アシロ

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 ──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 ふと気付くと、電車に乗っていた。たったの一両しかない、まるで個室のような狭い電車。
 対面の窓から見える外の景色は全く見覚えのない風景だったが、雲の一つも見当たらない、清々しいほど綺麗な晴天だった。果てしなく続く空を、その色を、俺はただ無心で見つめていた。空はこんなにも晴れているのに、自分の心には何だか雲がかかっているような感じがする。ぼんやりと朧気で、どんよりと沈んでいて。今にも雨が降り出しそうな濃い灰色がこの心の中を水浸しにするのは時間の問題なんじゃなかろうかと、何処か他人事のように冷静に分析する自分が居た。
「何か悲しいことでもあった?」
 いつからだろう。右隣に座っていた人物に、突然話し掛けられた。咄嗟にそちらを向くと、何となく見覚えのあるような横顔が、穏やかな顔つきで正面の窓の向こうの景色を見つめていた。周囲を見渡してみたが、どうやらこの電車には俺とこの男性、二人しか乗車していないらしい。車内アナウンスはここに至るまで一度もなく、内装に目を凝らしてみても路線図が貼られている様子もなく、果たしてこの電車が何処に向かっているのか、次に止まるのは一体いつになるのか、そこはどんな場所なのか、何もわからない。もしかしたらこのまま、悠久の時をこの車内で過ごすことになるのかもしれないし、逆に一分と経たずに停車し何事もなくドアが開くのかもしれない。
 ──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 この不思議な電車に揺られているのは二人だけ。実はこれは電車ではなく本当に何処かの手の込んだ個室で、俺と隣の彼はこれから何か大事な話をするためにここに来たのかもしれない。無意味に天井を見上げながら、そんな馬鹿なことを考える。
 馬鹿なこと。······ああ、馬鹿なこと。俺は何か、馬鹿なことをしていた気がする。していた? しようとしていた? その辺りは、詳細に記憶を辿ることが出来なかった。不可抗力で「出来ない」というよりは、「それ以上考えたくない」といった表現をした方が正しいかもしれない。相も変わらず、外とは対称的な空模様が自分の内には広がっていた。頭にも、心にも。
 先程質問されたっきり、隣の彼は一言も言葉を発していない。俺が答えるのを律儀に待っているのか、それとも然程興味なんてないのか。一人きりの空間での沈黙であればどれだけでも耐えることが出来るのに、たった一人その場に人間が増えただけで妙に居心地の悪さを感じるようになる、この現象は一体何なのだろう。ああ、そうか。この居心地の悪さに耐えられないのであれば、声を出し、言葉を紡ぎ、会話をしてコミュニケーションを取れ、という神からの指示なのかもしれない。人間は他人とコミュニケーションを取らないと生きていけない、弱い動物だから。他人という存在と関わらないと、己の存在を立証することが出来ない哀れな生き物だから。
「······よく、わからない」
 随分と間が空いてしまったが、俺は隣の彼に質問の答えを渡した。率直な感想だった。悲しいことが、あったのだろうか。自分のことなのに、本当に何もわからないのだ。
「悲しいことなんて······この世界には溢れるほどにあるだろ? まるで洪水みたいに、突然体を攫われて理不尽の波に呑み込まれて、息も出来ずに沈んでいくんだ」
 俺の口からぽろぽろと零れ出る言葉を、彼は何も言わずにただ黙って聞いている。こんなにもすらすらと吐露しているということは、俺は普段からそう思いながら生きているってことになるのだろうか。何かとんでもなく悲しい出来事を、身をもって経験したのだろうか。何も思い出せないことが歯痒い。
 隣の彼も、俺と同じことを思ったのだろうか。「そっか」と呟き、少し顔を俯かせながら言葉を続けた。
「君には何か悲しいことが起きて、そして世界に絶望してしまったんだね。生きる意味を、価値を、何処かに落としてきてしまったのかな。いや······波に、攫われてしまったのかな。でもね」
 彼は俯かせていた顔を上げ、初めて俺の方を見た。真正面から見た彼の顔は、やはり見覚えのあるもののような気がした。喉まで出かかってる感じがするのに。もう少しで、霧が晴れて正体がわかりそうなのに。あと一歩が、届かない。その一歩が、あまりにも遠い。
「君が思っているほど、世界は酷いものなんかじゃない。確かに、雨の日は多いのかもしれない。そのせいで、溢れた水流が何の前触れもなく君目掛けて襲ってくることもあるだろう。それでも······」
 彼は笑って、正面の窓を指さした。釣られてそちらを見れば、そこには変わらず青い青い空が広がっている。太陽の光が、やけに目に染みる。おかしいな、視界までぼんやりとしてきた。
「止まない雨なんて、ないんだ。いつかは必ず、こんな景色を見ることが出来る。君ならまだ、見ることが出来るんだよ」
 俺は、彼の言葉を聞きながら、彼の顔を見ながら、泣いていた。頭の霧が漸く全て消えそうになってきた今、俺は改めて確信した。俺はこの人を知っていると。とても、とても大事な人だったのだと。喉から飛び出しそうになった名前が、再び奥へと引っ込む。直感的に、名前を呼んだらいけない気がした。名前を呼んでしまったら、今居るこの空間が呆気なく、まるで最初から何も無かったかのようにこの人ごと消滅してしまう気がして。
「君の旅はまだまだ、きっと気が遠くなるほど長いよ? だから、こんな所でいつまでも立ち止まってたらいけないよ。前に向かって進んでいけば、いつかは雲を抜けて太陽の下に辿り着けるんだから」
 彼は······彼は、俺の頭に手を置き、戯れのように髪をクシャッと軽く掴んだ。
「僕のことを忘れろなんて言わないし、言えない。だってその傷は、君が旅を続けてきた中で負ったものだから。その痛みや悲しみまで含めて、君の“人生”だ。だから······そのまま、いつまでも大事にしてもらえると嬉しいな」
 頭に置かれた手が離れていく間際、その腕を両手で捕まえた。縋るようにギュッ、と力を込める。名前は······やっぱり、呼べなかった。
 ――ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタン、ゴトン、ガタ、ン······ゴト、ン······。
 電車の速度が緩やかに落ちていくのがわかる。どうやらもう、停車駅に到着するみたいだ。
 プシュー······という音を立て電車は完全に停車した。それを確認すると、彼は椅子から立ち上がった。
「それじゃあ、僕はここまでだから」
「······っ! あの、さ!」
 俺は必死の思いで、声帯を震わせ声を振り絞った。
「ずっと、ずっと言いたかった。······ごめん。それと······本当に、ありがと」
 彼はほんの少し目を瞠って······それから、俺のよく知るあの穏やかな笑みで言う。
「僕も、ずっと言いたかった。······いつまでも元気でね!」
 そうして彼は、進行方向の右手側、いつの間にか開いていたドアの方へと歩みを進めていき。
「じゃあ、僕は一足先に降りてるから」
 彼は最後に一度こちらを振り返り、満面の笑みを向けた。
「またね!」
 そうして彼は電車の外へと出て、ホームに降り立った。それと同時に、電車のドアが閉まる。
 俺は、もう振り向かなかった。改めてきちんと椅子に座り直し、正面の窓の向こうに広がる晴天を眺め······静かに目を閉じ、電車が齎す心地よい揺れにこの身を委ねた。
 ──ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン。
 俺の旅は、まだ続く。彼が歩けなくなった道を、一緒に背負い込んで。これからも、ずっと。

1/31/2025, 6:02:21 PM