この暑さは夏の忘れ物
暦の上では夏は終わり、季節は秋。
それなのに酷暑は継続しており、夜も寝苦しい。
少し動けば、汗が滝のように流れ服を濡らす。
濡れた制服の感触が気持ち悪くてうんざりする。
「そんな不機嫌そうな顔するもんじゃないよ」
冷えたペットボトルが差し出され、視線を向ける。
会釈し受け取れば、彼は満足げに笑った。
ともに過ごせる時間は幸福。
「ま、待って……階段何段あるの?」
「365段。1年、365日賑わうようにって願いが込められてるんじゃなかったかな。」
「ひぇ…挫折しそう。」
関東某所、古くから温泉地として有名な場所に来た。
顔色一つ変えず、階段を登っていく恋人の後ろ姿に待ったをかけた。思わず弱音を吐けば、彼は異変に気付いて振り返り足早に駆け寄ってきた。
平日に訪れたのにも関わらず人気は多い。また急勾配の階段を登ることから息が上がり疲労が溜まっていく。
彼は一体何を見せたいのか。
意図が分からないまま、また階段を登り始める。
「わぁ……綺麗!」
「気に入ってくれた?」
「うん。橋も景色と一体となってていいね」
階段を登り終わり、頂上にある神社に参拝した。
彼に手招きされ案内に従ってついていく。舗装された道を歩く事数十分。陽の光に照らされながら、一面を赤く染める紅葉が目に入った。その側には赤い欄干の橋がある。観光客もおり賑わっていた。
そのなかで、にこやかに笑う恋人の顔色を伺う。
「ねぇ、何で此処に連れてきてくれたの?」
「お詫び。誕生日を祝う事が出来なかったからさ」
「別に気にしてなかったのに……ありがとね」
何だか照れくさくて彼の顔を見れない。
手を伸ばし彼の手を握れば、優しく握り返された。
伝わる温もりが心地よく手を離したくない。
「来年も一緒に来よう。」
黙って頷き返した。
暦の上では秋ですので、紅葉の話をお楽しみください。
名前を呼べば、君が振り返る。
「どうかしましたか?」
「いや、呼んだだけだ」
一瞬虚を突かれたように目を丸くした。
然し程なくして声を潜めて咲う。
何気ない日常の中に
欲しかった幸せは、ここにある
夜の砂浜を歩く。
周囲は夜闇に包まれ、人の気配はない。
打ち寄せる波の音が耳に届く。生温い潮風を浴びながら
ふっと息を吐いた。
この場所は学生時代よく来た場所だった。
勉強も友人たちとの語らいも全部投げ出したい時の
逃げ場所の一つで、日頃の喧騒が遠退いていく感覚に救われていた。
「夜に女性一人で居るのは感心しないよ」
「……折崎くん」
「冬森さん。何か、嫌な事でもあった?」
緩く首を振った。
彼は幻影だ。折崎は数年前、この海で亡くなった。
不運な事故だった。
「それとも、僕に会いに来たの?」
鼓動が跳ね上がる。
目を細める仕草に在りし日の記憶が蘇った。
時の経過を肌で感じ口をつぐみ、ありもしない願望など口にはできなかった。
「会いに来た訳ではないけれど、折崎くんに伝えたいことならあったよ」
好きでしたの五文字が言えず曖昧に微笑った。
伝えられなかった後悔は、今でも胸を燻り続けている。
あなたに近付きたい
他者を拒絶する侘しい背中に手を伸ばす
指先が触れる寸前、手首を掴まれた
私の接近に気づいていなかった彼は動揺し、
視線が泳ぎ挙動不審だ。
「驚いた……君の気配に気付かなかった。」
「ごめんなさい。
あなたを驚かすつもりはなかったのだけど、何をしていたの?」
彼は無言で空を仰ぎ見る。
澄んだ空気のなか、大小さまざまな星が輝いていた。
彼の隣にそっと腰掛ければ、彼は一瞬驚いたあと、綻んだような笑みを浮かべる。
思わずつられて私も笑ってしまう。
感情を表に出そうとしない彼が笑ってくれるだけで
幸福に満たされる。
それがたまらなく嬉しい。
「一人で星を見ていると落ち着くんだ。」
「そうなの? ……なら、邪魔しちゃったかしら?」
「いや、隣にいてほしい。一緒に観たい。」
耳元で甘えた声で囁かれ、頬が熱い。
気恥ずかしさから顔を背ければ、隣から視線を感じる。
物言わぬ圧に耐えきれず距離を取ろうとすれば
抱きすくめられた。
腕に籠もった力が執着を感じさせ、呼吸すらも奪う。
「……逃さないよ。」
らんらんと漆黒の瞳を輝かせて、私を見下ろす。
その瞳は獲物を見つけた捕食者のようで、逃げられない。
食われてしまう。
そんな事を考えながら、下りてくる唇を受け入れた。
一度あげましたが、加筆修正しました