※TRPG(CoC)での自PC(女性二名、一人ロスト済み)の、今まで書きたくてもずっと書けなかった話。
私には「澄(すみ)くん」という知り合いが居た。くん付けをしているけど、澄くんはれっきとした女性だ。私が一番親しくしていた人、といっても過言ではないかもしれない。
澄くんと出会った当時、私は大学院を卒業し、教授のお手伝いをしながらゆくゆくは教授という職に就けるようにと日々頑張っている時期だった。そして、教授のゼミのお手伝いを頼まれた際、そこのゼミ生としてその場に集まった生徒のうちの一人が澄くんだった。背がスラっと高くて、クールで理知的な表情をしていて、肩につくかつかないかぐらいの長さの黒髪を外ハネにし、片方だけサイドの髪を耳にかけていた。ピッタリとした私服のパンツスタイルからありありとわかる女性的な身体のシルエットが下品ではない程度にとても美しい曲線で描かれていて、姿勢も礼儀も正しくて。後から知ったことだが、澄くんは空手部に所属していたらしいので、姿勢や礼儀の正しさには大いに納得したのだけれど。
失礼かもしれないが、そんな澄くんへの第一印象は「イケメンな子だなぁ」だった。女生徒相手に本当に失礼極まりないとは自分でも思ったし反省もしたのだが、顔の作りがイケメンというよりは、澄くんの纏う雰囲気がイケメンというか、下手したらそこらの男子生徒よりも余程男前なのでは? というのが正直な感想だった。後になってその時のことを本人に話したら、「当たり前でしょう、そこらの男になんてそうそう負けませんよ私は」なんて言っていたっけ。あれ、多分澄くんは空手の腕前のことだと思って言ってたんだろうなぁ。
その後、大学を卒業した澄くんはまだ二十代半ばという年齢にも関わらず「昨今、最もリアリティ溢れるSF作品を手掛ける作家のうちの一人」としてそこそこの人気を博し、私も気付けば念願の教授職となっていたが、澄くんが卒業した後も私たちの交流はずっと続いていた。スマホでの遣り取りだけの場合もあれば、作品の参考にしたいという理由で澄くんに資料を貸し出すこともあったし、時々澄くんの執筆活動の息抜きも兼ねて一緒にランチに行ったり。元々は生徒と教師側の人間として出会ったのに、年齢も五つしか離れていなかったことが幸いしたのか、いつしか澄くんは元・教え子兼、人見知りで内気な私が心を開いて接することが出来る数少ない大事な友人となっていた。
そんな澄くんが、突然失踪したと······その話を聞かされた私は、あの時、一体どんな顔をしていたんだろうか。
あれから、数日が経過した。仕事の休日を利用し、私は澄くんが住んでいたアパートへと来ていた。一度大きく深呼吸をしてから、アパート内にある澄くんの部屋を目指し歩き始める。私のジャケットのポケットの中には、いつだったかに澄くんに貰った合鍵が入っている。「これ、持っててもらっていいです。田中さんに見られて困るようなものはないですし、お暇な時とか時間潰しとかにでも利用して頂ければ。どうぞ遠慮なく」なんて言いながら、澄くんはあっさりと他人である私に部屋の合鍵をくれたのだった。それだけ、私は澄くんから信頼されていたんだろう。多分澄くんのあの発言には言外に「困った時にはいつでも頼って下さい」という意味も含まれていたのではないかと思う。私は背が低く、力もなく、澄くんみたいに戦う術なんてものはほとんど持っていなくて、そんな私を澄くんは頻繁に心配してくれていたから。結局、「澄くんに迷惑かけたくない」という理由でこの鍵は今日に至るまでほとんど使用されたことはなかった。澄くんの部屋のドアに鍵を差し込みながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
久しぶりに訪れた澄くんの部屋は、記憶の中のものとほとんど変わっていなかった。恐らく、警察の方が先に部屋に入って色々調べた後なのだろうなとは思いつつ、私はそこまで広くもない懐かしいこの部屋をじっくりと時間を掛けて、美術展を見て回る鑑賞者のようにゆったりとした足取りで存分に観察していく。
キッチンの流しには、洗われることなく放置されたコーヒーカップ。澄くんはよくコーヒーを飲む人だった。作家という職業はどうにも生活習慣を一定に保つということが難しくなるらしく、また執筆意欲はあるのに睡眠欲が邪魔をしてくる時なんかも多いとのことで、家でも外でも基本的に飲むものは決まってブラックコーヒーだった。ブラックコーヒーを嗜みカップに口をつける澄くんは、とても絵になっていた。
澄くんが作業場としていた、小窓のついている壁に沿って向かい合うように置かれたデスクとチェアー。その真ん中には画面が真っ黒になっている一台のパソコンが置かれていて、周りには紙に書かれたメモ書きや取り寄せた文献・資料なんかが散乱している。これは、相当強いインスピレーションでも湧いて形振り構わずパソコンに文章を打ち込んでいたのかもしれない。そんな、澄くんの情熱が垣間見える場だった。
続いて私は、作業場の斜め後ろ辺りにある澄くんの本棚を眺め始めた。難しそうな本から流行りの文庫本まで、幅広いジャンルの本が納められていて、勿論澄くん本人が執筆し出版された本も全冊取り揃えられている。
私はその中の一冊に手を伸ばした。私が一番好きだと澄くんに伝えていた作品。大きな朱い鳥に夢の中で何度も何度も追われては食い殺されるという不思議な現象に巻き込まれた主人公が、仲間たちと共にその悪夢から逃れる方法を模索する話。読み進めていくうちに朱い鳥の生誕秘話だとか、追われて食べられるという行為以上のとてつもない恐ろしさをその鳥が秘めていたことが発覚したりなど、とにかくハラハラドキドキさせられるお話で、初めて読ませてもらった時は続きが気になりすぎて、食い入るようにノンストップで最後まで読み進めてしまった。興奮気味に澄くんに直接感想を伝えたら「田中さんが気に入って下さったのならよかったです。······もうあんな思いは懲り懲りですけど」なんて言っていたし、その後ランチに行くと何故かやたらと親の仇か前世の宿敵かのように鶏肉料理ばかり注文し食べるようになった澄くんが爆誕していて私は首を傾げたものだが、それも今となってはいい思い出だ。ああ、懐かしい。
そんなふうに過去に思いを馳せながら思い出の本をパラパラと流し読みしていると······一か所、違和感を覚える部分があった。とあるページとページの間だけ、妙に開きやすくなっている。そう、まるで読みかけの本に栞でも挟んだような······。
私は指を滑らせ、導かれるようにそのページを開く。そして、目を瞠った。そこに栞は挟まれてなどいなかったが、代わりに「田中さんへ」と手書きで書かれた封筒があったのだ。間違いなく、澄くんの字だった。私は焦る気持ちを頑張って鎮めようと心掛けながらも抑えきることが出来ず、バッと封筒を本から回収すると本の方は近くにあったソファーへ少し乱暴に放り投げてしまう。ごめん澄くん、と心の中で謝りつつ、少し震える指で封筒を開封しようとしたのだが、ピッタリと糊付けされたそれは手で開封しようとすると大変な大惨事になることが目に見えている。私はジャケットの内側のポケットからペーパーナイフを取り出し、慎重に、慎重に、封筒を開封していく。そうして綺麗に開けた封筒の中から折り畳まれた便箋を取り出し、両手で開いて文章に目を通し始めた。
『田中さん、お久しぶりです。最近なかなかお互いの予定が合わずお顔を拝見出来ておりませんが、元気にお過ごしでしょうか? 田中さんは真面目な方ですから、きっと毎日手洗いうがいなど欠かさず行っていることと思います。これからもご自分の健康を第一に、健やかに過ごしていって頂ければなと思います。
さて、この手紙を田中さんが一体いつお読みになられているのかはわかりませんが、これはいつかこんな日が来るかもしれないという一抹の不安の元、保険として田中さんに宛て、したためたものとなります。一体自分に何が起きてそうなっているのか、これを書いている時点での私にはまるで見当もつきませんし明確な答えを提示出来るわけでもないのですが、一つだけ確実なことは、恐らく私はもうその部屋に帰ることは出来ないだろう、ということです。自分の文字で田中さんにこんなことをお伝えするなど、出来ればしたくはなかったのですが。残念ながら、私の運命はそういうものだったということでしょう。
何年か前の田中さんの誕生日に、ペーパーナイフをプレゼントさせて頂いたことを覚えていらっしゃいますでしょうか? 護身用に、という名目でお渡ししたそれですが、本当にあの頃の私にとってあのペーパーナイフに求めることはそれだけでした。田中さんは私と違って小柄ですし、女性らしくか弱くて、その上にそんなにもお顔立ちが整っているのですから、絶対にいつか田中さんに寄ってくる悪い虫が出てくるだろうと、私は確信していました。幸い現時点では特にそういったお話はお窺がいしておりませんが、未来のことなど誰にもわかりません。いくら田中さんが心配だからといってジャックナイフなんてプレゼント出来ませんからね。ペーパーナイフぐらいだったら普段から荷物に忍ばせて持ち歩くことが出来るだろう、そして本当にいざという時が来た暁には相手の何処でもいいからそれで一突き出来れば逃げる隙も出来るだろうと。そんな思いを込めてお渡ししたそのペーパーナイフですが、やはりペーパーナイフはペーパーナイフらしくペーパーナイフとしての役割も一度ぐらいはきちんと果たさせてやった方がいいのだろうかと考えまして。田中さんならばきっと、この手紙が入れられた封筒を開ける際にあのペーパーナイフを使って下さったことだろうと信じています。これが私の自惚れだとしたら死んでも死にきれないですが、とりあえずこう伝えさせて下さい。そのペーパーナイフに本来与えられていた役割を正しく実行させて下さったこと、本当に厚くお礼申し上げます。
その他にも田中さんには伝えたいことが山ほどあるのですが、あまり長い手紙にするとそれだけ田中さんのお時間を取ってしまうことになりますので、まだまだお話ししたいですし自分から話を尽きさせること、非常に申し訳なく思う次第ではありますが、またいつか、田中さんがこちらにいらっしゃった時にはたくさんたくさんお話しをしましょう。ああ、それと······田中さんは酔っぱらったり情緒不安定になったりすると度々私に向かって「澄くん、私と結婚して!!」と半泣きで叫んでいましたが、田中さんにはきっと素敵な男性からのお迎えがありますよ。ちなみに、私より強い男じゃないと駄目ですからね。私が認めませんので。私と田中さんの結婚は······そうですね、来世辺りにでも是非実現出来たらなと思いますね。
それでは、田中さん。この手紙を見つけて下さって有難う御座いました。そして、今まで大変お世話になりました。教え子として、そして一人の友人として、私はいつまでも田中さんの幸せを願っています。最期のその瞬間まで、あなたの人生が幸福と安らぎで溢れていますように。』
最後まで手紙を読み終えた私は······その場に膝から崩れ落ちた。涙がボロボロと、坂道を下っていく小石のように私の両頬を次々と転がり落ちていく。
「ばかっ······バカぁ······! すみくんの、バカ······ッ!」
大事な人からの、最後の、心のこもった置き土産をギュッと抱き締め胎児のように蹲り、私は気が済むまで何度も何度も口から弱々しい罵声を吐き出しながら、枯れることを知らない涙を延々と流し続けた。
バラバラに引き裂かれても
意外と痛くないんだな
バラバラに砕かれても
痛みなんて忘れたよ、とっくの昔に
──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
ふと気付くと、電車に乗っていた。たったの一両しかない、まるで個室のような狭い電車。
対面の窓から見える外の景色は全く見覚えのない風景だったが、雲の一つも見当たらない、清々しいほど綺麗な晴天だった。果てしなく続く空を、その色を、俺はただ無心で見つめていた。空はこんなにも晴れているのに、自分の心には何だか雲がかかっているような感じがする。ぼんやりと朧気で、どんよりと沈んでいて。今にも雨が降り出しそうな濃い灰色がこの心の中を水浸しにするのは時間の問題なんじゃなかろうかと、何処か他人事のように冷静に分析する自分が居た。
「何か悲しいことでもあった?」
いつからだろう。右隣に座っていた人物に、突然話し掛けられた。咄嗟にそちらを向くと、何となく見覚えのあるような横顔が、穏やかな顔つきで正面の窓の向こうの景色を見つめていた。周囲を見渡してみたが、どうやらこの電車には俺とこの男性、二人しか乗車していないらしい。車内アナウンスはここに至るまで一度もなく、内装に目を凝らしてみても路線図が貼られている様子もなく、果たしてこの電車が何処に向かっているのか、次に止まるのは一体いつになるのか、そこはどんな場所なのか、何もわからない。もしかしたらこのまま、悠久の時をこの車内で過ごすことになるのかもしれないし、逆に一分と経たずに停車し何事もなくドアが開くのかもしれない。
──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
この不思議な電車に揺られているのは二人だけ。実はこれは電車ではなく本当に何処かの手の込んだ個室で、俺と隣の彼はこれから何か大事な話をするためにここに来たのかもしれない。無意味に天井を見上げながら、そんな馬鹿なことを考える。
馬鹿なこと。······ああ、馬鹿なこと。俺は何か、馬鹿なことをしていた気がする。していた? しようとしていた? その辺りは、詳細に記憶を辿ることが出来なかった。不可抗力で「出来ない」というよりは、「それ以上考えたくない」といった表現をした方が正しいかもしれない。相も変わらず、外とは対称的な空模様が自分の内には広がっていた。頭にも、心にも。
先程質問されたっきり、隣の彼は一言も言葉を発していない。俺が答えるのを律儀に待っているのか、それとも然程興味なんてないのか。一人きりの空間での沈黙であればどれだけでも耐えることが出来るのに、たった一人その場に人間が増えただけで妙に居心地の悪さを感じるようになる、この現象は一体何なのだろう。ああ、そうか。この居心地の悪さに耐えられないのであれば、声を出し、言葉を紡ぎ、会話をしてコミュニケーションを取れ、という神からの指示なのかもしれない。人間は他人とコミュニケーションを取らないと生きていけない、弱い動物だから。他人という存在と関わらないと、己の存在を立証することが出来ない哀れな生き物だから。
「······よく、わからない」
随分と間が空いてしまったが、俺は隣の彼に質問の答えを渡した。率直な感想だった。悲しいことが、あったのだろうか。自分のことなのに、本当に何もわからないのだ。
「悲しいことなんて······この世界には溢れるほどにあるだろ? まるで洪水みたいに、突然体を攫われて理不尽の波に呑み込まれて、息も出来ずに沈んでいくんだ」
俺の口からぽろぽろと零れ出る言葉を、彼は何も言わずにただ黙って聞いている。こんなにもすらすらと吐露しているということは、俺は普段からそう思いながら生きているってことになるのだろうか。何かとんでもなく悲しい出来事を、身をもって経験したのだろうか。何も思い出せないことが歯痒い。
隣の彼も、俺と同じことを思ったのだろうか。「そっか」と呟き、少し顔を俯かせながら言葉を続けた。
「君には何か悲しいことが起きて、そして世界に絶望してしまったんだね。生きる意味を、価値を、何処かに落としてきてしまったのかな。いや······波に、攫われてしまったのかな。でもね」
彼は俯かせていた顔を上げ、初めて俺の方を見た。真正面から見た彼の顔は、やはり見覚えのあるもののような気がした。喉まで出かかってる感じがするのに。もう少しで、霧が晴れて正体がわかりそうなのに。あと一歩が、届かない。その一歩が、あまりにも遠い。
「君が思っているほど、世界は酷いものなんかじゃない。確かに、雨の日は多いのかもしれない。そのせいで、溢れた水流が何の前触れもなく君目掛けて襲ってくることもあるだろう。それでも······」
彼は笑って、正面の窓を指さした。釣られてそちらを見れば、そこには変わらず青い青い空が広がっている。太陽の光が、やけに目に染みる。おかしいな、視界までぼんやりとしてきた。
「止まない雨なんて、ないんだ。いつかは必ず、こんな景色を見ることが出来る。君ならまだ、見ることが出来るんだよ」
俺は、彼の言葉を聞きながら、彼の顔を見ながら、泣いていた。頭の霧が漸く全て消えそうになってきた今、俺は改めて確信した。俺はこの人を知っていると。とても、とても大事な人だったのだと。喉から飛び出しそうになった名前が、再び奥へと引っ込む。直感的に、名前を呼んだらいけない気がした。名前を呼んでしまったら、今居るこの空間が呆気なく、まるで最初から何も無かったかのようにこの人ごと消滅してしまう気がして。
「君の旅はまだまだ、きっと気が遠くなるほど長いよ? だから、こんな所でいつまでも立ち止まってたらいけないよ。前に向かって進んでいけば、いつかは雲を抜けて太陽の下に辿り着けるんだから」
彼は······彼は、俺の頭に手を置き、戯れのように髪をクシャッと軽く掴んだ。
「僕のことを忘れろなんて言わないし、言えない。だってその傷は、君が旅を続けてきた中で負ったものだから。その痛みや悲しみまで含めて、君の“人生”だ。だから······そのまま、いつまでも大事にしてもらえると嬉しいな」
頭に置かれた手が離れていく間際、その腕を両手で捕まえた。縋るようにギュッ、と力を込める。名前は······やっぱり、呼べなかった。
――ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタン、ゴトン、ガタ、ン······ゴト、ン······。
電車の速度が緩やかに落ちていくのがわかる。どうやらもう、停車駅に到着するみたいだ。
プシュー······という音を立て電車は完全に停車した。それを確認すると、彼は椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、僕はここまでだから」
「······っ! あの、さ!」
俺は必死の思いで、声帯を震わせ声を振り絞った。
「ずっと、ずっと言いたかった。······ごめん。それと······本当に、ありがと」
彼はほんの少し目を瞠って······それから、俺のよく知るあの穏やかな笑みで言う。
「僕も、ずっと言いたかった。······いつまでも元気でね!」
そうして彼は、進行方向の右手側、いつの間にか開いていたドアの方へと歩みを進めていき。
「じゃあ、僕は一足先に降りてるから」
彼は最後に一度こちらを振り返り、満面の笑みを向けた。
「またね!」
そうして彼は電車の外へと出て、ホームに降り立った。それと同時に、電車のドアが閉まる。
俺は、もう振り向かなかった。改めてきちんと椅子に座り直し、正面の窓の向こうに広がる晴天を眺め······静かに目を閉じ、電車が齎す心地よい揺れにこの身を委ねた。
──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
俺の旅は、まだ続く。彼が歩けなくなった道を、一緒に背負い込んで。これからも、ずっと。
※美柑(みかん)と杏朱(あんず)の百合、美柑視点
私には、“男の私”と“女の私”がいる。別に多重人格だとか、性同一性障害だとか、そういう深刻なものでは断じてない。一つの心の中に、二つの性別が同居しちゃってるのだ。昔ネットで調べてみたら、こういった私みたいな人達のことを指すきちんとした用語が出てきたけど、長ったらしいカタカナだったからすぐ忘れてしまった。まぁ、忘れたところで何の支障もないし。だって、そんな言葉に縛られなくたって私は私だ。
ある日突然そうなったってわけじゃなくて、気付いたら既にそうだった。男の子の感性も女の子の感性もどっちも同じぐらい理解出来てて、小さい頃は戦隊モノも魔法少女モノも両方好きでテレビを夢中になって観てたし、服装にしても可愛らしいスカートやワンピースも好きだしボーイッシュなパンツスタイルも好き。長く髪を伸ばしていた時期もあれば、バッサリと綺麗さっぱりショートヘアにする時もあった。片思いしてきた相手も、男女比はほぼ同じぐらい。というか、性別なんてものは私からしたら本当にどうでもよくて、人間として好きか嫌いか。ただそれだけのシンプルな話。
ちなみに、片思いが叶ったことは一度もない。そもそも、叶えようと思ったことがない。皆の前ではヘラヘラした女子を一応気取っていながら、実は中身は両性でした〜! 男の時もあるし女の時もありまーす! ······なんて、いくら私が大雑把な人間であろうと恥じらいなんてものなかろうと、それを相手に知られちゃダメだと思ってたから。私本人が気にしてないのに、それを知った相手の方が気にするであろう未来が見えていたから。だって、相手が男の子にしろ女の子にしろ、半分は自分と同じ性を持つ人間とお付き合いするってことになる。私にはよくわからないけど、多分普通の感覚の人達だったらよくて複雑、悪ければ嫌悪の感情を抱くことだろう。だから私は、一生誰かに片思いしてるだけでいい。そもそも片思いって楽しいもんだしね。
とまぁ、そんな感じで割り切って生きてきた私なわけだが、性懲りも無く片思いの真っ最中だったりする。入学式の日、クラスに集まって順番に自己紹介をしていく時間で、私は所謂一目惚れをした。人間として云々言ってたのは一旦聞かなかったことにしてほしい。
だって、見た目がタイプすぎたのは勿論のこと、運命を感じずにはいられなかった。顔が良い。声も可愛らしい。何か弄り甲斐ありそうMっぽい、ただし直感。黒髪前下がりボブ最高。そして、私の名前が「美柑(みかん)」なのに対して、そのどタイプ女子の名前は「杏朱(あんず)」。なんと奇しくも果物繋がりの名を持つ同士だった。そんなの、気にならないわけないだろ! これが運命の人ってやつか、神様ありがとう!
そんなこんなで、私は入学早々、杏朱をロックオンした。自己紹介も終わり、ホームルーム的なものも終わって帰宅の流れになった瞬間、逃がしてなるものか! と杏朱の席へ一直線に駆け寄った。
「ねえねえ、杏朱ちゃんだよね?」
「え? ······あ! えっと、美柑ちゃん······だよね?」
なんてこった。杏朱はなんと、自己紹介の時に名乗った私の名前を覚えていてくれたのだ。え? 脈アリ? 脈アリってことでいい? と、私の心の男の子な部分が叫び散らかす。
「私と同じで果物の名前の子だ〜って······多分、一番最初に名前覚えちゃった!」
少し照れたようにはにかむ杏朱はそれはそれは天使のように可愛かった。いや、天使と比べちゃ杏朱に失礼か······と冷静に考え直した私に未だに天罰下ってないの、奇跡だと思う。神様って意外と寛大なんだなぁ。
「私も全くおんなじ理由〜! で、絶対一番最初に声掛けてやる! って思って走ってきた!」
「なにそれ、美柑ちゃん面白すぎる〜!」
「杏朱ちゃんの初めては私が頂いた」
「ちょっと待って、言い方!」
初めて喋ったとは思えないぐらい、杏朱との会話は波長が合ってた。やっぱこれ運命では? 運命だよな? 杏朱は私のものだから誰にも近付けさせないし許可なく近付いた奴は殺す。······なんて物騒なことを考えながら、そんなこと全く表には出さずに笑顔で杏朱とお喋りをした。
「はー······ウケる。てか、ちゃん付けしなくてもいいよ? よければ美柑って呼んで〜!」
「え、いいの? じゃあ私のことも杏朱って呼び捨てで呼んでほしいな!」
「オッケイ心得た。杏朱、よければ途中まで一緒に帰らない?」
「わ、嬉しい! じゃあお言葉に甘えて······あと、今更だけどこれからもよろしくね、美柑!」
当たり前だろよろしくするに決まってんだろこれから私達は一蓮托生だからなぁ! と心の中で男女両方の私が叫び散らかしていたが、私は涼しい顔して「よろしくぅ!」と応え、帰り道も楽しく杏朱とお喋りしながら帰宅した。ま、それから毎日二人で一緒に帰ることになるんだけどな!
······そんな私達の出会いを思い出しながら、私は自室で一枚の便箋を何度も何度も何度も、読み返していた。それは今日の朝、杏朱から無理矢理強奪した“誰か”へ宛てたラブレター。見慣れた杏朱の書く文字が、便箋にぎっしりと詰め込まれている。
杏朱が、こんなにも“誰か”のことを想っていたなんて、全く知らなかった。顔も知らないその“誰か”に、私は嫉妬という感情を燃やしていた。
「“あなたの全てが好き”······かぁ」
これが自分へ向けて書かれた想いならばどれほど幸せなことか。宛名に私の名前が書かれていたならば、どれほど嬉しいことか。私だって言われてみたいよ。杏朱から、「美柑の全てが好き」って。
でも、それは叶わない。だって私は知っている。杏朱が私の“全て”を知る日なんて、一生来ないんだから。
杏朱との心地良い今の関係を崩したくない。“全て”を話して、杏朱が私から離れていくのが怖い。最悪嫌われでもしたら、私はもう生きていけない。
「杏朱······」
杏朱を想って一人こんなにも苦しい思いをしていることなんて、杏朱は一生知らなくていい。
※中学生百合。金髪パリピ系女子と黒髪ロングの物静かな女子。
「あたしさー、黒髪の頃の自分、嫌いなんよね〜」
中学校からの帰り道。産まれてこの方、染髪なんて一度もしたことのない黒髪をスカート丈と同じように長く伸ばした私と並び、唐突にそんなことを言い出したのは、金色に近い明るい茶髪に髪を染め、丈を短くした制服のスカートを揺らして歩く、何処からどう見ても「不良」にしか見えない同級生。
この子の名前は明里綺良々(あかりきらら)。えっと、その······一応、私──古森伊子(こもりいこ)の、こ、こ······恋人、ということに、なっている。見た目のイメージからも明らかなように、私達は対極の属性といっても過言ではない。それが何故、そんな間柄になってしまったのか。
私は友達とは少人数で話すのが好きで、しかもどちらかと言うと自分から話すことは少なく聞き役に回ることが多い。大勢の人の輪の中に入れられると、何も喋れなくなりただニコニコ笑っていることしか出来ない。読書をすることや、勉強をすることが好き。スポーツは得意じゃなくて、運動音痴。教室の隅で密やかに生きる、半分空気みたいな存在。
対する綺良々はと言うと、髪色は派手だしスカートもすっごく短くしているけど、「不良」だとか「ワル」みたいな子ではなくて、むしろクラスの中心でワイワイと皆で賑やかに楽しんでいて、所謂「パリピ」の方に近いのかもしれない。勉強は嫌いみたいで授業中はほとんど寝てるか周りの席の子達とお喋りしてて、運動神経はいっそ羨ましく思うほどに抜群だ。名前の通りに、明るくてキラキラしてる人気者。
私達は同じクラスではあったし、稀に綺良々から話し掛けられた時にはあたふたしながらも応答したりしていた。でもそれは私だけじゃなくて、他のクラスメイトへの接し方にしたってそうだった。私だけ特別、みたいなことは断じてなかった。
だからあの日······たまたま帰宅するために向かった下駄箱で二人きりになって、そこで「あたし、古森のことそういう意味で好きだから、付き合いたいんだけど」なんて、豪速ド直球なストレートすぎる告白を受けることになるだなんて思ってもみなかった。
そもそも私は、自分みたいな人間のことを好きになってくれる人なんてこの世界に居るわけない、と思いながら生きてきたし、そんな中学生で恋人なんて早すぎるのでは!? とかも思ったし、しかも女の子同士で付き合うってどういうこと······? って疑問もあったしで、綺良々の告白に対してすぐに言葉を返すことが出来なくて、でも何故か顔だけは物凄く熱くって。きっと真っ赤になってしまっているのであろう顔を少し俯かせながら、「あ」とか「う」とか「えと」とか、そんな言葉になりきれなかったただの音を無意味に発しながら、頻りに瞳を右往左往させたり······と、これでもかとコミ障ぶりを発揮し尽くしていた。
······というのに、綺良々はそんな私にフラフラと吸い寄せられるように近付いてきて、ふわりと優しく両腕を私の肩の辺りからダラリと背中へ垂らし、その先で手と手を組んで、「可愛い······」と熱に浮かされたような声でそんなことを呟き、突然ガッツリと私の体を抱き締めてきた。パニックで硬直し、更に熱さを増したような気がした顔面。頭の中は「?」で埋め尽くされていて、相変わらず何が起きているのか全く理解出来ていないような状況だったけど、不思議と嫌な気持ちには全然ならなくて。そうやって私を抱き締めながら、綺良々は私の黒髪にスリ······と頬を擦り付けながら、言った。
「ごめん、我慢出来なくて······でもあたし、本気だから。今ね、あたしの心臓バックバクしてて超うるさいけど、でも古森の近くに居ると凄く安心する。あたしが求めてたものってこれだったんだ〜って、そう思ったんだよ。だから······」
綺良々は抱き締めていた腕を解き、今度は両手を私の肩にポンと置き、真正面から私を見つめた。綺良々の顔も真っ赤になってて、綺麗なカラコンが入ってる瞳はチワワみたいにウルウルと水気を増していて、たったそれだけのことで私の心臓は一気に鼓動を早めて、胸の奥がキュゥッとなった。
「お願い、古森。あたしの恋人になって」
小首を傾げながらそんな「お願い」をされてしまったら、もうそんなの答えは一つしかなかった。
後から当時のことを思い返した時に、その場の雰囲気に当てられたか、流されたか······そんな、綺良々に失礼すぎる成り行きで恋人になんてなったのではないか? と自問自答することを何回か繰り返したけど、私の答えは結局いつも同じだった。私にないものをたくさん持ってて、こんな私にたくさんの「好き」を伝えてくれる綺良々のことを、私も好きになっちゃったんだ。
······そうして漸く話は冒頭に戻るんだけど。
「黒髪の綺良々かぁ······ちょっと想像出来ないかも? でも、何で嫌いなの?」
「そんなの、理由なんて一つに決まってんじゃーん! 全っっっっ然、似合わなかったの!」
綺良々は、私の背中に流れる髪を一房掬い、それをサラサラと落としていきながら、ホゥ······と幸せそうな吐息を吐く。
「伊子みたいな見蕩れるような綺麗な黒髪だったら、また違ったのかもしれないけど」
「も、もうっ······! は、恥ずかしいから、やめてよ······」
「伊子がいちいち可愛すぎる反応してくれるのが悪いんだよー?」
「理不尽だよぉ······」
暫く私の髪に悪戯していた綺良々だったけど、その指は私のご機嫌を取るみたいにスルリと私の指へと自然に絡まってくる。恥ずかしい······恥ずかしいけど、私も勇気を出して自分の方からも綺良々の指に自分の指を絡めた。途端、力強く握りしめられて、私達──相反する二人の少女達は、想いを確かめ合うかのように互いの手を握り、同じ歩幅で歩く。
「······私、綺良々の陰にしかなれないなぁ」
何気なく私が呟くと、綺良々は私の方へ顔を向け「どゆこと?」と尋ねてくる。
「ん、と······綺良々って、すっごく眩しいから。こうやって綺良々の隣に居る私は、綺良々の眩しさに飲み込まれて、真っ黒い日陰にでもなってるんだろうなぁって」
綺良々とこういう関係になって、二人肩を並べて生きるようになって······そうして私は改めて、この明里綺良々という人物の煌めきを再認識した。強すぎる光は、陰を生み出す。私はまるで、綺良々に憧れて真似してみただけの綺良々の陰みたい······なんて、少しばかり考えていたんだ。
「······伊子、相変わらずむずかしーこと考えすぎ!」
「あはは······ごめんね?」
「あと! よくわかんないけど、伊子は日陰でいーの!」
「え······?」
私も綺良々の言いたいことがよくわからなくて、首を傾げながら綺良々の顔を見つめる。
「だって日陰ってさ、あっつーーーい夏の日にあると嬉しくなんじゃん!? ここでちょっと休も〜······ってなるじゃんね? だから伊子は、日陰でいーの。あたし専用の休憩ポイント! 癒し効果バツグン!」
そんな、想像もしていなかった綺良々の持論を聞いて······私は、声を出して笑った。
「アハッ! アハハハ! もう、綺良々ぁ〜······真顔で面白いこと言うの、やめてよ〜」
「ハァ!? 今の、何処が伊子のツボにぶち刺さったぁ? 伊子の笑いのツボ、マジわからんのだがー
!」
「ごめん、ごめんね? 面白かったのはそうなんだけど、でもそれ以上に······嬉しかった。ありがと、綺良々」
「······〜っ!」
突然吹いてきた風が私達を包み、私のこの黒の髪が舞い踊る。漆黒の闇を彷彿とさせていたはずのそれは、大好きな人の癒しになれることを喜び、縦横無尽に跳ね回っては嬉しさを露わにしていた。