持ちがずっと燻っている。どこかで母を恨んでいる。どこにも向けられない不満を、母にぶつけている。いつまでもこどものままだ。
どこまでも続く青い空。
僕たちはどこに向かえばいいのだろう。果てしなく続く道の上で、僕は立ち尽くしていた。
そんな僕の隣で君は、「まあ、なるようになるよ」と明るく笑う。
「仕事やめちゃったの?」
直球な質問に僕は目を逸らした。
「やめちゃったというか、まあ」
その、ええっと、と言葉を濁す僕を彼女が追撃する。
「やめたんでしょ?」
「はい」
彼女が箸でからあげをつつく。僕は喉の急激な渇きを感じて、慌ててグラスに手を伸ばした。
「わたしは向いていると思ったんだけどな」
彼女は箸をビシッと僕に向け、左から右に動かしてみせた。あの仕事は、君に、向いている、と小声で繰り返した。
「そうですかね」
そうだったなら。本当に向いていたならば、僕はいま無職にはなっていないだろう。その言葉を飲み込んで、僕は愛想笑いを浮かべる。
「まあ、また、いい話があったら紹介するよ」
彼女は僕をまっすぐ見つめて、唐揚げを一口で食べた。
このあとの記憶はあまりない。僕は「ああ、はい」と言ったのか、「ありがとうございます」と言ったのか。会計が普通に割り勘だったことだけは、のちの財布が語ってくれた。無職にはきつい出費だった。彼女は近々連絡をよこすだろう。なんにも考えずに僕は「はい」と返事をしてしまう未来まで容易に思い浮かぶ。きっとまた、向いていない仕事をしばらく黙ってこなすのだ。ああ、そんな人生なのだ。僕はそんなやつなんだ、と溢すと、君は「そんなことはないよ」と優しく声をかけた。
「いつだって選べる立場にいるんだから」
君は太陽のような笑顔でいる。
声が枯れるまで泣いたことはあるだろうか。
喉の奥がつっかかる感覚になんだか声も出ない気がして、認めてしまうのが怖くて、僕は。
ただ、呆然としていた。
大きな声を出したのは久しぶり、と彼女は鈴を転がしたような声で笑った。色があるのは彼女のまわりだけで、僕は愛想笑いのようなへたくそな相槌を打った。
そんなことより。
「抜け出してきて平気なの?」
僕がおどおどしながら尋ねると、
「大丈夫。もう何も怖くないもの」
と、彼女は言った。僕はその笑顔から目が離せなくて、何も言えなかった。
隣町のカラオケ屋。少し薄暗い店内に入るのを躊躇している僕の手を強引に引いて、彼女はさっさと手続きを済ませてしまった。ここフリータイムで八百円だから、と。僕は慌てて財布を確認して、しっかりと四千円は入っているのを見た。
「次はなに歌う?」
彼女が曲を検索し、端末からピピっと音が鳴った。
流れてきたのは、三年前に流行った曲だ。
「これ懐かしい、体育祭で踊ったよね」
僕が振り向くと、彼女はそうだっけ、と首を傾げた。
「サビで円形になってさ、たしか」
と、僕が腕を広げ、うろ覚えのダンスを表現する。意外と覚えているものだ。ちらっと彼女をみると、くすくすと笑いながら歌っている。
僕は調子に乗って立ち上がり、曲に合わせてくるっと回ってみせた。彼女も楽しそうに、腕をリズムに合わせて振った。
僕たちは同じ中学校だった。同じクラスになって、同じ図書委員会に入っていた。話してみると案外話が弾み、仲良くなった。お互いの家が同じ方向で、途中まで一緒に歩いたこともある。ゲーム、宿題、家族のこと。いろんなことを話した。
彼女が長く入院していると知ったのは最近だ。遠い高校を選んだ僕は、家を離れ、下宿生活を送っていた。母親からの電話でふと地元の中学校の話になった。その時に知ったのだ。
全然知らなかった。全く知るよしもなかったのだ。その頃彼女に何が起こっていたかなんて。