「雪を待つ」
待ってない。
もう最初から、全否定だ。私は、雪なんか待ってはいない。
私は、ウインタースポーツをやらない。私をスキーに連れてってと言ったことも、言われたこともなければ、彼女が水着に着替えたりすることもない。冬はコタツで丸くなる超インドア派だ。でもスキーで、脚を揃えてザザーっと横滑りで止まるのにちょっと憧れる。やっぱり誰か連れてって。
でも今年は雪が降らなくて、スキー場は大変らしい。
雪を人工的に降らす機械を、人工降雪機という。低温の大気中に水を噴射して、人工的に雪を降らし、積雪させるのだ。
私は細かい氷を散布いているのかと思っていたが、砕氷して微細な氷結晶を雪として散布するのは人工造雪機と言って、別の機械らしい。世の中にはいろんな機械があるものだ。
スキーやスノボは近代な娯楽なので、雨乞いのように、神主さんが榊を振って、神様に降雪をお願いすることも、近代以前にはあまりなかっただろうと思う。
ちなみにその雨乞いだが、科学の力で雨を降らす研究が進んでいるらしい。晴天時に雨を降らすことは難しいが、雨雲から人工的に雨を降らすことは、できるところまできているのだ。
北京オリンピックで、開会式当日に雨が降る予報だったので、式の数時間前に、北京周辺の雨雲から前もって人工的に雨を降らせておき、開会時には見事晴天になった話は有名だ。知らんかったけど。
そのうち雨でも雪でも、何もないところから人工的に降らすことができるようになりそうだ。そうなれば、神様のお仕事が、また一つ減ることになる。
科学が神に変わる時代。
本当に来るかもしれない。
「愛を注いで」
注いでいる。めっちゃ注いでいる。なんなら溢れるくらい注いでいるつもりだ。
でも娘には、この思いは伝わらない。
愛を注ぐとは、なにも喜ぶことをしてあげることだけではない。過保護にならないように、過干渉にならないようにと、娘の要求を却下することもあるし、時に放っておくことも必要だと思う。
ただでさえ、多感な年齢だ。親に反発もしたくなるだろう。
なので私は、最初から思っている。娘が私の気持ちを理解するのは、まだ先の話だと。
どんなに娘のことを思っても、どんなに娘のためになることでも、本人にはそれがわからない。当然だ。娘にとって、毎日が未経験の連続だからだ。
親は知っている。自分が手痛い思いをし、後悔をし、こうすればよかったとか、ああすればよかったとか、経験で知っているのだ。
でも子供は違う。そんな簡単なこと、ちょっと考えればわかるでしょう?はわかりません。わからないから失敗するのだ。親はそれを見守っていればいいのかなと思っている。
失敗から学ぶことは、親が手を貸してあげるより、よほど本人のためになるはずだと思うから。
なので親の気持ちなんて、娘が親になるまでわからないと思っている。
生まれた時から今まで、傍若無人で、理不尽で、自分勝手で、わがままで、甘えん坊で、お腹が空いては泣き、眠くなっても泣き、そのくせ、Youtubeばかりみて宿題は後回しだわ、制服は脱ぎっぱなしだわ、洗濯物は出しっぱなしだわ、誰もいないのに電気は消さないくせに、やれ夕飯はマックがいいだの、魚と野菜は嫌だの、デザートがないだの、挙句の果てに「今日は疲れたから早よ寝るわ」って、何様だ。
そんな娘を毎日毎日、朝は起こして、弁当も朝食も作って、洗濯もして、お風呂も洗って、トイレ掃除もして、掃除機をかけて、仕事に行って、帰りに買い物に行って、洗濯物を取り込んでたたんで、ご飯の用意をして、保育所に迎えに行って、習い事も送迎して、熱がでたら仕事を休んで、アイスも買って、お風呂に入れて、宿題を見てあげて、寝かしつけをして、明日の弁当の用意して、連絡帳にサインしながら、何か忘れてないか、いや何かあったような気がすると思いながら、明日も頑張るのだ。それが親だ。
そして娘が親になって、同じように子供のために頑張ったとき、ふと「ああ、親って大変なんだね、あの時はごめんね」とわかってくれると思う。
それまでは、拒否られようと、返事がなかろうと、イラつこうと、手を挙げそうになろうと、自分にできる精一杯の愛情を注ぐのだ。
娘よ。私のかわいい娘よ。
頼むからゴミは分別して出しておくれ。
「仲間」
仲間といえば、仲間由紀恵だ。
えっそこ?と思われる方もいらっしゃると思うが、そこである。お題だから、仕方がない。
かつて5代目「きれいなおねえさんは、好きですか」として、お茶の間の男性陣を魅了した彼女。しかしその職歴は、リクルートエージェントも真っ青の、転職履歴である。
時に売れない貧乏マジシャンだった彼女は、なんでこのクラスだけ?と思わずにはいられない白金学院高校の教師に転職。生徒を「お前ら」と呼ぶ、暴力教師になっていた。ちなみに教え子の中の一人は、鎌倉殿を支えた北条義時である。あの腹黒さは、ここで学んだのか?
その後しばらく主だった定職にもつかず、ふらふらしていたかと思えば、いつのまにか、警視庁の内閣情報官という、超超スーパーエリートまでのしあがった切れ物ぶりである。紅茶の回で書いた、右京さんとも顔見知りだ。
だがそんな彼女も、実は twitter で、毎日反省会が行われたほど注目された、某国営放送で放送された沖縄料理屋の娘を持つ、良き母でもある。
歌手に転職した際、シングル7枚を出すが、ヒットに恵まれず、泣かず飛ばずだった。しかし沢口靖子よりは、マシな歌唱力を持つ。オリコンチャートは、70位が最高だ。
私は、割と好きな女優さんなのだが、皆さんはどうだろうか?
ちなみに今回の執筆内容は、全てwikipedia に載っている。
「部屋の片隅で」
一人の時間は、とても大切だ。
私はたいてい、日中を一人で過ごす。人と会う予定がないわけではないが、毎日ではないし、連絡事項も、基本メールで済ましている。娘も16時ぐらいまでは学校から帰ってこないので、それまでは私一人の時間だ。
部屋の片隅にPCを置いていて、考えごとや創作は、そこでする。まとまらなければ、ソファにも移動して、気分転換に本を読んだり、3DSでドラゴンクエストⅡをしたりする。そしてまた、思い立ったかのように文章を書く。そんな生活だ。
「一人になりたい」といった他人との関わりを持ちたくない心の状態を、心理学では「親和回避欲求」と呼ばれている。他人がいると感情がうまく整理できない、落ち着かないなど、他人を拒否する欲求だ。
その親和回避欲求が出やすくなる大きな理由が、日々のストレスだと言われている。
毎日の通勤。職場での人間関係、働いても上がらない賃金などなど、世の中はストレスで溢れている。いや溢れているなんてものではなく、人によっては洪水、氾濫といった災害レベルだ。
うつ病を心の風邪と表現したのは、厚労省だ。誰でもなるかもしれないよという啓蒙には役に立った表現だったが、一般の風邪と違うのは、完治しないこと、再発率が高いこと、そして場合によっては自ら死を選択することもあるということだ。
部屋の片隅で、一人になって脳を休める。趣味に没頭してもいいし、何もしなくてもいい。
いや、何も部屋の片隅である必要はない。散歩やランニングなどの有酸素運動は、うつ病の発症抑制や治療に効果があることがわかっている。周りに他の客がいたとしても、一人カフェでお茶もいいらしい。
心がいっぱいいっぱいになる前に、何もせず、ぼ〜っとしよう。
あなたは一人の時間、取れてますか?
「夢と現実」
プリキュアになりたい期が終わった頃、娘の次の夢は、アイドルになることだった。
なんちゃらよんじゅうろくだか、はちだか、というグループに入ると、CDを売ったらたくさんの人と握手をしなければならないという過酷な職業だが、大丈夫だろうかと心配したものだ。
娘よ。アイドルがクイズ番組で、小四レベルの漢字問題を珍回答しても、笑って許してもらえるのは夢の中だけで、現実は期末テストで欠点を取らないことの方が重要だ。
高校で追試を受けてなんとか卒業させてもらった私が言うのもなんだが、成せばなるぞ。寝るな。諦めるな。
ちなみに、期末試験には出題されないが、キリンの夢を見るのは、運気上昇の暗示らしい。長い首で、遠くまで将来を見通せるからだそうだ。
逆に首が短いキリンの夢は、物事を見通す能力が低い状態を暗示しており、短期的な利益や都合だけにこだわっていると失敗するので注意せよとのこと。
いや、首の短いキリンって何?と思われるかもしれないが、夢占いではそうなのだ。私のせいではない。だいたい、キリンがでてくる夢を見たことある人っている?
そんなことより、ぐうぐう寝ているが、明日の英語は大丈夫か?
見るなら、首の長いキリンの夢だぞ。