〈物語の始まり〉
物語の始まりはいつも春だ。新学期。見慣れない教室に、緊張した顔ぶれが並ぶ。知り合い同士がこそこそと話している程度で、静かな空間だ。窓際の席で良かったと僕は思った。外の景色を見ていれば、目のやり場に困らないからだ。喋りかけようか、どうしようか、お互いにぎこちなく距離を図っているやつらから、少し目を離して、ぼうっと校庭を見た。グラウンドの向こうに桜が咲いていた。春だ。
〈ひとひら〉
やっと桜が咲いた。今年は気温がなかなか上がらず、春らしい陽気もこの頃になってやっと感じられるようになってきた。ごおっと強い風が吹き、思わず目を閉じる。薄ピンクの花びらがもう風に流されて散っている。なんと儚いものだ。桜の見頃は一瞬だ。君の方を見ると、頭にひとひらの花びらがくっついていた。
〈星〉
ふたりで星を見上げていた。静寂。息を潜めて星を探す。「あ、あれ」右の空を指す。ふっと吐いた息が白い。
「え?」
近づいてくるきみの髪の毛がくすぐったい。
「あれ、あの三つ並んだ星があるでしょ」
夜空を指でなぞると、もう片方の手をきみがぎゅっと握りしめた。僕はどきっとして、視線を移した。きみは表情を変えず、空を眺めている。
「どれかわからないなぁ」
歌うようにきみが呟く。
「見つける気がないでしょ? 手を繋ぎたかっただけで」と僕が繋いだ手をわざとらしくぶんぶんと振ると、きみはにこっと笑って僕を見た。
「ばれた?」
ははは、ときみが歯を見せて笑う。
〈ラララ〉
目を開くと、そこは一面の向日葵。一面の向日葵。そして、じりじりとした夏の陽。Tシャツが汗で張り付く不快感と、むせ返るような土と花の匂い。耳を澄ますと蜂の羽音が聞こえる。一面の向日葵。額の汗を拭いながら、ああ、暑いと呟く。向日葵は太陽の方を向きながら、ぐりんと首を回すので少し怖い。茶色のぎっしり詰まった種のところも、綺麗に並んでいて不気味だ。僕はあまり向日葵が好きではなかった。向日葵畑は一つの観光名所になっているようで、時々、道端に車を停めわざわざ降りて、写真を撮るような家族やカップルもいた。窓の開いた車のカーステレオからラララと伸びやかな声が聞こえてくる。自分たちの世界に入り込んでいる男女が、向日葵畑に突っ立っているこちらに気づかずに写真を数枚撮り、満足げに車に乗り込んで行った。
〈子猫〉
子猫を拾った。
いや、正確には勝手についてきて、勝手に住み着いてしまった。
僕はたまたま同居人になったそいつと一緒に暮らすことにした。急いで納屋から猫用トイレやケージを出す。僕が子供の頃に飼っていたねこのものだ。捨ててなくて本当によかった。あとは、ご飯や猫砂を買いにいけば、とりあえず大丈夫なはずだ。
「こういう子はね、まずは動物病院につれていかないと」
病気を持っている可能性があるからね、と彼女が言う。
「わかってるよ」
ぶっきらぼうに返す。彼女は気にするそぶりもなく、食器棚を勝手に漁っている。
「このへんに、ねこのごはんをいれるのにいい感じのお皿があったよね」
僕はそれを眺めながら、子猫を抱き、キャリーにいれる。あたたかい。いのちの温度。
「じゃあ、病院つれていくから」
いってらっしゃーい、と手を振る彼女を見て、僕は一人暮らしの家を出る。